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第1章 恋は悪夢の始まり
5.
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*
決着は自分でつけろ。
古尾の言葉の意味がなんとなくわかってきたのは三日後だ。
週一回の講義は木曜日で、講演会があった土曜日から水曜日の今日まで、一切、古尾からの連絡はない。
土曜日はレストランを出ると、凪乃羽だけタクシーに乗せて帰らせた。古尾の会社は仕事柄土日が休みというわけではない。タクシーのドアが閉まる間際、バイトは明日からだ、と云われていたが、日曜日、凪乃羽が会社に顔を出さなければ電話をして行かないと連絡することもしなかった。催促の電話が来るわけでもなく、古尾は仕事を手伝えと云ったくせに、それを放っておく。
つまり、来るか来ないか――もっと云えば、古尾と親しくなるか否か、その結論を凪乃羽にゆだねているのだ。
「お母さん、この人、知ってる?」
夕食を取りながら、向かい合って座った母の知未にチラシを差しだした。
講演会のチラシには、わずかに斜めを向いた古尾が写っている。知未はダイニングテーブルに身を乗りだすようにしてチラシを覗きこんだ。
「知らないわ」
と首をかしげた知未は嘘をついているふうではない。夢はやっぱり夢なのか。チラシを手に取ってしげしげと見つめると。
「ずいぶんと見栄えのいい人。一度会ったら忘れない感じだし、芸能人じゃないのよね?」
「そこに書いてあるでしょ。イベントプロデューサー。芸能界との繋がりはあるけど、芸能人じゃない。三年になって、新しい講義を受けてるって云ったの憶えてる? その特別講師の人」
「そうなの? ラッキーね」
チラシから顔を上げた知未は能天気な様子でおもしろがっている。
「古尾先生の会社でアルバイトしないかって云われてる」
「あら、目をかけられてるの?」
「それはよくわかんないけど」
知未に云われて気づいた。ひょっとしたら古尾は誰彼かまわず声をかけて、いわゆる軟派な人で、凪乃羽はそのうちの一人にすぎない。だから電話もよこさないで凪乃羽が決着をつけるのを待っている。
「いいんじゃない?」
やっぱり無視しておこう。そう思った矢先、知未が勧めた。
「大学の講師に呼ばれるくらいだから身持ちもしっかりした人だろうし、就職前にいい社会勉強になるんじゃない?」
いま疑ったばかりだったが、確かに知未の云うことのほうが真っ当で、古尾が立場を考慮せずに軽薄に振る舞うはずがない。
「そうだよね」
少し心が軽くなったような気になって、凪乃羽は自ずと決着をつけていた。
知未はさすがに母親で、迷いとか悩みとか、凪乃羽が口にすればかけてくれる言葉が自然と解決したり導いたり、後押ししてくれる。
父親は凪乃羽の記憶がない頃に亡くなっていて、飾ってある写真の中の姿しかわからない。そんな確かなものがあっても、凪乃羽は父親の姿を一向に憶えられない。夢の中の人は憶えているのに。
一方で、知未は女手ひとつで凪乃羽を育てた。それなりに苦労はあったけれど、父の死は仕事中の自動車事故に因り、補償があって金銭的な苦労はなかったという。そのせいか、どこかのんびりとかまえていて、楽観的なイメージがある。だからこそ、父親がいなくてもさみしいと感じることがないのだろう。
「あ、お母さん、美味しいコーヒー豆のストックある?」
「あるけど……美味しいってどういうこと? お母さんがストックしてるのに美味しくないのはないはずだけど」
知未は顔をしかめた。カフェの裏方で働く知未には侮辱的な言葉に聞こえたかもしれない。
そうじゃなくって、と即座に凪乃羽はなだめた。
「古尾先生がかなりのコーヒー好きみたいだから。人間界最大の発見て云ってたよ」
知未もまた無類のコーヒー好きで、凪乃羽が伝えた言葉に笑いだした。
