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68.サプライズ(1)
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お疲れさまです、と挨拶言葉を交わしながら廊下に出るまで、京吾はやはり背中に手を当てて智奈をエスコートした。京吾の大きな躰が盾になって少し智奈を隠してくれたけれど、昼休みのことが“火”なら、油を注いだことにはかわりない。
廊下に出れば出たですれ違う人がいたり、エレベーターには同乗者がいたりで――
「京吾、だからメッセージくれれば目立つことなかったのに!」
と、智奈が文句を云えたのは、地下駐車場に置いた京吾の車に乗りこんでからだった。
「いい機会だろう。芸能人じゃあるまいし、“結婚しました、籍は別です”なんてわざわざ公表するのもどうかと思うけど。さり気なく知れ渡ればいい」
「全然、さり気なくない」
「怒らないで。躰にも胎教にも悪い」
「怒ってるのは京吾のせい。お父さんのときみたいなこと……終わったと思ったのに」
躰をひねって助手席の智奈を向いていた京吾は、ハンドルに置いていた腕をふと伸ばして、智奈の目もとを拭うようにしたかと思うと――
「泣かないで。悪かった」
京吾は智奈の頭の後ろを支えながら引き寄せ、自分は前にのめって智奈を抱きしめた。
泣いている意識はなかったけれど、京吾の肩に顎をのせ、吐いた呼吸は少しふるえている。じっとそのままでいると、こよなく気持ちがいい。智奈の口から満ち足りた吐息がこぼれ、今度はふるえていない。
「泣くようなことじゃないってわかってる。子供っぽくてごめんなさい」
「守りたいって気分はいい感じだ」
「たぶん、妊娠のせいだけど」
「はっ、マタニティーブルーだって? 都合のいい云い訳ができたな」
「でも、胎教はまだ早くない? 赤ちゃん、いま躰ができてる途中だと思うけど」
「善は急げ、だろう? 悪人の子が悪人にならないようにしたいなら、なおさらかもな」
京吾は前のめりになった躰を起こし、智奈の頬をくるんでくちびるを押しつける。キス音を立てながら顔を上げると、京吾は手を伸ばして助手席のシートベルトを引っ張った。
「子供には自分の後を継いでもらいたくないの?」
智奈がしっかり助手席におさまったのを確認すると、京吾はふっと笑みを漏らす。
「どうだろうな。生まれて、成長をある程度見てからしか考えられない気がする。子供には子供の人生がある。それに、智奈は早く子離れしてくれないと、おれが耐えられない」
智奈は吹きだした。あまりに未来のことすぎる。
「だから、まだ人間の形も完成してないと思うけど」
「笑い事じゃない」
そう云いつつ京吾自身がにやりとして、正面に向き直るとシートベルトをしてエンジンをかけた。
「いまから会うのも悪人だ。会食の約束をしてる。腹をすかしてるうえ、遅れると怒らせてしまう」
横目に智奈を見た京吾は少しも怖がっているふうではない。どこまでが本当で、嘘もあるのか、さっぱりだ。
京吾は智奈を戸惑わせたまま車を発進させた。
「悪人が結婚式の立会人?」
結婚式は小ぢんまりしたガーデンハウスに決めた。チャペルで式を挙げる予定で、自称、悪人の新郎に、悪人の立会人となったら神様はどう思うだろう。
「ああ。彼は正真正銘の、肝の据わった悪人だ。けど、善人には手出ししない、悪人の世界の悪人だ」
京吾の言葉はややこしく聞こえて、智奈はちょっと考えこんでしまう。その間に、車は地下から地上へと出て、通りに合流し、スピードアップした。
悪人の世界での悪人、とは詰まるところ悪人中の悪人ということになって……ということは極悪人?
