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63.別格

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 七海が去ると、ふたりの間には息を詰めたような沈黙がはびこった。智奈の母よりも穏やかだけれど、嵐で何もかも吹き飛んだ場所に立ち尽くしている気分だ。
 プールからの水のはねる音と、プールフロアに流れるナチュラルな音楽が聴きとれるようになったところで、智奈はハッと我に返って京吾に目を向けた。
 ほぼ同じ高さで目と目が合うと、京吾は躰中の空気を吐き尽くすようなため息を漏らした。美々びびしい顔が間近に迫ったかと思うと、京吾は素早く智奈のくちびるの端に口づけた。
「智奈といるときおれはリラックスできてるってあらためて思う」
 京吾は首を横に振りながら、つくづくといった様子で云う。それを裏付けるように、広い肩に添えていた智奈の手のひらの下で、俄にこわばりが解けた。
「それって……わたしは簡単てこと?」
 単純に考えるなら、京吾の言葉は褒め言葉でうれしいと感じるはず。いま穿ってしまうのは七海の言葉が心に痞えているからだ。かといって、それを直接は訊けない。認めてほしくないからだ。
「つっかかるな? さっきもそうだったけど?」
 京吾は首をひねり、わずかに眉根を寄せて智奈を見つめる。
「……七海さんと仲がいいんだなと思って」
 どうごまかそう、そう思った結果、嫉妬丸出しになった質問をしてしまった。
 実際、ヘラートで七海を見かけることなく、何も知らないで今日が初対面だったら、京吾と七海は姉弟だと思ったかもしれない。それくらい、遠慮がなく仲良しに見えた。
 京吾は何を思ったのか――きっと嫉妬とわかっているだろうけれど、ふっと笑みをこぼす。
「十年くらいの付き合いになるからな」
「聞いた。お母さんにすごい恩があるって」
「ああ。もともと彼女は、母が以前、通っていた美容サロンの贔屓ひいきのエステティシャンだった。母は彼女の腕に痣があるのに気づいて、次には包帯をしていた。あることを疑ったんだ。おれは母に頼まれて調べてみた。結果は母が予想したとおりで、彼女にはドメスティックバイオレンスDV夫がいた。働きもせず、女に寄生したチンピラだ」
 京吾は最後、うんざりした声音になった。人並み以上に自立心旺盛な京吾からすると、理解に苦しむ人種なのだろう。智奈にしろ、父に寄生した母のことをきちんとは理解できていない。
「チンピラって、DVは別にして、危ない人?」
「ああ、下っ端のやくざだ。警察に届け出ても無駄だとか、捕まっても出てきたらまた付き纏うとか脅されて、七海さんは逃れられなかった」
 七海と話したことが甦る。家族はとことん厄介になる。そんなことを云っていたけれど、一般的な話ではなく彼女自身が経験したことから発せられたのだ。
 その面倒な夫から逃げられたのは悦子のおかげ。一生の恩人と云ったこともうなずける。そして、どうやって逃れたのか、その方法もまもなく見当がついた。
「もしかして、京吾が云ってたUGっていう組織で、七海さんの旦那さんを引き受けたの?」
「というより、それがUGが起動するきっかけになった。離婚させて、男は強制労働者として一生、軟禁生活だ。七海さんはもうおびやかされることはない。二年後、母の提案があって、いまのサロンに投資した」
 智奈は、七海が京吾を好きになるはずだと思った。
「わたしと同じだね」
「同じ?」
「うん。お母さんに頼まれて七海さんは京吾に助けられてる。わたしの場合は、おじいちゃんに頼まれて京吾に助けられてる」
 何が云いたいんだ。京吾はそんな雰囲気で目を細めて智奈を見る。
「例えば……十年後、おれが智奈を捨てて別のだれかを選ぶと思ってる?」
「……わからない」
 智奈の答えに、京吾は薄く笑った。おもしろがって笑ったのではなく、がっかりしたように見える。信用していない、とそう京吾には聞こえたのだろう。不安があるかぎり、信用していると云いきったら嘘になる。
 京吾は責めるかと思いきや。
「智奈はもっと自分を信じるべきだな。過信もどうかとは思うけど、自信がなさすぎるのもいただけない」
 と、京吾は智奈をちゃんと理解していた。
「七海さんはでも……京吾の隣にいてぴったりに見えた」
「例えば、寄生虫であっても見た目がよければそれでいいのか」
「……それはない。でも……」
「智奈に惹かれたきっかけに見た目は関係なかった。おれには智奈がぴったり合う。いま、おれにとって智奈は別格だ。智奈ひと筋にはなれても、七海さんにはそうなれなかった。むしろ……勘違いされないように、おれから誘ったことはないし、この十年、別の女の誘いにも乗っていたし、それは彼女も知ってる」
 ひどいだろう? と言葉にはしなかったけれど、窺うように京吾の首がかしいだ。少しためらったのは、それだけ智奈の気持ちを懸念している裏返しだろうか。
 自分だったらつらい。別格だと云われてうれしい気持ちより、勝手に七海の気分になって智奈は落ちこんだ。
「智奈、何か気になること、訊きたいことがあるなら云ってほしい」
 京吾は顔がよく見えるように智奈の顎をすくった。
 そう云われて云えるくらいのことならいいけれど。七海の言葉、知るつもりはない、とその選択のほうがずっとらくだ。
「……お母さんの洗礼って七海さんは云ってたけど、わたしは歓迎されてる?」
 ごまかす言葉を探して云ってみたことは、智奈が訊きたいと思っている本質に当たらずといえども遠からず、そんな問いかけになった。
「歓迎していなければ、祖父も母も食事に招くようなことはしない」
「でも……不思議な感じ」
「何が?」
「おじいちゃんも京吾もすごいお金持ち。わたしとは身分が違うというか……住む世界も違ってて、ホントだったら……おじいちゃんは特に、政略結婚みたいな相手を歓迎しそうだから。だって、京吾のお父さんを利用してるんでしょ? その……書類上の結婚をするわけじゃないけど」
 考え考えしつつ、智奈は結局、核心に近いことを云ってしまっていた。
 話している途中、逸早くその趣旨を察して“堂貫京吾”はせっかちにさえぎることが多い。そのうえ、いま智奈が云ったことは察するにたやすい。それなのに、京吾は智奈が云い終えるまで待っていた。
 京吾は満足げな面持ちでため息まがいに笑みを漏らすと、智奈は洞察力がある、と感心したふうに云って続けた。
「祖父の考えとしてはそうだったこともあるかもしれない。ただ、政略結婚は、こっちが自由に身動きできなくなるというリスクにもなる。立岡の場合は、母との関係が関係だから、祖父が立岡に気を遣う必要はない。けど、対等であればあるほど、相手の立場に気を配る必要がある。むしろ、祖父は智奈で万々歳だ。孫もできて。おれは結婚する気なかったから」
 智奈が確かめたかった答えは聞けていない。いや、聞けていることだけで充分、とそう思うことが正しい。それ以上は身の程知らず、大した問題ではなくて智奈のわがままになる。
「結婚する気なかったって、束縛は嫌い? でも、わたしでずっと満足できる?」
 そう訊ねると、杞憂であろう智奈のその心境とは裏腹に、京吾はしてやったりといったふうににやりとした。
 何を失言したのだろう。智奈は顔を引いて、京吾の表情を確かめた。
「束縛は嫌いじゃない。それと、さっきの見た目の話、いまは見た目も重要ポイントになってる。おれは智奈の魂が宿ったうつわにも夢中だ」
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