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第1章 恋は悪夢の始まり

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 話しかけられていったん古尾に目を向けたものの、思いのほかつぶさに見ている眼差しがあって、凪乃羽は目を伏せた。
「あの……もういいです。べつに……その、古尾先生に近づこうとして適当に云ったわけじゃありません。でも、そういうふうに聞こえるとも思います。自分でもだんだんバカげてるって思えてきたから……」
 一気にとはいかなくても一方的に云ってしまって、あまつさえ緊張しているから、ばつの悪さしかない。それをごまかすように、凪乃羽はまたワイングラスを手に取った。
「適当に云ったんじゃないんなら、もういいということはないだろう。話してみろ」
「でも……現実の話じゃないので、やっぱりバカげてます」
 それに、話しにくいシーンもある。無理やり男女の行為が行われていたなんて、夢であっても、もしそれが潜在意識と捉えられれば凪乃羽の品行が疑われる。
「現実じゃない?」
「……夢を見るんです」
 凪乃羽の発言から適確に言葉をチョイスしていちいち捉えてくる古尾が巧みなのか、結局は打ち明けさせられて、ましてやいざ口にして見ると、やはりそれはひどくばかばかしく聞こえた。
 けれど、古尾は、覚悟していた嘲笑を浮かべるのではなく、反対にごく生真面目な雰囲気で首をひねった。
「夢? どんな夢だ」
「あの……本当に……聞きますか? いま、自分で本当にバカみたいだって恥ずかしくなってます」
「おまえにとって本当にバカなことっていうのは、いまおれとここにいることだな」
「……え?」
 古尾のくちびるはどちらかというと薄めなのに、妙に艶っぽくて、それがわずかに歪めば魅惑される。
「いま以上にバカだと思うことはないと云っている」
 意味も正確に把握できなければ、云い様もひどい。自信があると、人にも容赦なくなれるのだ。
「わたし、アシスタントやるなんて云ってません。インターンも申しこんだ記憶ありません」
 反抗的な気分をそのまま口にしたとたん、取り消したくなる。およそにおいて凪乃羽はそうだ。何かに急かされるように感情を優先したすえ、すぐさま愚かなことをしたと後悔する。今日の講演会で古尾を待っていたことも、結局は感情任せでこの結果だ。
 古尾は挑むように右側の眉を跳ねあげた。
「確かに、決めたのはおまえじゃなくておれだ」
「すみません」
 なぜ謝るのかもはっきりしないまま口にすると、古尾は可笑しそうにした。そこにやさしいような気配を感じて、思わず凪乃羽は目を凝らした。
 すると、いままで黒い髪に黒い瞳だと認識していたけれど、髪の色はともかく、瞳の色が捉えどころのない色をしているように感じた。云うなら、玉虫色だ。
 古尾は瞬きをする。まるで、気づかれては困るかのようなしぐさに感じたのは凪乃羽の考えすぎだろうか。
「いいから夢のことを話してみろ」
 悩み事を相談しにきてもなかなか云いだせない小学生をなだめすかすような口調だ。
 古尾の態度はころころ変わって、玉虫色の瞳と同じだ。
「……笑わないでください。約束はいりませんけど」
 消極的な命令に、古尾はため息をつき、呆れたように首を横に振る。
 ためらいは残るものの、凪乃羽は思いきって口を開いた。
「古尾先生に会った日から、何度も見る夢です。姿の見えない神様みたいな人がいる世界で、見たことのない景色が出てくるんです。着てる服も全然違っていて。そこに出てくる人が……人と云っても普通の人間とは違っていて、何か能力を持ってるみたいなんですけど……人として出てくるのは女の人と男の人だけで、その男の人がなんとなく古尾先生に似てるんです」
「おれに?」
 古尾はびっくりしたふうでもなく、ただ用心深く受けとめている。
「たぶん、別の人なんだと思います。でも似てるんです」
 夢の中の男は古尾かもしれないと思っていたけれど、つい今し方、古尾の瞳を間近に見て違うとわかった。夢の中の人物は、茶色っぽくも色を変えることもない、はっきり漆黒の瞳だった。
 もっとも、いま気づいたからこそ、違うと思うのかもしれない。今日見る夢の中では、男の瞳は玉虫色に変わっていることもあり得る。
「それで、おれに似た男と女はどうした?」
「女の人は樹海に住んでいるみたいで、そこで占いをやっていて……男の人が――皇帝って呼ばれてましたけど、占いをしてもらいに来たのに……」
 そこで凪乃羽はためらった。口に出すことははばかられる。
「何があった?」
 古尾が促す。その声音は慎重そうで、なお且つ、純粋に訊ねるというよりは確かめているような気配がある。
「……はっきりはわかりません。女の人は途中で意識を失って、わたしもそこだけ同化してしまうから」
「つまり、意識を失うようなことがその女の身に起きるんだな」
 古尾はすっかり読みとっているようで、凪乃羽は頭の中を覗かれたような羞恥の念にかられる。そうですとも云えなくて、凪乃羽はまたワイングラスを口につけた。いっそのこと酔っぱらったら、気まずさも感じなくなれるはず。
 けれど、テーブルの向かい側から手が伸びてきて、ワイングラスは取りあげられた。
「皇帝が象徴するものは何か知ってるか」
 古尾は唐突にそんなことを問う。
 凪乃羽は首を横に振った。
「知りません」
「男、だ」
「……だから?」
「おまえの夢の中の皇帝はおれの顔をしている。凪乃羽、夢の正体は、あえていうなら、恋だろう?」
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