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第2章 過保護な皇子と恋の落とし穴

8.

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「その名は口にしてはならない。いいか」
 いままでにない威嚇いかくした様子でヴァンは承服を迫った。
 凪乃羽は訳のわからないまま、それを考えることもせずにうなずいた。すると、ヴァンの気配ももとに戻って、おもむろに息をつき口を開いた。
「皇帝の名は禁句だ。父は自分の名に限って耳ざとい。どこまでも聞きつけて、場合によっては相応の報いを受ける。おまえが名を知っているとは思わなかった」
「……夢のせい」
 云いながら凪乃羽はふと、夢は夢ではないのかもしれないと思った。
 夢の中に出てきた名前と立場がまったく同じであること、それを偶然というには奇妙すぎる。
 だとしたら。
 皇帝ローエンとヴァンが違う人物であることははっきりした。似ているはずだ。皇帝がヴァンの父親なのだから。
 消えたというロードの名がタロだとして、それならフィリルはどこにいるのだろう。
「わかっている」
 そうだ。ヴァンはたぶん凪乃羽が見ていた悪夢を知っている。
「ロードの名前は云ってもかまわない? わたしが云った名前で合ってる?」
「合っている。禁句は皇帝の名だけだ」
 凪乃羽に答えながら、ヴァンはかまえたような慎重さを纏う。
「あと一人、夢に出てきた人がいるの。フィリルはだれ?」
「占者だ。運命を見る」
「カードで?」
「そうだ」
「いま、どこにいるの?」
 お喋りではなくても、いったん口を開けば流暢りゅうちょうに言葉を操るヴァンはいつになく端的に淡々と応酬したすえ、急に黙りこんだように見えた。考えているのではなく、知っているのに口を噤んだといった気配だ。何かを隠している。あるいは、感情を押し殺しているようにも見える。どっちだろう。
「ヴァン?」
「彼女がどこにいるのか、おれにはわからない」
 だれならわかるのだろう。わかる人は別にいる。そんな口ぶりに聞こえた。
「ヴァン、わたしが見た夢は……本当にあったことなの?」
「だれかが見せた夢だろう 。おれにはわからない」
 ヴァンはどんな夢か、詳しく訊きだすこともしない。それなのに『わからない』と云いきる。『だれかが』と云いながら、それがだれかを知っているようにも聞こえる。
 急に歯切れが悪くなったと感じるのは、この話題のせいなのか。
「夢の正体は恋だって云ったくせに」
 凪乃羽は少し横道に逸れてみた。
 すると、ヴァンは凪乃羽の手を自分の腕から外して歩きだした。凪乃羽を置いてけぼりにして階段をおり、さっさとまっすぐに庭園に入っていく。
 何が気に障ったのだろう。
「ヴァン!」
 凪乃羽は追いかけるのではなく呼びとめた。その足を止めてくれるのか。その不安は一抹いちまつで、ヴァンはまもなく足を止め、振り向いたそこから凪乃羽を捕らえた。
 さっきまでの、身を守るべくかまえたようにしていたこわばりが消え、ヴァンは口角を片方だけ上げて可笑しそうにした。
「恋だろう? おれに会って見るようになった夢だ。そして、叶ったとたん見なくなった。違うか? 口説き文句ではなかった、という潔白を求められても困るが」
 最後、しゃあしゃあと云ってのけ、ヴァンは首をわずかに傾けた。恋か否か、ついてくるか否か、選択を迫っている。凪乃羽に選ばせているようで、二つしか選択肢がないことは即ち、自分の思うように事を運ばせるためだ。
 わかっていても、凪乃羽には選択するまでもなく選ぶしかない。さっき置いてけぼりにしたことはヴァンの計算に違いなかった。だれも知る者がいない世界で、唯一知っているヴァンは凪乃羽の身も心も、そしてこの世界の人間ではないという正体も知り尽くしている。そのヴァンに置いていかれたら、立ちすくんで一歩も歩みだせない気がした。それくらい心細かった。
 凪乃羽は一歩踏みだしてヴァンのもとに向かった。
 歩きだすと、室内とは違い、風に揺られて羽織っただけのガウンが足もとに纏わりつく。ヴァンの視界にじっと捕らえられているという気恥ずかしいような居心地の悪さは、一陣の風によって気を逸らされた。階段を降り始めてすぐ、わずかに方向の変わった風が吹いて、合わせた前身頃の隙間に吹きつけた。ガウンが捲れて太腿まであらわになったところで凪乃羽は慌ててそこに手をやった。
 顔を上げてヴァンを見ると、口を歪めた微笑に合う。
「……見えなかったよね?」
「隠す間柄でもない。むしろその手は邪魔だ」
 歪んだ微笑を見て凪乃羽が勘繰ったことは、その言葉で裏付けられた。ヴァンが凪乃羽を置いてけぼりにした理由はもうひとつそこにあったのだ。
「若いのは見た目だけで、やることはやっぱりオジサンっぽい」
「おまえより長く生きていることは確かだ。かわりに、だれよりもおまえを守ってやれる。無聊ぶりょうのなぐさめだ。刺激をくれてもいいだろう」
「無聊? 退屈しないんじゃなかったの?」
「永久を退屈とは思わないと云っただけだ。寿命があっても退屈だと思うときがあるだろう。そこになんらかわりはない」
 ヴァンの傍に行くまで、凪乃羽からその瞳が逸れることなく、立ち止まったとたんヴァンは身をかがめた。陽の光を浴びた銀髪が風によって艶やかにはためく。見惚れたさなか、ヴァンの顔は斜め向いてくちびるが触れ合った。
 くちびるを押しつけてはくっついたくちびるが離れる寸前まで浮かし、そして少し位置をずらしながらまたぺたりと触れる。何度かそうしたあと、凪乃羽のくちびるの間に舌を滑らせて、それからヴァンはゆっくりと躰を起こした。
 閉じていた瞼を上げるとヴァンの伏せた目と合う。それが憂いを帯びているようでいながら魅惑するようで、口を開きかけた凪乃羽は何を云おうとしたのか忘れてしまう。
「ロードの目も畏れず、陽の下でご遊戯なんて上人の素行はもう末期ね」
 凪乃羽の声でもなければもちろんヴァンのものでもなく、明らかに女性という声の主は出し抜けに現れた。
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