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66.緊急案件(1)

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 同僚四人、昼休みにチョコラでランチを終えてGUビル内に入ると、冷えた空気に迎えられる。歩いてたった五分ほどの距離だけれど、真夏の暑さにのぼせそうだった智奈はほっとした。
 妊娠三カ月に入ったところで、やたらと眠たくなるように、三カ月前とは微妙に躰の調子が異なる。いま、目眩いとまではならなくても、やはり本調子ではない。
「あー、生き返るぅ」
「外回りの仕事についてなくてよかったって思うよね」
「ほんと、年中快適……」
「智奈さん」
 まるで順番があるかのように同僚たちが発していたなか、次は智奈のばんだと漠然とどうでもいいことを感じていたとき、突然、名が呼ばれてハッとした。
 聞き覚えがある――でなければ、呼びかけられることはないだろうが、声の主が思い当たるのと視界で捉えたのはほぼ同時だった。智奈は目を丸くした。
 エレベーターホールのほうから京介が歩み寄ってきていて、智奈は、ちょっとごめんね、と同僚たちに声をかけると急ぎ足で京介のところに向かった。
「ああ、慌てなくていい。大事な躰だ。転んだり……」
 距離が縮まるうちに京介が危ういことを云い始めた。
 こんにちは、と、智奈は慌てるなという京介の言葉に反して慌てて挨拶した。
「あの、まだ内緒にしていて……」
 智奈が声を潜めて云い終わるまでもなく、京介は察したのだろう、納得したようにうなずいた。興じた様子も窺えて、智奈はほっとした。
「結婚するしないは別にしても、堂々と智奈さんとのことを公言しないまま、京吾がこういうところで臆病になるとはな」
 意味不明だといったふうに京介は首を横に振った。
 あの日、京介はふたりが結婚しないことに難色を示していたが、ひと月たっても小言を云うのはよほど京介の意に反しているという裏返しだ。
 智奈はまず首を横に振って否定した。
「堂貫会長も京吾さんのお母さんも、気にかけていただいてありがとうございます。ふたりで話して、京吾さんの気持ちとか考えとか、きちんとわかっています。それに、会社に秘密にしているのはわたしがそうしてほしいと頼んでいるからで、京吾さんは隠さなくてもいいと思っているはずです」
「なるほど」
 京介は合点がいったようにうなずくが、智奈が云ったことに対して納得しているのではなく、何やら別のところで感心したふうだ。
 なんだろう、と思っていると。
「智奈さん、『堂貫会長』ではなく、おじいちゃんとでも呼んでくれないか。京吾は事実婚と云っていた。それなら、事実上、私は智奈さんの義理の祖父だ」
 京介は、どうだろうか、と首をひねった。
 智奈にとってはこれ以上にない歓迎を示された気がして、拒否する理由は見当たらない。すぐさまこっくりとうなずいた。
「はい。おじいちゃん、このまえは贅沢なお料理をごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
 さっそく『おじいちゃん』と呼ぶ口実に一カ月前のお礼を云うと、京介はそれまでの慮った様子から一転、可笑しそうにした。
「京吾がああいう子供っぽい悪さをするとはな、意外だった。まだまだ人生が楽しめそうだ。今度は私の家にも訪ねてきてほしい。京吾にも云っておくが……智奈さんが頼みこんでくれたら、あいつも聞いてくれるだろう」
「責任重大ですけど、がんばります」
 智奈の真面目にした返事を聞いて京介はおもしろがる。
「京吾と話してきて帰るところだ。また会うのを楽しみにしている」
 そう云って、京介はロビーにいた付き人――いかにもボディーガードといった出で立ちの男性と合流して立ち去った。
 そういえば、京吾は危険なことをやっていると云うわりに、人的な警備は手薄だ。
 見送りながらそんなことを思っていると、智奈、と、今度は同僚から声をかけられる。振り向いたと同時に、好奇に満ちた三ついの視線に迎えられた。
 京介との会話は声を抑制していたから大っぴらに聞こえてはいないだろうけれど、まったく聞かれていないとは云いきれない。
「いまの、三枝さんのおじいちゃん?」
「すごい、偉い感じの人だったけど、だれ?」
「いまのって堂貫会長でしょ」
 という三者三様の反応のあと、「えっ!?」と前者二人が驚愕し、最後に発した、このなかで年長の先輩である桂木かつらぎに視線は集中した。
「そう、堂貫社長のおじいさん。会長といっても別の会社の会長だけど。そうよね?」
 両脇に立つ同僚二人の無言の問いに答えた桂木は、智奈に確認を求めた。
「そう、です」
 智奈は少し痞えてしまった。雲行きが怪しいとまではいかなくとも、発言に気をつけなければ自爆しそうな展開だ。
「そういうことね!」
 智奈より二つ年上の石原いしはらが独り納得したふうに云えば――
「どういうこと?」
 と、一つ年下の中条なかじょうが天然ぽく首をかしげた。
「だからぁ、三枝さんが中途採用された理由って……え、ちょっと待って――」
 説明しかけた石原は、途中で何やら疑問が湧いたようで、中途半端に言葉を切った。
 そのあとを、つまり、と継いだのは桂木だ。
「堂貫会長が三枝さんのおじいさんていうことは、うちの堂貫社長と智奈って従兄妹同士ってこと? そういうツテで中途採用されたのね」
 桂木の解釈にいちばんに納得したのは智奈だったかもしれない。ちょうどいい云い訳を思いついて口を開いた。
「あ、従兄妹ってところは違うから。堂貫会長は本当のおじいちゃんじゃなくて、父が親しくしていたの。それで、父が亡くなって気にかけてくれてる」
 父が日頃、どれくらい京介と関わっていたかは知らないけれど、まるきり嘘ではない。いや、別の意味にしろ、京介が智奈のことを気にかけていたのは紛れもない事実だ。
 智奈の説明に、同僚たちは一様にうなずいた。
「そっかあ。でも、堂貫社長も三枝さんのことを気にかけてるよね」
 見学した日の印象がよほど頭に残っているのか、石原はそんなことを云う。社内では相変わらず、ふたりが接触することはない。
「おじいちゃんに頼まれてるから」
 それも嘘ではない。出会ったきっかけはまさにそれだ。
「それって、チャンスじゃない?」
 中条が訊ねたとき、智奈のスマホからメッセージの着信音が鳴った。ミニバッグからスマホを取りだして見ると。
『戻る途中? 緊急案件発生』
 メッセージは有吉からだ。端的で意味がわからなさすぎる。智奈は同僚たちを見やった。
「有吉さんから。すぐ戻ってほしいみたい」
 智奈が云うなり、桂木は腕時計を見た。
「あ、メイク直しの時間がなくなりそう」
「わあ、戻らないと」
 エレベーターのなかでは、秘密にしていたことをちゃかすように絡まれてしまう。智奈が云い逃れられたのはつかの間で、結局、続きはまたね、という困った事態を招いた。
 コーポレートセクションに戻ってそれぞれの持ち場へと別れ、智奈は何気なく自分の席に目を向けた。刹那、驚いたあまり智奈はそこで立ち止まった。
 北村と有吉に挟まれた自分の席で、デスクに向かうのではなく反対を向いて――つまり、出入り口に近いところで立ち尽くした智奈のほうを向いて、京吾が椅子を陣取っていた。
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