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66.緊急案件(2)
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椅子の背もたれに背中を預けた京吾の姿は、社長と聞いてイメージするそのものだ。椅子の後ろにデスクがなければ、ふんぞり返りすぎて床に倒れるんじゃないか、そう思うくらいの尊大なオーラを発している。
京吾が盛大にこけた姿を想像すると笑える気もしたが、あいにくと、有吉が『緊急案件』と知らせてきたけれど、いつもの優雅な雰囲気は微塵もない。智奈の席は総務エリアを隔てた向こう側にある。グリーングラスで目の表情がわからないのはもとより、離れた位置からでもただならない気配が感じとれるくらいだ。よほどの大事が起きたということ。
何か仕事上で大きな失敗をやらかしたんだろうか。いや、考えるまでもなく、社員の目があるにもかかわらず、京吾がわざわざ智奈の席で帰りを待っているくらいだ、重大案件に違いなく――。
智奈は俄に、すっと血が引くような感覚に陥った。
実際に蒼ざめたのかもしれない。京吾は、距離もあるし、眼鏡をかけているせいで智奈の顔色が変わっても気づかないだろうに、微々たる変化を捉えたのだろう、眼鏡を引ったくるように外しながら急に立ちあがった。
京吾は素早く総務エリアを横切って近づいてくる。その姿は急速に智奈の視界でズームアップした。京吾は正面で立ち止まり、智奈の右腕を取った次には、まるで支えるように左腕もつかんだ。
「大丈夫か。倒れそうにしてる」
そう云う京吾のほうが血の気が引いた様子で、固唾を呑んで智奈に見入り、返事を待っている。
「……大丈夫。……わたし、何か失敗した? 会社に被害が出る?」
智奈が不安に駆られたまま訊ねたとたん、京吾は目を見開いた。ひどい衝撃を受けたように固まって見える。まもなく、吐息を漏らしながら京吾は力尽きたかのようにうなだれた。それからひとつ、智奈にも聞こえるくらいの呼吸をすると、ようやく顔を上げる。
「違う。そういう意味で……仕事で失敗はしていない」
「ほんとに?」
「ああ。いいかげんに仕事してないだろう? ハッ……どうしておれのほうが悪いことをした気分にさせられるんだろうな」
その言葉を穿てば、智奈が何かしら問題を起こしたことは察せられたけれど、仕事上のミスがないと確認できて、ひとまず智奈はほっとした。
すると、ちょっとした心の余裕ができて、智奈はオフィスの気配に気づかされる。外部からの電話で話している声を除き、不自然に静かで、ふたり纏めて釘付けの的になっている。見渡す勇気はなかったけれど、自意識過剰ではなく、目の隅にわざわざ振り向いている人を捉えれば容易に感づける。
「あの……社長、用はなんでしょうか」
京吾に普段のオフィスモードで話しかけるのは、智奈にとっては難儀だ。あまつさえ、眼鏡なしだから切り替えが困難で、わざとらしいと自分で思うくらいにぎこちない。精いっぱいで他人行儀に云って、京吾に立場を知らせ、智奈は暗に、つかんだ腕を放してと訴えた。
ただし、そうした努力も虚しいことはわかっている。さっき、京介に云ったように、京吾はたぶん隠したがっていない。
「そう、用事がある。プライベートなことだ。一緒に来て」
声を潜めることもなく京吾が云ったのは序の口、智奈の希望どおり腕は解放されたところで、背中に手を当てて連れだすしぐさはいかにもエスコートだ。もとホストゆえに身に着いたさり気なさは、それを知らない人からすると、いかにも自然で親密だと映るだろう。
そもそも、今時は上司が異性の部下に触れれば、セクシュアルかパワーかハラスメントになりかねない。つまり、京吾は親密アピールをしたようなものだ。
智奈は抗議したいのをぐっとこらえて京吾に従った。廊下に出ると、奥に進んで京吾は社長室に連れていった。
