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74.同罪
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妊婦健診を受けている病院では感じなかったけれど、救急の処置室は少し化学物質の臭いが感じられる。行ったり来たりする足音が絶えず、ときに騒々しくなる。
智奈は目をつむり、わさわさとした気配を耳で捉えつつ、医師の言いつけを守ってベッドに横たわっていた。右肩に違和感があって、右の側頭部にも外的な疼痛が残っている。
救急車の中で意識が戻ったときは何が起きたのか思いだせなかった。そして、病院で処置されているとき、赤ちゃんは大丈夫ですよ、と医師から声をかけられて記憶は戻った。母が付き添っていることに混乱していたけれど、そのとき母が智奈の妊娠を知っていてよかったと心底から思った。
おなかに手を当てても、まだ何も実感はできない。けれど、赤ちゃんの無事がこれからのことを保証してくれているように感じた。
よかった。
京吾はまた心配しすぎて怒ってしまうだろうか。
バッグもスマホもマンションに置きっぱなしだ。母に京吾と連絡を取ってほしいと頼んで、それからどれくらい時間がたったのか、まだ知らせがない。看護師さんを呼びとめるには、忙しそうで気が引ける。
人が傍にいるのにだれにもかまわれない状況は、自分の存在価値に疑いを持つときでもある。何もすることがなく、父の死後の経験上、よけいにそれを感じる。すると、京吾にとっての智奈の価値までも不透明になってくる。
でも、そんな不安はきっとばかばかしい。不安を一蹴できるのは京吾だけで、ただ待ち遠しい。
スライドドアの開閉音は数えきれないほど智奈の耳に届いていたが、ふと耳についたその足音はそれまでと違って聞こえた。それに、ドアが開いたとたんの空気の流れに乗って、なじんだ香りが鼻腔をくすぐる。
香りは勘違いかもしれないけれど、心底ではっきり勘が働いたのだ。枕から少し頭を浮かした刹那、智奈は京吾を捉えた。
「智奈」
「京吾……」
同時に名を呼び合って、智奈がその姿を確かめようと瞬きをしながら手を伸ばしている間に京吾は傍にやってきた。
伸ばした智奈の手を京吾は両手でくるみながら、ベッドの傍らに跪いた。わずかに左側に顔を傾けると、京吾の顔が間近に見えた。いつになくその面持ちは強張っている。
「痛みは?」
「怒ってない?」
ふたりはまた同時に発していた。
京吾は不意打ちを喰らったように硬直して見え、一瞬後、その表情は驚きに満ちた。
「なんでおれが怒らなきゃいけないんだ?」
「京吾は、心配しすぎると怒りまくるから」
……。はっ。
言葉に詰まったあとの吐息は笑ったように見えたけれど、つと京吾は力尽きたようにうなだれ、そのまましばらく動かなかった。智奈の手を挟んで合わせた手に額を預け、それは祈りを捧げているようにも見える。
「京吾、わたしは大丈夫。疼く感じはあるけど、痛いって感じはないから」
京吾はどこまでを知って動揺しているのか、智奈がなだめると、ようやく京吾は顔を上げた。
「怒りはいま通り越してる。心配しすぎて、一周まわって本当に心配しかしてない。その反動だ、いま腰が抜けてる気がする」
京吾は智奈を笑わせた。
「いつもわたしがそうなってるから……仕返しできた?」
京吾は呆れたように首を横に振る。
「こういう場所でする話じゃないだろう。けど、そういうことが云えるなら本当に大丈夫だってことだ」
京吾はくるんでいた手を離すと、かわりに智奈の手首を持ち、手のひらに口づけた。それだけでは終わらず、ぺろりと舌で舐められて智奈は小さく悲鳴をあげて、手のひらを閉じた。
「はい、もうよろしいですか」
と、出し抜けに見知らぬ声がかかった。見ると、ベテラン風の看護師が、呆れているのか咎めているのか、何度か首を横に振ってみせる。
「ここは処置室です。面会は後ほど病室に移ってからゆっくりなさってください。いま入院の準備をしているところですから」
「個室でお願いできますか」
「でしたら受付に申し出ていただけますか」
「わかりました。ありがとうございます」
不謹慎な振る舞いをしても、京吾から艶やかにお礼を云われると悪い気がしないのは、仕事中のプロの看護師も同様らしい。
まあ、と何やら感嘆した様子で京吾に見入り、それから我に返ったように出入り口を手で示しながら、京吾に出ていくよう促した。
京吾は立ちあがりながらベッドに身を乗りだすと、お咎めを受けたばかりというのに性懲りもなく智奈の頬に口づけ――
「抱きしめたいけど、いまはこれくらいで。じゃ、あとで」
と告げてから出ていった。
場所をわきまえないのはふたりとも同罪だ。智奈は独り笑った。
五分くらい前までの不安は、父が亡くなった直後の独りぼっちだった頃にあったものと似ていたけれど、京吾が来たとたん、智奈は独りじゃなくなった。いまは傍にいなくても傍に感じられる。
妊娠して依頼、いつもなら横になればすぐ眠くなるはずが眠れていなかったのに、移動しますよ、と看護師の声がかかったとき、ハッと目覚め、智奈は熟睡していたことに気づかされた。
それだけ、京吾の存在は智奈に影響を与えている。それは怖くもあるけれど、ベッドから車椅子に乗り換えて、廊下に待っていた京吾と会うと、やはり智奈は手を伸ばしてしまった。