京吾はそういうところから智奈を隔離したがっていると思っていた。どのみち、京吾がいるのなら不安はないし、立会人であるという以上に、京吾にはその人と会わせる理由、あるいは必要があるようにも思えた。
「どこで会うの?」
「ヘラートでどうだ?」
「行ってみたい!」
勢いこんで云った智奈に流し目を送り、京吾は薄く笑う。
どうだも何も、会食の場所は決まっていたはずで、智奈が行きたいと常日頃から思っていたことを察しつつ、京吾もまたいつか叶えてやろうと思っていたのかもしれない。
そういう気持ちがなんだかうれしい。
智奈は無性に触れたくなって、アームレストに置いた京吾の腕につかまるように手をまわして腕を絡ませた。すると、京吾はそこから抜けだすように腕をわずかに引いて、上向けた手のひらを智奈の手のひらに合わせて指を絡ませた。
ちょっとしたことだけれど、こんなさり気ないしぐさが智奈の気分を幸せにする。
まもなく、ヘラートの前で車を止めると、すかさずコージが歩道に出てきた。挨拶を交わしたあと、京吾から車の鍵を受けとったコージは車を預かっていった。
ひととおり案内された店内は、智奈が思っていたホストクラブとは違った。一階はレストランで、半円のソファにテーブルという、一風変わっていながら高級そうな雰囲気がある。ホストクラブらしいのは二階だった。
厳密には、ヘラートはデートクラブだと京吾は云う。外でデートすることもあり、その締め括りにヘラートですごす。京吾がやっていたみたいに、ホテルコースに延長ということもあるらしいけれど。
そうして十分後、一階のレストランにある個室で智奈は“正真正銘の悪人”と初対面した。
甲斐之史、肩書きは吉開コンサルの社長、そしてもうひとつ、京吾と同じように別の顔があって、吉開組の組長と紹介された。とどのつまり、やくざ、だった。
智奈はそのことだけにとどまらず、その出立ちに圧倒された。
例えば、京吾が目が鋭く無愛想な人間だったら――いや、性格は関係なくそういう振る舞いをしていたらこんな感じかもしれないと思うような、要するに甲斐は京吾に負けず劣らず美貌の持ち主だった。そのせいか、四十三歳という年齢よりも若く見える。京吾とひとまわり違うのに、年の差をあまり感じさせない。それとも――智奈の前での振る舞いは例外で――京吾のほうが若くして昇りつめたせいで落ち着きがありすぎるせいか。それに、甲斐はハーフリムの眼鏡をかけていてインテリっぽい。
「智奈、之史さんは京阪大の出でやくざに就職したんだ。おもしろいだろう?」
京吾と甲斐が近況を語り合って、それを聞きながら出された料理を頬張っていた智奈は目を丸くした。
廊下に出れば出たですれ違う人がいたり、エレベーターには同乗者がいたりで――
「京吾、だからメッセージくれれば目立つことなかったのに!」
と、智奈が文句を云えたのは、地下駐車場に置いた京吾の車に乗りこんでからだった。
「いい機会だろう。芸能人じゃあるまいし、“結婚しました、籍は別です”なんてわざわざ公表するのもどうかと思うけど。さり気なく知れ渡ればいい」
「全然、さり気なくない」
「怒らないで。躰にも胎教にも悪い」
「怒ってるのは京吾のせい。お父さんのときみたいなこと……終わったと思ったのに」
躰をひねって助手席の智奈を向いていた京吾は、ハンドルに置いていた腕をふと伸ばして、智奈の目もとを拭うようにしたかと思うと――
「泣かないで。悪かった」
京吾は智奈の頭の後ろを支えながら引き寄せ、自分は前にのめって智奈を抱きしめた。
泣いている意識はなかったけれど、京吾の肩に顎をのせ、吐いた呼吸は少しふるえている。じっとそのままでいると、こよなく気持ちがいい。智奈の口から満ち足りた吐息がこぼれ、今度はふるえていない。
「泣くようなことじゃないってわかってる。子供っぽくてごめんなさい」
「守りたいって気分はいい感じだ」
「たぶん、妊娠のせいだけど」
「はっ、マタニティーブルーだって? 都合のいい云い訳ができたな」
「でも、胎教はまだ早くない? 赤ちゃん、いま躰ができてる途中だと思うけど」
「善は急げ、だろう? 悪人の子が悪人にならないようにしたいなら、なおさらかもな」