「最初から社長室に来てって連絡くれればいいのに!」
ドアが閉まったとたん、智奈は背中に添えられた手から逃れて振り向きざま京吾をなじった。
「もう公にしてもいいだろう。社内恋愛も社内婚も禁じてないし、犯罪でもない。それに数カ月すればどんな服だろうと、ごまかせないだろう?」
京吾は智奈の腹部を指差した。
「でも……」
「他人のふりをしているほうがおかしくなる。オープンにするのを引き延ばしたすえ、はっきり事実婚の仲だとわかった瞬間から、周りにヘンな気を遣わせる。例えば、おれに関するおかしな噂を智奈に話したことがある人間だったら、普通に気まずくなるだろう? 憶測があって慎重になってるから、そうする奴はまだいなかっただろうけど」
「おかしな噂って何?」
噂話が本人の目の前でなされることはないけれど、得てして耳に入ってくることも多い。思わず、本筋からずれたことを智奈は訊ねてしまい、京吾はおもしろがって口を歪めた。
「若き成功者の裏事情とか、愛人ネタとか、なぜ色眼鏡を外さないのか、とか。よくある勘繰りだ」
「眼鏡……いま外してるけど大丈夫なの?」
「まったく外さないとは限らない。みんながみんな、見たことがあるってこともないけど。ただ……」
京吾は途中でやめると、めったに見られない迷いがその顔に見えた。
「……どうかした?」
「……ああ、 癪に障る」
「え――? ……っ」
ふいに京吾の顔が近付き、焦点が合わせられないうちにくちびるが合わさった。いや、ぶつかった。咬みつくようなキスで、ただし、咬みつくのはくちびる越しだから歯がぶつかる痛みはない。
京吾は何に焚きつけられたのだろう、乱暴でも熱に浮かされたようなキスだ。
智奈は腕を上げ、自分がそうされているように京吾の頭の後ろに手をまわした。縋っているのか引き寄せているのか、すると、なだめる手助けになったようでゆったりとしたキスに変わる。ぺたりと吸着して甘ったるく変化すると、キス音を立てながら京吾は顔を上げた。
「智奈、お母さんが来たことを秘密にしていただろう」
京吾は思いがけず、険しい声で問いただした。
京吾が盛大にこけた姿を想像すると笑える気もしたが、あいにくと、有吉が『緊急案件』と知らせてきたけれど、いつもの優雅な雰囲気は微塵もない。智奈の席は総務エリアを隔てた向こう側にある。グリーングラスで目の表情がわからないのはもとより、離れた位置からでもただならない気配が感じとれるくらいだ。よほどの大事が起きたということ。
何か仕事上で大きな失敗をやらかしたんだろうか。いや、考えるまでもなく、社員の目があるにもかかわらず、京吾がわざわざ智奈の席で帰りを待っているくらいだ、重大案件に違いなく――。
智奈は俄に、すっと血が引くような感覚に陥った。
実際に蒼ざめたのかもしれない。京吾は、距離もあるし、眼鏡をかけているせいで智奈の顔色が変わっても気づかないだろうに、微々たる変化を捉えたのだろう、眼鏡を引ったくるように外しながら急に立ちあがった。
京吾は素早く総務エリアを横切って近づいてくる。その姿は急速に智奈の視界でズームアップした。京吾は正面で立ち止まり、智奈の右腕を取った次には、まるで支えるように左腕もつかんだ。
「大丈夫か。倒れそうにしてる」
そう云う京吾のほうが血の気が引いた様子で、固唾を呑んで智奈に見入り、返事を待っている。
「……大丈夫。……わたし、何か失敗した? 会社に被害が出る?」
智奈が不安に駆られたまま訊ねたとたん、京吾は目を見開いた。ひどい衝撃を受けたように固まって見える。まもなく、吐息を漏らしながら京吾は力尽きたかのようにうなだれた。それからひとつ、智奈にも聞こえるくらいの呼吸をすると、ようやく顔を上げる。
「違う。そういう意味で……仕事で失敗はしていない」
「ほんとに?」
「ああ。いいかげんに仕事してないだろう? ハッ……どうしておれのほうが悪いことをした気分にさせられるんだろうな」