妊婦健診を受けている病院では感じなかったけれど、救急の処置室は少し化学物質の臭いが感じられる。行ったり来たりする足音が絶えず、ときに騒々しくなる。
智奈は目をつむり、わさわさとした気配を耳で捉えつつ、医師の言いつけを守ってベッドに横たわっていた。右肩に違和感があって、右の側頭部にも外的な疼痛が残っている。
救急車の中で意識が戻ったときは何が起きたのか思いだせなかった。そして、病院で処置されているとき、赤ちゃんは大丈夫ですよ、と医師から声をかけられて記憶は戻った。母が付き添っていることに混乱していたけれど、そのとき母が智奈の妊娠を知っていてよかったと心底から思った。
おなかに手を当てても、まだ何も実感はできない。けれど、赤ちゃんの無事がこれからのことを保証してくれているように感じた。
よかった。
京吾はまた心配しすぎて怒ってしまうだろうか。
バッグもスマホもマンションに置きっぱなしだ。母に京吾と連絡を取ってほしいと頼んで、それからどれくらい時間がたったのか、まだ知らせがない。看護師さんを呼びとめるには、忙しそうで気が引ける。
人が傍にいるのにだれにもかまわれない状況は、自分の存在価値に疑いを持つときでもある。何もすることがなく、父の死後の経験上、よけいにそれを感じる。すると、京吾にとっての智奈の価値までも不透明になってくる。
でも、そんな不安はきっとばかばかしい。不安を一蹴できるのは京吾だけで、ただ待ち遠しい。
スライドドアの開閉音は数えきれないほど智奈の耳に届いていたが、ふと耳についたその足音はそれまでと違って聞こえた。それに、ドアが開いたとたんの空気の流れに乗って、なじんだ香りが鼻腔をくすぐる。
香りは勘違いかもしれないけれど、心底ではっきり勘が働いたのだ。枕から少し頭を浮かした刹那、智奈は京吾を捉えた。
「智奈」
「京吾……」
同時に名を呼び合って、智奈がその姿を確かめようと瞬きをしながら手を伸ばしている間に京吾は傍にやってきた。
伸ばした智奈の手を京吾は両手でくるみながら、ベッドの傍らに跪いた。わずかに左側に顔を傾けると、京吾の顔が間近に見えた。いつになくその面持ちは強張っている。
「痛みは?」
「怒ってない?」
ふたりはまた同時に発していた。
京吾は不意打ちを喰らったように硬直して見え、一瞬後、その表情は驚きに満ちた。
「なんでおれが怒らなきゃいけないんだ?」
「京吾は、心配しすぎると怒りまくるから」
……。はっ。
言葉に詰まったあとの吐息は笑ったように見えたけれど、つと京吾は力尽きたようにうなだれ、そのまましばらく動かなかった。智奈の手を挟んで合わせた手に額を預け、それは祈りを捧げているようにも見える。
「京吾、わたしは大丈夫。疼く感じはあるけど、痛いって感じはないから」
京吾はどこまでを知って動揺しているのか、智奈がなだめると、ようやく京吾は顔を上げた。
「怒りはいま通り越してる。心配しすぎて、一周まわって本当に心配しかしてない。その反動だ、いま腰が抜けてる気がする」
京吾は智奈を笑わせた。
「いつもわたしがそうなってるから……仕返しできた?」
京吾は呆れたように首を横に振る。
「こういう場所でする話じゃないだろう。けど、そういうことが云えるなら本当に大丈夫だってことだ」
京吾はくるんでいた手を離すと、かわりに智奈の手首を持ち、手のひらに口づけた。それだけでは終わらず、ぺろりと舌で舐められて智奈は小さく悲鳴をあげて、手のひらを閉じた。
「はい、もうよろしいですか」
と、出し抜けに見知らぬ声がかかった。見ると、ベテラン風の看護師が、呆れているのか咎めているのか、何度か首を横に振ってみせる。
「ここは処置室です。面会は後ほど病室に移ってからゆっくりなさってください。いま入院の準備をしているところですから」
「個室でお願いできますか」
「でしたら受付に申し出ていただけますか」
「わかりました。ありがとうございます」
不謹慎な振る舞いをしても、京吾から艶やかにお礼を云われると悪い気がしないのは、仕事中のプロの看護師も同様らしい。
まあ、と何やら感嘆した様子で京吾に見入り、それから我に返ったように出入り口を手で示しながら、京吾に出ていくよう促した。
京吾は立ちあがりながらベッドに身を乗りだすと、お咎めを受けたばかりというのに性懲りもなく智奈の頬に口づけ――
「抱きしめたいけど、いまはこれくらいで。じゃ、あとで」
と告げてから出ていった。
場所をわきまえないのはふたりとも同罪だ。智奈は独り笑った。
五分くらい前までの不安は、父が亡くなった直後の独りぼっちだった頃にあったものと似ていたけれど、京吾が来たとたん、智奈は独りじゃなくなった。いまは傍にいなくても傍に感じられる。
妊娠して依頼、いつもなら横になればすぐ眠くなるはずが眠れていなかったのに、移動しますよ、と看護師の声がかかったとき、ハッと目覚め、智奈は熟睡していたことに気づかされた。
それだけ、京吾の存在は智奈に影響を与えている。それは怖くもあるけれど、ベッドから車椅子に乗り換えて、廊下に待っていた京吾と会うと、やはり智奈は手を伸ばしてしまった。
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