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第2章 過保護な皇子と恋の落とし穴

10.

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 ヴァンが吹くように笑うのを見て、凪乃羽の心情は見抜かれているのだと感じた。
「まさか、自分と比べているんじゃないだろうな」
 やはり、ヴァンはお見通しだ。『まさか』という言葉をどう捉えればいいのだろう。凪乃羽は首を横に振った。
「比べたら無礼だって云われそうだから」
 少し拗ねてしまった気分は、皮肉っぽい言葉になって表れた。ヴァンは今度は声を漏らしながら笑う。
 拗ねた気分は呆気なくしぼんで、かわりにきまり悪くなって凪乃羽はラヴィの姿を追うふりをして目を逸らした。
 いまの言葉がラヴィに届いているとしたら、それこそ無礼だと怒りを買いそうだ。ところが、いるはずのラヴィの姿はなかった。思わず、辺りを見回してみたけれど、どこにも見当たらない。
「ヴァン、さっきの人は?」
「ラヴィなら城に戻った」
「戻ったって消えてるけど……」
「人に見えて人じゃないと云っただろう。さっきおれたちが見ていたラヴィは実体ではない。躰から離脱した影だ」
「……影ってでも……影だからきれいに見せてるってことじゃなくて実際もあのまま?」
「こだわってるみたいだな」
 にやりとしたヴァンはまっすぐに凪乃羽と向かい合う。
「こだわってるってなんの……」
 問いかけているさなかにヴァンは両手で凪乃羽の頬をくるんだ。
「黒髪は濡れたように艶を放って指が戯れたがる。大きな黒眼くろまなこは手が届かないと思うほど底がなく見える」
 ヴァンは云いながら焦点が合わないほど顔を近づけた。そうして鼻を凪乃羽の鼻に擦りつける。戯れるようなしぐさにくすぐったさ半分、凪乃羽は笑う。
「鼻と鼻で触れ合えば、邪気のないおまえの顔が見られて満ち足りる。そして――」
 ――くちびるも、と云いながら軽く口づけて、それから凪乃羽の腰をぐいと引き寄せた。反動で凪乃羽の上体はのけ反り、ヴァンはその胸もとのガウンの合わせ目から手を忍ばせると、ここも、と云いながら胸先を手のひらで弾くように撫でた。そうして、抗う間もなくそこから離れていった手は、さっきの風の悪戯のように簡単に脚の間に忍びこんで花片に触れた。
 あっ。
 小さな悲鳴に紛れて、ここも、とヴァンは囁き――
「真っ赤に染めたくなるほど可憐な誘惑の色をしている」
 と、満足至極な様で、まるで場をわきまえることをしない不届きな君主のようだ。
「ヴァンっ」
「こうも濡れているとぐちゃぐちゃに掻きまわしたくなる」
 寝台からそのまま外に出てきて、いまになってヴァンの言葉が合図だったかのように躰の奥深くから混じり合った白濁の蜜がおりてくる。
「ヴァン、だめ! こぼれちゃいそう」
「おれのしるしだ。魔除けになる」
「魔除けって……」
 どういう意味だろうと考えながら、凪乃羽がとっさに思いついて勘繰ったことは、ヴァンが浮かべた悦楽の笑みが確信させた。ラヴィの言葉を借りれば凪乃羽は自分の“愛人”だということを、わざわざ口にすることなく、しるしによって知らしめるのだ。凪乃羽が下層の民であるゆえに、もっと悪く解釈されれば慰み者だ。
 ヴァンの腕が緩み、凪乃羽は逃れるように一歩下がった。
「わたしが恥ずかしい思いしてもヴァンは平気なの? ただでさえ下層って云われてるのに、ふしだらだって思われる」
「それでいい。さっきラヴィに云ったとおりだ。おまえは辺境からやってきた、国のことも礼儀も知らない愚者だ。そのほうが賢く安泰に生きていける。人がどう思おうがかまわない。それがどれだけ大事だ? 愚者同士、おれとおまえがお互いにわかっていればいい」
「だから、さっき挨拶しようとしたとき、そうするまえに止めたの?」
「それもあるが、どんなに辺境とはいえ仕来りも常識も地球とは違う。おまえは日本式に挨拶をするつもりだっただろうが、シュプリムグッドで上人を目にすれば、人はその場にひれ伏す。許しを得るまでだ。おかしな真似をして地球の人間だと知られるよりは、ばかなふりをしているべきだ。いいな」
 元凶の存在とならないよう、ヴァンは凪乃羽を守るために云っている。それはわかって、わかったからこそ、母親も友だちも知り合いも知り合いではない人も、ヴァンを選んだことですべての存在を捨ててしまったことに気づかされる。自分だけが助かって、いま俄に罪悪感のようなわだかまりが生まれた。恋をした代償はとてつもなく巨大だ。