京吾は前のめりになった躰を起こし、智奈の頬をくるんでくちびるを押しつける。キス音を立てながら顔を上げると、京吾は手を伸ばして助手席のシートベルトを引っ張った。
「子供には自分の後を継いでもらいたくないの?」
智奈がしっかり助手席におさまったのを確認すると、京吾はふっと笑みを漏らす。
「どうだろうな。生まれて、成長をある程度見てからしか考えられない気がする。子供には子供の人生がある。それに、智奈は早く子離れしてくれないと、おれが耐えられない」
智奈は吹きだした。あまりに未来のことすぎる。
「だから、まだ人間の形も完成してないと思うけど」
「笑い事じゃない」
そう云いつつ京吾自身がにやりとして、正面に向き直るとシートベルトをしてエンジンをかけた。
「いまから会うのも悪人だ。会食の約束をしてる。腹をすかしてるうえ、遅れると怒らせてしまう」
横目に智奈を見た京吾は少しも怖がっているふうではない。どこまでが本当で、嘘もあるのか、さっぱりだ。
京吾は智奈を戸惑わせたまま車を発進させた。
「悪人が結婚式の立会人?」
結婚式は小ぢんまりしたガーデンハウスに決めた。チャペルで式を挙げる予定で、自称、悪人の新郎に、悪人の立会人となったら神様はどう思うだろう。
「ああ。彼は正真正銘の、肝の据わった悪人だ。けど、善人には手出ししない、悪人の世界の悪人だ」
京吾の言葉はややこしく聞こえて、智奈はちょっと考えこんでしまう。その間に、車は地下から地上へと出て、通りに合流し、スピードアップした。
悪人の世界での悪人、とは詰まるところ悪人中の悪人ということになって……ということは極悪人?
京吾はそういうところから智奈を隔離したがっていると思っていた。どのみち、京吾がいるのなら不安はないし、立会人であるという以上に、京吾にはその人と会わせる理由、あるいは必要があるようにも思えた。
「どこで会うの?」
「ヘラートでどうだ?」
「行ってみたい!」
勢いこんで云った智奈に流し目を送り、京吾は薄く笑う。
どうだも何も、会食の場所は決まっていたはずで、智奈が行きたいと常日頃から思っていたことを察しつつ、京吾もまたいつか叶えてやろうと思っていたのかもしれない。
そういう気持ちがなんだかうれしい。
智奈は無性に触れたくなって、アームレストに置いた京吾の腕につかまるように手をまわして腕を絡ませた。すると、京吾はそこから抜けだすように腕をわずかに引いて、上向けた手のひらを智奈の手のひらに合わせて指を絡ませた。
ちょっとしたことだけれど、こんなさり気ないしぐさが智奈の気分を幸せにする。
まもなく、ヘラートの前で車を止めると、すかさずコージが歩道に出てきた。挨拶を交わしたあと、京吾から車の鍵を受けとったコージは車を預かっていった。
ひととおり案内された店内は、智奈が思っていたホストクラブとは違った。一階はレストランで、半円のソファにテーブルという、一風変わっていながら高級そうな雰囲気がある。ホストクラブらしいのは二階だった。
厳密には、ヘラートはデートクラブだと京吾は云う。外でデートすることもあり、その締め括りにヘラートですごす。京吾がやっていたみたいに、ホテルコースに延長ということもあるらしいけれど。
そうして十分後、一階のレストランにある個室で智奈は“正真正銘の悪人”と初対面した。
甲斐之史、肩書きは吉開コンサルの社長、そしてもうひとつ、京吾と同じように別の顔があって、吉開組の組長と紹介された。とどのつまり、やくざ、だった。
智奈はそのことだけにとどまらず、その出立ちに圧倒された。
例えば、京吾が目が鋭く無愛想な人間だったら――いや、性格は関係なくそういう振る舞いをしていたらこんな感じかもしれないと思うような、要するに甲斐は京吾に負けず劣らず美貌の持ち主だった。そのせいか、四十三歳という年齢よりも若く見える。京吾とひとまわり違うのに、年の差をあまり感じさせない。それとも――智奈の前での振る舞いは例外で――京吾のほうが若くして昇りつめたせいで落ち着きがありすぎるせいか。それに、甲斐はハーフリムの眼鏡をかけていてインテリっぽい。
「智奈、之史さんは京阪大の出でやくざに就職したんだ。おもしろいだろう?」
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