「それは本物ね。今度いつ会うの?」
「明日」
「じゃあ、挽いておくから明日、持っていっていいわ」
「そうする。ありがとう」
*
木曜日、午後からあった“想像と創造学”の講義を受けたあと、凪乃羽はテキストを片付けつつ、入れ替わりにバッグの中からコーヒー粉を取りだすのももどかしいほど焦りながら教室を出た。
「古尾先生!」
呼びかけても古尾は振り向きもしない。古尾の向こうに見える学生が振り返るくらいだから声は届いているはず。
古尾は教室に入ってくると、いつもならちらりと全体を見まわすのに今日はそうすることなく、そのくせ、凪乃羽がどこに座っているか先刻承知のように講義の間もその方向だけ避けていた。
あからさまだ。古尾が子供っぽいのか、凪乃羽がアルバイトをすっぽかして呆れさせたのか。それとも、アルバイトに行かなかったことで、それが凪乃羽の決着だと結論づけたのか。
凪乃羽は小走りになって、歩幅の広い古尾に追いつき、追い越してから正面にまわりこんだ。
「古尾先生、これ、いりませんか」
コーヒー粉の入った袋をかかげると、古尾の足が止まる。
よほどコーヒーが好きらしい。わかっていたことだけれど、凪乃羽ではなくコーヒーが優先されているようで納得がいかない。
やはり、凪乃羽ではなくてもかまわず、次から次に獲物を探しているのか。ひょっとしたら、古尾にとって凪乃羽がレストランでなびかなかったことのほうがめずらしいパターンで、プライドが傷ついた結果、無視しているのか。
古尾はコーヒー粉から目線を上げて、ようやく凪乃羽を視界におさめる。意識せずにはいられないほど鼓動がせわしくなる。不安からくるものではない。
それなら?
「これがおまえの決着のしるしか」
自分への疑問と同時に古尾が訊ねた。
じっとしていられないような気分でどきどきしながら、凪乃羽はこっくりとうなずいた。
「キャンセルはなしだ」
云いながら、古尾はふたりの距離を詰めて、土曜日のときのように凪乃羽の背中に手を当てて方向転換させた。
「まずは、そのコーヒーを飲ませろ」
決着は自分でつけろ。
古尾の言葉の意味がなんとなくわかってきたのは三日後だ。
週一回の講義は木曜日で、講演会があった土曜日から水曜日の今日まで、一切、古尾からの連絡はない。
土曜日はレストランを出ると、凪乃羽だけタクシーに乗せて帰らせた。古尾の会社は仕事柄土日が休みというわけではない。タクシーのドアが閉まる間際、バイトは明日からだ、と云われていたが、日曜日、凪乃羽が会社に顔を出さなければ電話をして行かないと連絡することもしなかった。催促の電話が来るわけでもなく、古尾は仕事を手伝えと云ったくせに、それを放っておく。
つまり、来るか来ないか――もっと云えば、古尾と親しくなるか否か、その結論を凪乃羽にゆだねているのだ。
「お母さん、この人、知ってる?」
夕食を取りながら、向かい合って座った母の知未にチラシを差しだした。
講演会のチラシには、わずかに斜めを向いた古尾が写っている。知未はダイニングテーブルに身を乗りだすようにしてチラシを覗きこんだ。
「知らないわ」
と首をかしげた知未は嘘をついているふうではない。夢はやっぱり夢なのか。チラシを手に取ってしげしげと見つめると。
「ずいぶんと見栄えのいい人。一度会ったら忘れない感じだし、芸能人じゃないのよね?」
「そこに書いてあるでしょ。イベントプロデューサー。芸能界との繋がりはあるけど、芸能人じゃない。三年になって、新しい講義を受けてるって云ったの憶えてる? その特別講師の人」
「そうなの? ラッキーね」
チラシから顔を上げた知未は能天気な様子でおもしろがっている。
「古尾先生の会社でアルバイトしないかって云われてる」
「あら、目をかけられてるの?」
「それはよくわかんないけど」
知未に云われて気づいた。ひょっとしたら古尾は誰彼かまわず声をかけて、いわゆる軟派な人で、凪乃羽はそのうちの一人にすぎない。だから電話もよこさないで凪乃羽が決着をつけるのを待っている。