「わたしはヴァンしか知らないから、わたしをいちばんわかってくれるのはヴァンだけ。お互いにわかっていればいいっていうまえに、ヴァンの云うとおりにしかできない。役に立てることないし、重荷にもなりたくないから」
「凪乃羽が重荷? まさか」
 ヴァンはあっさりと笑い飛ばした。
「おれは気に入っている以上におまえがただ欲しい。重荷など思うわけがない」
 なぐさめるためだけに云っているのではない。なぜなら、ヴァンしか頼る人がいないいま、凪乃羽に媚びるための発言は必要ない。わだかまりはなくならなくても、少し気持ちが軽くなった。
「欲しいものを手に入れるためには手段を選ばない? ヴァンはいつもわたしに選ばせるけど、本当は選ばされてるだけだってわかってるから」
「わかっていながら凪乃羽がそれを選ぶということは、通じ合っているということだ。無理やりじゃない、誘導しているだけで」
 ヴァンは悪びれることもなく身の潔白をのたまう。
「選択の余地がないなかで選ばされるほうがらくなときもあるだろう」
 おれと来るか――背中から滝つぼに沈んでしまう寸前の質問も、選択を迫られたことに違いなく、自分だけが助かることを選んでしまう――とそんな凪乃羽の罪悪感を見越してヴァンはそうしたのかもしれない。否、そうであってほしい。そんな救いを求めてしまう。
 あの瞬間のことが鮮明に浮かんできた。
「あのとき、滝つぼに落ちたとき、さっきのラヴィさん……あ、特別な呼び方ってある?」
「下層の人間は上人を呼ぶときは、はじめにアルカナとつける」
「アルカナ・ヴァンフリー……?」
「――とおれを呼んだら、対等な立場を破棄して徹底的に抱き潰すぞ」
 凪乃羽をさえぎってヴァンは脅しをかけた。加えて、思いがけない言葉に凪乃羽はわずかに目を見開く。
「対等? ……じゃないと思うけど」
「あるいはそうかもしれない。おれのほうがずっとおまえを尊重している」
 ヴァンは凪乃羽が認識していることと逆のことを云った。そんなことはないと否定するべく口を開くよりも早く、そういうことだ、とヴァンは凪乃羽の心を読みとったように断定した。
「それで、滝つぼとラヴィがどういう関係にある?」
「直接関係があるわけじゃなくって、さっきのアルカナ・ラヴィは影だって云ったけど、滝つぼに沈みかけたとき助けにきたのは……あれはヴァンの影? 実体じゃなくても触れられるの?」
「おれの場合は影ではない。おれは放浪者だ。地球に行くには通過点が限られていたが、シュプリムグッドで行けない場所はない。だが、おれ以外の上人は影を飛ばすことはできるが、それは当人が見知った場所に限られる」
「……どっちにしても、やっぱり神様みたい」
「神は唯一、ロード・タロだ。その名残は地球にも残っていただろう」
「名残?」
「ああ。タロットカードという占いは遙か昔から存在したはずだ。カードには我々上人が象徴として連なっている」
 凪乃羽は目を丸くする。そうして、何かにつけヴァンが愚かだと口にすることに気がついた。
「もしかしてヴァンて〇番めの愚者?」
「そうだ」
「アルカナ・ラヴィは六番めの恋人?」
「よく知ってるな。占いでもやってたのか?」
「ううん……夢でフィリルがカードをやってて、それで二十二枚のカード占いがあるのか調べてみたらタロットカードが出てきたから」
 ヴァンはため息をつき、笑った。
「凪乃羽は頭が回るってことを肝に銘じておくべきらしい」
「悪いこと?」
 ヴァンは鷹揚に肩をそびやかして肯定も否定もしない。
「さっき見た夢、一緒にいたはずなのにヴァンが消えたっていう夢だったけど、夢じゃなくて何回かそういうことがあった。あれは本当に消えてたの?」
「ああ。おまえの驚いた顔はある種の快感だった……凪乃羽、どうした?」
 おもしろがっていたヴァンは、急に深刻な面持ちに変わる。凪乃羽の目が急に潤んだからだ。
「もうヴァンがヴァンだってわかってるから、黙って置いていかないで」
 子供みたいだと自分でも思ったけれど、凪乃羽の心細さは突如として最大値に達した。
 ばかなふりをしなくてはならない。そんな制約をかけられ、凪乃羽にとってこの世界は生きにくいということを、さっきヴァンが明確に答えなかったことで裏づけられたからかもしれない。
 ヴァンの中から凪乃羽への“恋”が消えてしまったらどうなるのだろう。
「凪乃羽」
 滲んだ視界越しのヴァンは、刃を突きつけられて立ち往生しているような気配を纏って映る。
「心配するな。おれがおまえを手放すなどあり得ない」
 その言葉を態度で示すように、ヴァンは一歩踏みだして直後、凪乃羽を痛いほど抱きしめた。
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