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67.大スキャンダル
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社長室から持ち場に戻ると、これまでで最高レベルの針の筵が敷かれていた。ふわふわのシャギーラグなら飛びこみたいところだけれど、できるなら踵を返して身を隠したい。
京吾は智奈のことを強いと云ったけれど、そんなことは全然ない。ただ、もうひとつ京吾が云ったこと、同棲も妊娠も犯罪ではないから逃亡する必要はなく、それに、智奈には似た経験がついこないだまであったのだ。きっとしのげるはず。
智奈は、視線とひそひそ話をどうにか気づかないふりをしてやりすごした。仕事とか勉強というのは、あらゆる事態であらゆる人の口実になる便利なアイテムだと思う。いつまでも智奈にかまけている暇はだれにもない。
そして、仕事中、スマホにメッセージが来ること十数回、五回を超えたあたりから纏めて一斉に返信したほうがいいことに気づいて――
『来週、ちゃんと話すから!』
終業時間を待って智奈は送信した。
有吉は一時間前に帰って、その間際、『来週、ゆっくり聞かせてね』と訳知り顔で云い残してオフィスをあとにした。
帰り、だれかに捕まらないようスムーズに会社を出るのもひと苦労しそうだ。――と案じた傍からまたメッセージが送られてきた。
『ちゃんと話すって、やっぱり!?』
『それって、付き合ってるってこと!?』
『黙ってるなんてショック!』
などなど、まるで犯人を問い詰めるみたいな攻勢で、智奈はそっとため息をついた。
「たいへんそうだな」
いかにも他人事という、隣から能天気な声がした。いや、親戚でもなく、北村にとっては他人事に違いない。
「北村主任、昼休み、あのあと何か騒がれてました?」
智奈がこっそり問いかけると、北村は可笑しそうにした。ホスト経験があってこそ身に着いたものか、それは上品に感じる。
「常に色眼鏡をかけて、謎めいたトップ上司に興味を抱かない人がいたら教えてほしいな」
北村はまわりくどく答えた。
リソースA企画にいたとき、智奈自身、どういう人だろうと堂貫京吾について興味を持っていたのはそのとおりだ。最初に会社に訪れたときの、オフィス内のざわめきはいまも憶えている。
「あの、オープンになって気をつけることってありますか」
「コネ入社は違法じゃないし、社内恋愛も結婚もGUは自由だ。いままでどおり仕事をきちんとしていれば問題ない。まあ、やっかみはあるだろうけど、それは身魂パーフェクトなオーナーを手に入れた代償だ。ひとつ忠告しておけば、三枝さんがオーナーを手に入れて、やっかむのは女性だけじゃない」
智奈は目を見開いた。
京吾に忠臣がたくさんいるらしいことは折に触れて見たり聞いたり、智奈も知ってはいる。忠臣という以上の気持ちを持って京吾に尽くす人がいるのだろうか。北村はにやにやしていて、冗談か本当かの区別がつかない。
「まあ、それで三枝さんが危険な目に遭うことはないから安心して」
京吾が云うには北村には“ニオイ”を感じる特技があって、その北村がそう云うのだから心配無用なのだろう。けれど、それと平気でいられるかというのは別問題だ。
開き直って、京吾みたいに図太くなれればいいのに。
智奈は、なんの罪もない北村を恨めしく見て、また北村をおもしろがらせた。
そして、ふいに北村は椅子ごと躰を寄せてきて――
「これでおめでただって知られたら、大スキャンダルだね」
と、揶揄された刹那、びっくり眼の視界から北村の顔がいきなり消えた。
消えたというより、何かが智奈と北村の間をさえぎったのだ。本能的に焦点を合わせようと智奈は顔を引き、同時にすぐ傍にだれか立っていることを認識した。視界をさえぎっているのは大きな手のひらで、見るまでもなく京吾の手だと智奈は直感した。
ぱっと首がのけ反るほど振り仰ぐと、やはり京吾で。
「北村、近すぎる」
いつものとおりグリーングラスをかけた京吾の眼差しから、その表情は窺えない。咎めた声は真剣に聞こえる。
北村が椅子を引いてもとの位置まで戻ると同時に、智奈の目の前にあった手のひらもなくなった。
「失礼しました」
北村は心のこもらない詫びを入れた。あの雨の日、チョコラの前で成り行きを見守っていたときと同じく楽しんでいる。
京吾は先刻承知で、北村の扇動にはのらず、智奈へと目を転じた。
「大事な人と会う。式の立会人だ。紹介したいから同行してほしい。終われる?」
京吾は智奈のデスクを指差した。
「大丈夫ですよ」
大胆なことを平然と云ってのけた京吾を唖然と見上げるなか、智奈にかわって答えたのは北村だ。京吾は北村に向かってうなずいてみせ、智奈に目を戻す。
「廊下で待ってる」
京吾はこの状況のこの場に智奈を置き去りにする気なのか。
「待って!」
智奈は悲鳴じみた声でとっさに引き止めた。
「わかった。待ってるから慌てないで」