「いいんじゃない?」
やっぱり無視しておこう。そう思った矢先、知未が勧めた。
「大学の講師に呼ばれるくらいだから身持ちもしっかりした人だろうし、就職前にいい社会勉強になるんじゃない?」
いま疑ったばかりだったが、確かに知未の云うことのほうが真っ当で、古尾が立場を考慮せずに軽薄に振る舞うはずがない。
「そうだよね」
少し心が軽くなったような気になって、凪乃羽は自ずと決着をつけていた。
知未はさすがに母親で、迷いとか悩みとか、凪乃羽が口にすればかけてくれる言葉が自然と解決したり導いたり、後押ししてくれる。
父親は凪乃羽の記憶がない頃に亡くなっていて、飾ってある写真の中の姿しかわからない。そんな確かなものがあっても、凪乃羽は父親の姿を一向に憶えられない。夢の中の人は憶えているのに。
一方で、知未は女手ひとつで凪乃羽を育てた。それなりに苦労はあったけれど、父の死は仕事中の自動車事故に因り、補償があって金銭的な苦労はなかったという。そのせいか、どこかのんびりとかまえていて、楽観的なイメージがある。だからこそ、父親がいなくてもさみしいと感じることがないのだろう。
「あ、お母さん、美味しいコーヒー豆のストックある?」
「あるけど……美味しいってどういうこと? お母さんがストックしてるのに美味しくないのはないはずだけど」
知未は顔をしかめた。カフェの裏方で働く知未には侮辱的な言葉に聞こえたかもしれない。
そうじゃなくって、と即座に凪乃羽はなだめた。
「古尾先生がかなりのコーヒー好きみたいだから。人間界最大の発見て云ってたよ」
知未もまた無類のコーヒー好きで、凪乃羽が伝えた言葉に笑いだした。
「それは本物ね。今度いつ会うの?」
「明日」
「じゃあ、挽いておくから明日、持っていっていいわ」
「そうする。ありがとう」
*
木曜日、午後からあった“想像と創造学”の講義を受けたあと、凪乃羽はテキストを片付けつつ、入れ替わりにバッグの中からコーヒー粉を取りだすのももどかしいほど焦りながら教室を出た。
「古尾先生!」
呼びかけても古尾は振り向きもしない。古尾の向こうに見える学生が振り返るくらいだから声は届いているはず。
古尾は教室に入ってくると、いつもならちらりと全体を見まわすのに今日はそうすることなく、そのくせ、凪乃羽がどこに座っているか先刻承知のように講義の間もその方向だけ避けていた。
あからさまだ。古尾が子供っぽいのか、凪乃羽がアルバイトをすっぽかして呆れさせたのか。それとも、アルバイトに行かなかったことで、それが凪乃羽の決着だと結論づけたのか。
凪乃羽は小走りになって、歩幅の広い古尾に追いつき、追い越してから正面にまわりこんだ。
「古尾先生、これ、いりませんか」
コーヒー粉の入った袋をかかげると、古尾の足が止まる。
よほどコーヒーが好きらしい。わかっていたことだけれど、凪乃羽ではなくコーヒーが優先されているようで納得がいかない。
やはり、凪乃羽ではなくてもかまわず、次から次に獲物を探しているのか。ひょっとしたら、古尾にとって凪乃羽がレストランでなびかなかったことのほうがめずらしいパターンで、プライドが傷ついた結果、無視しているのか。
古尾はコーヒー粉から目線を上げて、ようやく凪乃羽を視界におさめる。意識せずにはいられないほど鼓動がせわしくなる。不安からくるものではない。
それなら?
「これがおまえの決着のしるしか」
自分への疑問と同時に古尾が訊ねた。
じっとしていられないような気分でどきどきしながら、凪乃羽はこっくりとうなずいた。
「キャンセルはなしだ」
云いながら、古尾はふたりの距離を詰めて、土曜日のときのように凪乃羽の背中に手を当てて方向転換させた。
「まずは、そのコーヒーを飲ませろ」
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