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第3章 恋に秘された輪奈

4.

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 中身が空っぽの人形を運んでいるように、ヴァンフリーは易々と凪乃羽を抱えあげたまま進んでいく。
「ヴァン、歩けるからおろして!」
 半ば責めるように頼むと、ヴァンフリーはぴたりと止まって凪乃羽を見下ろし、怪訝そうに眉をひそめる。
「大抵はこうすれば至福を感じるらしいが……おまえはおれを恋いながらなぜ甘やかされるのを拒む?」
 大抵は、とその言葉に引っかかってしまったのは、恋する気持ちがあるからこそに違いなく――
「おろしてください」
 凪乃羽は静かに云いつつ、断固として放った。
 ヴァンフリーは何を感じたのか、つと目を逸らしたあと、ひと呼吸する間もなく目を戻して短く息を吐き、それから身をかがめて凪乃羽をおろした。
「どうやら、おれは失言したようだ」
 躰を起こしながら、ヴァンフリーはくちびるを歪めて凪乃羽を見やった。やはりヴァンフリーは愚か者などではなく、むしろ回転が良すぎる。
「いくら神様みたいでも、清廉潔白だとか禁欲しているとか思ってない。ギリシャ神話だって、神様はわがままで公明正大でも慈悲深くもないから」
 少々つっけんどんな云い方になったかもしれない。それは恋しているがゆえの嫉妬心だというのは認めざるを得ない。ヴァンフリーの歪んだくちびるが、はっきり可笑しそうに変化した。凪乃羽はばつが悪くなって、その眼差しから逃れるように目を伏せた。
「ギリシャ神話は物語だ。地球にとっての神はタロしかいない。無論、シュプリムグッドにとってもそうだ」
 ヴァンフリーは容赦なく凪乃羽の詰めの甘さを突いた。むっとした気分そのままに、伏せていた目を上げ、ラヴィのしぐさを思いだしながら顎をつんと上げた。
「云い変えます。失言じゃなくって、無神経。ヴァンは何歳かわからないくらい生きてるんだから、いろんなことあったってことくらい見当はつく。わたしは二十一年しか生きてないけど、子供じゃないから。独りで、自分で歩ける」
「そうなのか? 数日前までエロファンにもラヴィにもおどおどして、おれの後ろに隠れるようにくっついていたはずだが……おれの勘違いだったようだ」
 ヴァンフリーは自分の非のように云いながら、凪乃羽を揶揄しているにすぎない。
「でもセギーには普通にできてる。アルカナって呼ばなくちゃいけない人はどんな力を持っているのか、正体がわからないから怖くてあたりまえじゃない? ヴァンは簡単にいなくなって、どこかに行けるんでしょ。車が不便だって云ったときは意味わからなかったけど、いまはわかる。わたしにはできない」
 凪乃羽が云い募ると、ヴァンフリーの顔色が変わった。
「避けられない害を凪乃羽が被るかもしれないとわかっていながら、そういう力を持つ奴を、おれは、そもそも凪乃羽に近づけない」
 気分を害した声音で一語一語をくっきりと云い、ヴァンフリーは『おれは』と強調しながら脅すようなしぐさで首をひねった。
「守ろうとしてくれてるのはわかってる」
 少なくともいまは――という言葉は控えた。
 それなのに、ヴァンフリーは何かを察している。凪乃羽を探るように見、それから吐息を漏らした。
「何か気にかかることがあるなら話せ。さすがに心を読みとることはできない。それがおれとおまえでも」
「ヴァンとわたしって……?」
「閨事のあと、この国の言葉を話せるようになっただろう。常にではないが、おれの核をおまえの中に注ぎ、侵略すれば、もしくは融合すれば、おまえの躰になんらかの変化をもたらす」
「……躰が熱くなった……そのときのこと?」
 凪乃羽が目を見開いて問い返すと、わずかに顔を斜め向けながらヴァンフリーはうなずいた。
「最初の……はじめて熱くなったときは何も変わらなかったけど」
「シュプリムグッドと地球を繋ぐ“道”を抜けられただろう 」
 すべてが不思議でできているようなこの国に来たのだから、異次元を繋ぐ道を抜けられてもそれは不思議のひとつだ。そんな変化など凪乃羽に気づけるわけがない。
「やっぱり……」
「“やっぱり”なんだ」
「科学的な理屈もなくて不思議なことができるって、やっぱり人間とは云えない。この国にとってアルカナは神様みたいな人でしょ? さっきギリシャ神話は物語だって云ってたけど、二十二人のアルカナは公明正大で争い事もしないの?」
 凪乃羽が訊ねると、ヴァンフリーからは返事に窮したような様子が窺える。そうして苦笑いのような表情を浮かべた。
「凪乃羽はかなめを突いてくる」
「……そう云うってことは争い事があるってこと?」
「表立ってはないが、内に秘めているものはあるだろう」
「それが永久に続くの? エロファンが絶交はうんざりだって云ったとき、他人事だから笑えたけど、表面上の付き合いが永久に続くなんてぞっとしそう。わたしがそうだったらきっと逃げだして、独りこもってる」
 ヴァンフリーは奇妙な面持ちで、「笑いかけてるんじゃなく笑ってただけか」と独り言をつぶやき――
「また独りと云う。おれの存在を無視するとはどういうことだ?」
 凪乃羽に向けてなじるように云った。
「ヴァンは地球に何年いたの?」
 凪乃羽が話題を変えたと思ったのか、ヴァンフリーはしかめ面になる。
「地球の時間でいえば二十年くらいだ。正確には、ずっといたわけではない。こっちと行ったり来たりしていた」
「その間、ずっと二十九歳?」
「ああ、そうだ」
 ヴァンフリーはゆっくりと肯定すると、なんらかを悟ったような気配でかすかに首をひねった。
「わたしは年を取る。時間の流れは変わらないくらいって云ったよね? あと三〇〇〇日したら、わたしはヴァンに追いつく。その倍たったら、ヴァンよりもラヴィよりもはっきり年上に見られる。釣り合わなくなるっていうまえにヴァンは……」
「おれは凪乃羽を見限るって? あり得ないな」
 ためらって、そして認められるのが怖くて口に出せなかった凪乃羽のあとを、ヴァンフリーが継いだ。
「どうして……断定できるの?」
 ヴァンフリーの言葉を聞いても安心はできない。ラヴィが云った、“命が尽きるまで”ヴァフリーの気持ちが持続したら、それだけで幸運かもしれない。けれど、年を取った自分といまのまま変わらないヴァンフリーと、どう想像しても釣り合うはずがなかった。
 未来を見て暗然とする凪乃羽の心境とは裏腹に、ヴァンフリーは可笑しそうにする。人差し指を凪乃羽の顎に当ててすくい、顔を上向けられた。まっすぐに目と目が合う。
「凪乃羽は、だれとも違うからだ」

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