上 下
5 / 83
第1章 恋は悪夢の始まり

2.

しおりを挟む
 否定するだけならいい。嗤われただけで傷つくと訴えれば、繊細すぎると片付けられるかもしれない。もしも故意に傷つくように云ったのなら、古尾は尊大だという以上に冷血だ。
 “できる”人だから講義中に時折見せる多少権高けんだかな部分は致し方ないと、さして気にならなかった。いまの古尾は、まったく嫌な人間に成り下がっている。話しかけて、凪乃羽が喜んだことを読みとって、フランクに近づいてみせ、反応を窺いながらもしかしたら内心でおもしろがったり嘲ったりしていたのではないかとも疑った。
 それとも、話しかけるまでは本当に凪乃羽の用事を聞こうとしていたのに、凪乃羽がまるで陳腐ちんぷな口説き文句みたいなことを云ったから牽制けんせいしたのだろうか。古尾なら誘惑はごまんとあるだろう。そういえば結婚しているかどうかも知らない。
 ともかく、誘惑だと勘違いしたのなら、古尾の無神経なしぐさは理解できなくもない。けれど、凪乃羽は至って真剣だった。
「ひどい」
 気づけばそんな言葉を発していた。
 凪乃羽が呆然としているうちに、勝手に缶コーヒーを開けて一口二口と飲んでいた古尾は悪びれることもなくにやりとした。
「お詫びに夕食をごちそうしてやろう」
 古尾は『ひどい』という言葉を“飲み逃げ”のことだと思ったのか、ワンコインとはいえ人のお金を勝手に使いながら、恩着せがましい。
 普段は講義だから真面目に振る舞っているだけで、仕事はできても実はいい加減で鼻持ちならない人かもしれない。
 凪乃羽が答えないでいると、太い首がかしぐ。
「ついてくるか、来ないか、どっちだ?」
 古尾はまたもや二者択一を迫った。
「……いまですか」
「確かに夕食には早いが、待ち合わせとかいう面倒なことをするよりも、いまから一緒に来て、仕事が終わるまで待ってくれるほうが助かる。打ち合わせがあるが、そこに同席してもいい。社会勉強にもなるぞ」
 今度は古尾のほうが凪乃羽を誘惑している。あっさりコインを返せばすむものを、是が非でも凪乃羽を連れだそうと説得しているように感じた。
「古尾代表、車が来ました」
 返事をしないうちに、エントランスのほうからだれかが声をかける。
 凪乃羽に目を留めたまま、わかった、と古尾は応じ――
「行くぞ」
 と、凪乃羽の横に移動したかと思うと背中を押した。
 凪乃羽はつまずきそうになりながら歩きだし、ワンテンポずらして歩き始めた古尾はすぐさま追いついて一歩前を先導していく。ついていく間、一度も凪乃羽を振り返らないのは、ついてくるはずと当然に思っているのか、それとも、そうすることでついていかざるを得ないという心境に及んでしまう凪乃羽の性格を見切って利用しているのか。
 古尾と凪乃羽の接点は週一の授業だけで、これまで大した会話もしたことがない。こんなふうに声をかけてくれたことだけでもびっくりしている。だから、凪乃羽のことなど知らないといっていい程度なのに、見透かされているようなこの感覚はなんだろう。
「その学生さんは?」
 外に出てまもなく、そのさきに止めた車の傍で待機する男性が問いかけた。声を聞けば車が来たと知らせた人だ。凪乃羽が会釈をすると、古尾と同年代だと思われるその男性も軽く頭を下げて応じた。
「アシスタントにした。とりあえずインターンとして受け入れを頼む」
 驚きの度合いは男性よりも凪乃羽のほうが遙かに上回る。頼んでもいなければ、了解も得ず、勝手に決めつけている。さすがに口を開いて抗議しかけたものの、わかりました、という男性の返事のほうが早かった。
 後方のドアがすでに開けられていて、そのドアを支えるように持って古尾は凪乃羽を振り返る。さきに乗れということだろう。逃さないぞといった意志が見え隠れする。
 “飲み逃げ”から始まったことは、最初から凪乃羽をそうするための、すべてが計画のもとの言動なのか――違う、自意識過剰だ。
 凪乃羽の戸惑いをよそに、古尾はマイペースで、いや、それ以上に自分のペースに合わせろといわんばかりで、洗練されたオフィスで古尾の仕事に付き添う間、交わす会話は、そこに座って聞いていろ、とか必要最低限のことばかりだった。
 打ち合わせが終わったあとも社員共々、古尾の仕事が終わる気配はない。外も暗くなってきて帰ったほうがいいのかもしれないと思い始めた頃。
「終わるぞ、今日は解散だ」
 低い間仕切りパーティションはあるが、個室のないオープンなオフィスに、古尾の声が通り渡った。一斉に、ため息やら伸びやらがはびこるなか、古尾は凪乃羽を見てうなずいた。それだけで、行くぞ、と命令を下す。根っからの上に立つ人というイメージが、ますます強くなる。
 案の定、何が食べたいかと聞くこともなく、古尾は凪乃羽をイタリア料理店へと連れていった。案内された個室は、イタリアンには不似合いな、絨毯の上に座布団のある部屋だった。高いだろうということだけは判断がつく。好き嫌いも訊かれず、メニューが適当に決められたことには、腹が立つよりもほっとした。
「それで、おれとおまえが会ったことがある、と思う理由はなんだ」
 食前酒と前菜が据えられ、古尾にならってそのスパークリングワインを一口嗜んだところで、古尾は嗤ってあしらったくせにその話を蒸し返した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

パンツを拾わされた男の子の災難?

ミクリ21
恋愛
パンツを拾わされた男の子の話。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

処理中です...