皇子は愛を秘匿できない~抱き溺れる愚者~

奏井れゆな

文字の大きさ
上 下
8 / 83
第1章 恋は悪夢の始まり

5.

しおりを挟む
    *

 決着は自分でつけろ。
 古尾の言葉の意味がなんとなくわかってきたのは三日後だ。
 週一回の講義は木曜日で、講演会があった土曜日から水曜日の今日まで、一切、古尾からの連絡はない。
 土曜日はレストランを出ると、凪乃羽だけタクシーに乗せて帰らせた。古尾の会社は仕事柄土日が休みというわけではない。タクシーのドアが閉まる間際、バイトは明日からだ、と云われていたが、日曜日、凪乃羽が会社に顔を出さなければ電話をして行かないと連絡することもしなかった。催促の電話が来るわけでもなく、古尾は仕事を手伝えと云ったくせに、それを放っておく。
 つまり、来るか来ないか――もっと云えば、古尾とちかしくなるか否か、その結論を凪乃羽にゆだねているのだ。
「お母さん、この人、知ってる?」
 夕食を取りながら、向かい合って座った母の知未ともみにチラシを差しだした。
 講演会のチラシには、わずかに斜めを向いた古尾が写っている。知未はダイニングテーブルに身を乗りだすようにしてチラシを覗きこんだ。
「知らないわ」
 と首をかしげた知未は嘘をついているふうではない。夢はやっぱり夢なのか。チラシを手に取ってしげしげと見つめると。
「ずいぶんと見栄えのいい人。一度会ったら忘れない感じだし、芸能人じゃないのよね?」
「そこに書いてあるでしょ。イベントプロデューサー。芸能界との繋がりはあるけど、芸能人じゃない。三年になって、新しい講義を受けてるって云ったの憶えてる? その特別講師の人」
「そうなの? ラッキーね」
 チラシから顔を上げた知未は能天気な様子でおもしろがっている。
「古尾先生の会社でアルバイトしないかって云われてる」
「あら、目をかけられてるの?」
「それはよくわかんないけど」
 知未に云われて気づいた。ひょっとしたら古尾は誰彼かまわず声をかけて、いわゆる軟派な人で、凪乃羽はそのうちの一人にすぎない。だから電話もよこさないで凪乃羽が決着をつけるのを待っている。
「いいんじゃない?」
 やっぱり無視しておこう。そう思った矢先、知未が勧めた。
「大学の講師に呼ばれるくらいだから身持ちもしっかりした人だろうし、就職前にいい社会勉強になるんじゃない?」
 いま疑ったばかりだったが、確かに知未の云うことのほうが真っ当で、古尾が立場を考慮せずに軽薄に振る舞うはずがない。
「そうだよね」
 少し心が軽くなったような気になって、凪乃羽は自ずと決着をつけていた。
 知未はさすがに母親で、迷いとか悩みとか、凪乃羽が口にすればかけてくれる言葉が自然と解決したり導いたり、後押ししてくれる。
 父親は凪乃羽の記憶がない頃に亡くなっていて、飾ってある写真の中の姿しかわからない。そんな確かなものがあっても、凪乃羽は父親の姿を一向に憶えられない。夢の中の人は憶えているのに。
 一方で、知未は女手ひとつで凪乃羽を育てた。それなりに苦労はあったけれど、父の死は仕事中の自動車事故に因り、補償があって金銭的な苦労はなかったという。そのせいか、どこかのんびりとかまえていて、楽観的なイメージがある。だからこそ、父親がいなくてもさみしいと感じることがないのだろう。
「あ、お母さん、美味しいコーヒー豆のストックある?」
「あるけど……美味しいってどういうこと? お母さんがストックしてるのに美味しくないのはないはずだけど」
 知未は顔をしかめた。カフェの裏方で働く知未には侮辱的な言葉に聞こえたかもしれない。
 そうじゃなくって、と即座に凪乃羽はなだめた。
「古尾先生がかなりのコーヒー好きみたいだから。人間界最大の発見て云ってたよ」
 知未もまた無類のコーヒー好きで、凪乃羽が伝えた言葉に笑いだした。
「それは本物ね。今度いつ会うの?」
「明日」
「じゃあ、挽いておくから明日、持っていっていいわ」
「そうする。ありがとう」

    *

 木曜日、午後からあった“想像と創造学”の講義を受けたあと、凪乃羽はテキストを片付けつつ、入れ替わりにバッグの中からコーヒー粉を取りだすのももどかしいほど焦りながら教室を出た。
「古尾先生!」
 呼びかけても古尾は振り向きもしない。古尾の向こうに見える学生が振り返るくらいだから声は届いているはず。
 古尾は教室に入ってくると、いつもならちらりと全体を見まわすのに今日はそうすることなく、そのくせ、凪乃羽がどこに座っているか先刻承知のように講義の間もその方向だけ避けていた。
 あからさまだ。古尾が子供っぽいのか、凪乃羽がアルバイトをすっぽかして呆れさせたのか。それとも、アルバイトに行かなかったことで、それが凪乃羽の決着だと結論づけたのか。
 凪乃羽は小走りになって、歩幅の広い古尾に追いつき、追い越してから正面にまわりこんだ。
「古尾先生、これ、いりませんか」
 コーヒー粉の入った袋をかかげると、古尾の足が止まる。
 よほどコーヒーが好きらしい。わかっていたことだけれど、凪乃羽ではなくコーヒーが優先されているようで納得がいかない。
 やはり、凪乃羽ではなくてもかまわず、次から次に獲物を探しているのか。ひょっとしたら、古尾にとって凪乃羽がレストランでなびかなかったことのほうがめずらしいパターンで、プライドが傷ついた結果、無視しているのか。
 古尾はコーヒー粉から目線を上げて、ようやく凪乃羽を視界におさめる。意識せずにはいられないほど鼓動がせわしくなる。不安からくるものではない。
 それなら?
「これがおまえの決着のしるしか」
 自分への疑問と同時に古尾が訊ねた。
 じっとしていられないような気分でどきどきしながら、凪乃羽はこっくりとうなずいた。
「キャンセルはなしだ」
 云いながら、古尾はふたりの距離を詰めて、土曜日のときのように凪乃羽の背中に手を当てて方向転換させた。
「まずは、そのコーヒーを飲ませろ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

『 ゆりかご 』  ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。

設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

処理中です...