と云われて落ち着けるはずもなく、智奈はデスクの上を手早く片付けると、後ろにある仕切りがわりのロータイプロッカーからバッグを取りだした。
京吾は智奈のことを強いと云ったけれど、そんなことは全然ない。ただ、もうひとつ京吾が云ったこと、同棲も妊娠も犯罪ではないから逃亡する必要はなく、それに、智奈には似た経験がついこないだまであったのだ。きっとしのげるはず。
智奈は、視線とひそひそ話をどうにか気づかないふりをしてやりすごした。仕事とか勉強というのは、あらゆる事態であらゆる人の口実になる便利なアイテムだと思う。いつまでも智奈にかまけている暇はだれにもない。
そして、仕事中、スマホにメッセージが来ること十数回、五回を超えたあたりから纏めて一斉に返信したほうがいいことに気づいて――
『来週、ちゃんと話すから!』
終業時間を待って智奈は送信した。
有吉は一時間前に帰って、その間際、『来週、ゆっくり聞かせてね』と訳知り顔で云い残してオフィスをあとにした。
帰り、だれかに捕まらないようスムーズに会社を出るのもひと苦労しそうだ。――と案じた傍からまたメッセージが送られてきた。
『ちゃんと話すって、やっぱり!?』
『それって、付き合ってるってこと!?』
『黙ってるなんてショック!』
などなど、まるで犯人を問い詰めるみたいな攻勢で、智奈はそっとため息をついた。
「たいへんそうだな」
いかにも他人事という、隣から能天気な声がした。いや、親戚でもなく、北村にとっては他人事に違いない。
「北村主任、昼休み、あのあと何か騒がれてました?」
智奈がこっそり問いかけると、北村は可笑しそうにした。ホスト経験があってこそ身に着いたものか、それは上品に感じる。
「常に色眼鏡をかけて、謎めいたトップ上司に興味を抱かない人がいたら教えてほしいな」
北村はまわりくどく答えた。
リソースA企画にいたとき、智奈自身、どういう人だろうと堂貫京吾について興味を持っていたのはそのとおりだ。最初に会社に訪れたときの、オフィス内のざわめきはいまも憶えている。
「あの、オープンになって気をつけることってありますか」
「コネ入社は違法じゃないし、社内恋愛も結婚もGUは自由だ。いままでどおり仕事をきちんとしていれば問題ない。まあ、やっかみはあるだろうけど、それは身魂パーフェクトなオーナーを手に入れた代償だ。ひとつ忠告しておけば、三枝さんがオーナーを手に入れて、やっかむのは女性だけじゃない」
智奈は目を見開いた。
京吾に忠臣がたくさんいるらしいことは折に触れて見たり聞いたり、智奈も知ってはいる。忠臣という以上の気持ちを持って京吾に尽くす人がいるのだろうか。北村はにやにやしていて、冗談か本当かの区別がつかない。
「まあ、それで三枝さんが危険な目に遭うことはないから安心して」
京吾が云うには北村には“ニオイ”を感じる特技があって、その北村がそう云うのだから心配無用なのだろう。けれど、それと平気でいられるかというのは別問題だ。
開き直って、京吾みたいに図太くなれればいいのに。
智奈は、なんの罪もない北村を恨めしく見て、また北村をおもしろがらせた。
そして、ふいに北村は椅子ごと躰を寄せてきて――
「これでおめでただって知られたら、大スキャンダルだね」
と、揶揄された刹那、びっくり眼の視界から北村の顔がいきなり消えた。
消えたというより、何かが智奈と北村の間をさえぎったのだ。本能的に焦点を合わせようと智奈は顔を引き、同時にすぐ傍にだれか立っていることを認識した。視界をさえぎっているのは大きな手のひらで、見るまでもなく京吾の手だと智奈は直感した。
ぱっと首がのけ反るほど振り仰ぐと、やはり京吾で。
「北村、近すぎる」
いつものとおりグリーングラスをかけた京吾の眼差しから、その表情は窺えない。咎めた声は真剣に聞こえる。
北村が椅子を引いてもとの位置まで戻ると同時に、智奈の目の前にあった手のひらもなくなった。
「失礼しました」
北村は心のこもらない詫びを入れた。あの雨の日、チョコラの前で成り行きを見守っていたときと同じく楽しんでいる。
京吾は先刻承知で、北村の扇動にはのらず、智奈へと目を転じた。
「大事な人と会う。式の立会人だ。紹介したいから同行してほしい。終われる?」
京吾は智奈のデスクを指差した。
「大丈夫ですよ」
大胆なことを平然と云ってのけた京吾を唖然と見上げるなか、智奈にかわって答えたのは北村だ。京吾は北村に向かってうなずいてみせ、智奈に目を戻す。
「廊下で待ってる」
京吾はこの状況のこの場に智奈を置き去りにする気なのか。
「待って!」
智奈は悲鳴じみた声でとっさに引き止めた。
「わかった。待ってるから慌てないで」
と云われて落ち着けるはずもなく、智奈はデスクの上を手早く片付けると、後ろにある仕切りがわりのロータイプロッカーからバッグを取りだした。
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