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第3章 恋に秘された輪奈

6.

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 くちびるが触れたのは一瞬で、ヴァンフリーは顔を上げると薄らと笑みを浮かべ、行くぞ、と凪乃羽の手を取って、かがめていた背中を伸ばした。ヴァンフリーから手を引かれて庭園のなかを進み、木々の茂る森を目指す。
「ラヴィのお父さんはマジェスっていうの? 何番の人?」
「一番だ」
「魔術師?」
 目を丸くしてヴァンフリーを見上げると、実際は違う、と、カードの呼称を本気にしている凪乃羽に呆れ半分おもしろがって否定した。
「マジェスは四元素を操り、シュプリムグッドを組成している。ラヴィの母親、プリエスは皇帝の妹で――彼女は二番の女教皇だが――その夫であるマジェスは皇帝の義理の弟という立場だ、人間的に云えば。皇帝が命《めい》を出し、それを動かすのがマジェスで、助言者のような役割も果たすが、皇帝の小間使いだとプリエスはいつも愚痴をこぼしている」
「プリエスの役割は何?」
「史実を記し、学識を広める」
 続けて、それにしても、と言葉を切ったヴァンフリーは難解ごとを抱えているような面持ちで首をひねった。凪乃羽もまた釣られたように首をかしげる。
「ヴァン、どうかした?」
「つい先刻まで――外に出たいと聞くまで、凪乃羽はシュプリムグッドにそれほどの関心はないのだと思っていた。いまのいままで、周りのことにもまったく興味を示さなかっただろう」
「いろんなことでいっぱいになってて、余裕がなかっただけ」
 それとは別に知りたくなかったという事情もあった。ラヴィのことだ。
 はじめてラヴィにあったとき、ヴァンフリーの妹かと思ったけれど、会話を聞いているうちに兄妹ではないことは察していた。妹であってほしかったというのは、まるきり凪乃羽の都合だ。
 ヴァンフリーが云う『失言』からすれば、その腕に抱きあげた女性は『大抵』と云えるほど存在したわけで、それは凪乃羽が生まれるずっとまえのことかもしれず、嫉妬するなど意味をなさない。それでも妬心が芽生えるのは恋のなせる技だ。
 ただ、目に触れないのならおさまるものも、しばしば会うとなるとわだかまりが解けきれない。しばしば会うのはラヴィにほかならず、なんの根拠もないのに、ラヴィが『大抵』のなかの一人だと凪乃羽が勘繰ったのは、いわゆる女の勘だ。
 限りのある凪乃羽の時間と、ラヴィの永遠の時間は比べようがなく、ラヴィが自分のことを心が広いと主張していたのは、いまは凪乃羽に譲ってもまた取り戻すという意味に違いなかった。永遠の隙間の時間しか凪乃羽にはない。
「その余裕が悪いようにならないことを願ってる」
「どういう意味?」
「今日のように独断で動いたすえ、面倒に巻きこまれる事態を自分で招くなということだ」
「今日は面倒なんて起こしてない」
「自覚がない。おれが家のなかに客を通すとしても、応接の広間のみと制限している。それが上人でも同じだ。なんのためだと思う? おれの領域に影になって踏みこませないためだ。そうやって凪乃羽をかくまっているのに凪乃羽はまったく無駄にしている」
 そこまでは思い至らなかった。外に出るときは自分が連れていくと主張したヴァンフリーの言葉を思いだしながら、凪乃羽はきまり悪く口を開いた。
「故意に面倒を起こそうとしてる人はめったにいないと思う」
「それなら云っておこう。おまえにはそうおれを信じさせる義務がある」
「義務?」
「おれに無駄な心配をさせたいのか?」
「そんなことない」
「――と云ったことを自覚しておけ」
 義務があるなら権利はなんだろう。凪乃羽はそんな疑問を感じつつ森のほうへと歩きながら、わだかまりをなくせばラヴィとの付き合いもらくになるかもしれない、とそう思ったら――
「ヴァンとラヴィは従兄妹になるよね? 同い年なの――って訊いてもしょうがない気はするけど……ずっと仲がいいの?」
 と、訊ねていた。
 歩きながら見上げたヴァンフリーは、ちらりと凪乃羽を見下ろしてまた前を向く。そのくちびるに笑みが形づくられる。どういう意味だろう。
「おまえの認識では『いとこ』になるだろうな。ただし、云っただろう。長い時をすごしているうちに血の繋がりへのこだわりは薄れている。仲がいいというよりは、必然的に一緒にいることは多かった。ウラヌス邸を築くまで、アルカヌム城で一緒に暮らしていた」
「一緒に……」
 無意識につぶやくと、今度ははっきりとヴァンフリーのくちびるに笑みが浮かんだ。可笑しそうというよりも、楽しんでいる雰囲気だ。
「なるほど。明確にしたほうがよさそうだ。たとえ、おまえが気に喰わないことでも」
「明確に、ってなんのこと?」
「おれが生まれた遥か昔のことを云えば、ラヴィもエロファンもおれよりも十年くらいさきに生まれている。同年代なのはおれたち三人だけで、二十二人の上人のなかでおれは最も若いということになる。いまになれば、十年ほどの差などないに等しい。その遙か昔に、従姉弟という以上の関係になったことはある。いうならば、ラヴィから快楽を教わり、堪能していた。気にしているのはそこだろう?」
 そのとおりだけれど、認めるには抵抗を感じて、その気持ちが返事をためらわせたすえ、またヴァンフリーをおもしろがらせた。
 遙か昔のこととはいえ、ヴァンフリーが打ち明けたことは、嫌だとしか思えない。ましてや、はっきりしてしまえばラヴィに太刀打ちできるとは思えず、ますます自信がなくなる。
「そういう関係じゃなくなったのは、ラヴィに飽きたから?」
「縛られたくないからだ。永遠は長すぎる。ラヴィは愛を司り、人同士を結びつける。そのせいか、人の気持ちを操ろうとする嫌いがある。快楽に関しても奔放で、おれの身が持たない」
 思わず凪乃羽はヴァンフリーを覗きこんだ。その意味に気づいたのだろう、ヴァンフリーはにやりと口を歪めた。
「おれは愚かな自由人だ。主導権を持つほうが合っている。主導する立場にいるかぎり、限界はないが」
 ヴァンフリーは思わせぶりに凪乃羽を見下ろした。
 毎日、ふたりは同じベッドで眠りながら、ただ眠るだけで終わった日はない。凪乃羽にはヴァンフリーとしか経験のないことで、基準はよくわからないけれど、身が持たないほど奔放とはどういうことだろう。
「やっぱり……」
「やっぱり?」
「神話と大して変わらない気がする。上人には気を遣わなくちゃいけないし、気を遣われてあたりまえだと思ってるし、人よりわがままで快楽ばかり追求してる」
「その上人を前にしてよく云う」
 ヴァンフリーはひとしきり笑った。
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