その言葉を穿てば、智奈が何かしら問題を起こしたことは察せられたけれど、仕事上のミスがないと確認できて、ひとまず智奈はほっとした。
すると、ちょっとした心の余裕ができて、智奈はオフィスの気配に気づかされる。外部からの電話で話している声を除き、不自然に静かで、ふたり纏めて釘付けの的になっている。見渡す勇気はなかったけれど、自意識過剰ではなく、目の隅にわざわざ振り向いている人を捉えれば容易に感づける。
「あの……社長、用はなんでしょうか」
京吾に普段のオフィスモードで話しかけるのは、智奈にとっては難儀だ。あまつさえ、眼鏡なしだから切り替えが困難で、わざとらしいと自分で思うくらいにぎこちない。精いっぱいで他人行儀に云って、京吾に立場を知らせ、智奈は暗に、つかんだ腕を放してと訴えた。
ただし、そうした努力も虚しいことはわかっている。さっき、京介に云ったように、京吾はたぶん隠したがっていない。
「そう、用事がある。プライベートなことだ。一緒に来て」
声を潜めることもなく京吾が云ったのは序の口、智奈の希望どおり腕は解放されたところで、背中に手を当てて連れだすしぐさはいかにもエスコートだ。もとホストゆえに身に着いたさり気なさは、それを知らない人からすると、いかにも自然で親密だと映るだろう。
そもそも、今時は上司が異性の部下に触れれば、セクシュアルかパワーかハラスメントになりかねない。つまり、京吾は親密アピールをしたようなものだ。
智奈は抗議したいのをぐっとこらえて京吾に従った。廊下に出ると、奥に進んで京吾は社長室に連れていった。
「最初から社長室に来てって連絡くれればいいのに!」
ドアが閉まったとたん、智奈は背中に添えられた手から逃れて振り向きざま京吾をなじった。
「もう公にしてもいいだろう。社内恋愛も社内婚も禁じてないし、犯罪でもない。それに数カ月すればどんな服だろうと、ごまかせないだろう?」
京吾は智奈の腹部を指差した。
「でも……」
「他人のふりをしているほうがおかしくなる。オープンにするのを引き延ばしたすえ、はっきり事実婚の仲だとわかった瞬間から、周りにヘンな気を遣わせる。例えば、おれに関するおかしな噂を智奈に話したことがある人間だったら、普通に気まずくなるだろう? 憶測があって慎重になってるから、そうする奴はまだいなかっただろうけど」
「おかしな噂って何?」
噂話が本人の目の前でなされることはないけれど、得てして耳に入ってくることも多い。思わず、本筋からずれたことを智奈は訊ねてしまい、京吾はおもしろがって口を歪めた。
「若き成功者の裏事情とか、愛人ネタとか、なぜ色眼鏡を外さないのか、とか。よくある勘繰りだ」
「眼鏡……いま外してるけど大丈夫なの?」
「まったく外さないとは限らない。みんながみんな、見たことがあるってこともないけど。ただ……」
京吾は途中でやめると、めったに見られない迷いがその顔に見えた。
「……どうかした?」
「……ああ、 癪に障る」
「え――? ……っ」
ふいに京吾の顔が近付き、焦点が合わせられないうちにくちびるが合わさった。いや、ぶつかった。咬みつくようなキスで、ただし、咬みつくのはくちびる越しだから歯がぶつかる痛みはない。
京吾は何に焚きつけられたのだろう、乱暴でも熱に浮かされたようなキスだ。
智奈は腕を上げ、自分がそうされているように京吾の頭の後ろに手をまわした。縋っているのか引き寄せているのか、すると、なだめる手助けになったようでゆったりとしたキスに変わる。ぺたりと吸着して甘ったるく変化すると、キス音を立てながら京吾は顔を上げた。
「智奈、お母さんが来たことを秘密にしていただろう」
京吾は思いがけず、険しい声で問いただした。
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