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第1章 恋は悪夢の始まり

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 否定するだけならいい。嗤われただけで傷つくと訴えれば、繊細すぎると片付けられるかもしれない。もしも故意に傷つくように云ったのなら、古尾は尊大だという以上に冷血だ。
 “できる”人だから講義中に時折見せる多少権高けんだかな部分は致し方ないと、さして気にならなかった。いまの古尾は、まったく嫌な人間に成り下がっている。話しかけて、凪乃羽が喜んだことを読みとって、フランクに近づいてみせ、反応を窺いながらもしかしたら内心でおもしろがったり嘲ったりしていたのではないかとも疑った。
 それとも、話しかけるまでは本当に凪乃羽の用事を聞こうとしていたのに、凪乃羽がまるで陳腐ちんぷな口説き文句みたいなことを云ったから牽制けんせいしたのだろうか。古尾なら誘惑はごまんとあるだろう。そういえば結婚しているかどうかも知らない。
 ともかく、誘惑だと勘違いしたのなら、古尾の無神経なしぐさは理解できなくもない。けれど、凪乃羽は至って真剣だった。
「ひどい」
 気づけばそんな言葉を発していた。
 凪乃羽が呆然としているうちに、勝手に缶コーヒーを開けて一口二口と飲んでいた古尾は悪びれることもなくにやりとした。
「お詫びに夕食をごちそうしてやろう」
 古尾は『ひどい』という言葉を“飲み逃げ”のことだと思ったのか、ワンコインとはいえ人のお金を勝手に使いながら、恩着せがましい。
 普段は講義だから真面目に振る舞っているだけで、仕事はできても実はいい加減で鼻持ちならない人かもしれない。
 凪乃羽が答えないでいると、太い首がかしぐ。
「ついてくるか、来ないか、どっちだ?」
 古尾はまたもや二者択一を迫った。
「……いまですか」
「確かに夕食には早いが、待ち合わせとかいう面倒なことをするよりも、いまから一緒に来て、仕事が終わるまで待ってくれるほうが助かる。打ち合わせがあるが、そこに同席してもいい。社会勉強にもなるぞ」
 今度は古尾のほうが凪乃羽を誘惑している。あっさりコインを返せばすむものを、是が非でも凪乃羽を連れだそうと説得しているように感じた。
「古尾代表、車が来ました」
 返事をしないうちに、エントランスのほうからだれかが声をかける。
 凪乃羽に目を留めたまま、わかった、と古尾は応じ――
「行くぞ」
 と、凪乃羽の横に移動したかと思うと背中を押した。
 凪乃羽はつまずきそうになりながら歩きだし、ワンテンポずらして歩き始めた古尾はすぐさま追いついて一歩前を先導していく。ついていく間、一度も凪乃羽を振り返らないのは、ついてくるはずと当然に思っているのか、それとも、そうすることでついていかざるを得ないという心境に及んでしまう凪乃羽の性格を見切って利用しているのか。
 古尾と凪乃羽の接点は週一の授業だけで、これまで大した会話もしたことがない。こんなふうに声をかけてくれたことだけでもびっくりしている。だから、凪乃羽のことなど知らないといっていい程度なのに、見透かされているようなこの感覚はなんだろう。
「その学生さんは?」
 外に出てまもなく、そのさきに止めた車の傍で待機する男性が問いかけた。声を聞けば車が来たと知らせた人だ。凪乃羽が会釈をすると、古尾と同年代だと思われるその男性も軽く頭を下げて応じた。
「アシスタントにした。とりあえずインターンとして受け入れを頼む」
 驚きの度合いは男性よりも凪乃羽のほうが遙かに上回る。頼んでもいなければ、了解も得ず、勝手に決めつけている。さすがに口を開いて抗議しかけたものの、わかりました、という男性の返事のほうが早かった。
 後方のドアがすでに開けられていて、そのドアを支えるように持って古尾は凪乃羽を振り返る。さきに乗れということだろう。逃さないぞといった意志が見え隠れする。
 “飲み逃げ”から始まったことは、最初から凪乃羽をそうするための、すべてが計画のもとの言動なのか――違う、自意識過剰だ。
 凪乃羽の戸惑いをよそに、古尾はマイペースで、いや、それ以上に自分のペースに合わせろといわんばかりで、洗練されたオフィスで古尾の仕事に付き添う間、交わす会話は、そこに座って聞いていろ、とか必要最低限のことばかりだった。
 打ち合わせが終わったあとも社員共々、古尾の仕事が終わる気配はない。外も暗くなってきて帰ったほうがいいのかもしれないと思い始めた頃。
「終わるぞ、今日は解散だ」
 低い間仕切りパーティションはあるが、個室のないオープンなオフィスに、古尾の声が通り渡った。一斉に、ため息やら伸びやらがはびこるなか、古尾は凪乃羽を見てうなずいた。それだけで、行くぞ、と命令を下す。根っからの上に立つ人というイメージが、ますます強くなる。
 案の定、何が食べたいかと聞くこともなく、古尾は凪乃羽をイタリア料理店へと連れていった。案内された個室は、イタリアンには不似合いな、絨毯の上に座布団のある部屋だった。高いだろうということだけは判断がつく。好き嫌いも訊かれず、メニューが適当に決められたことには、腹が立つよりもほっとした。
「それで、おれとおまえが会ったことがある、と思う理由はなんだ」
 食前酒と前菜が据えられ、古尾にならってそのスパークリングワインを一口嗜んだところで、古尾は嗤ってあしらったくせにその話を蒸し返した。
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