上 下
72 / 100

62.世間知らず(1)

しおりを挟む
 声は智奈の背中のほうから聞こえ、一瞬、悦子かと思ったけれど、記憶に真新しく残る声とは違っている。ただ、声のトーンに聞き覚えがある。思いだせないけれど印象に残っている、そんな感覚だ。
 京吾から離れようとすると、智奈を抱く腕がそれを許さない。まるで、見せたくないといったしぐさに感じるのは思いすごしだろうか。どうしたの? そう云うかわりに、智奈は京吾の背中をぽんぽんとなだめるように叩いた。一拍置いて、腕がゆっくりと緩む。
 智奈はプールの底に足がつくのを待ってゴーグルを外し、後ろを振り向いた。
 プールの縁から少し下がったところに女性が立っている。最初にプールサンダルが目に入り、視線を上げていくにつれ、プールとは不似合いな恰好だけれど圧倒されるくらいの自信に満ちた出立ちが見えてきた。
 膝丈の赤紫のタイトスカートはウエストとヒップの絶妙なバランスを強調し、胸もとが開きフリルのついたブラウスはバストを大きく見せている。智奈から見て、京吾は完璧で、その対極にある女性版の完璧ボディだ。そして、その顔立ちは、悦子と同じですこぶる美人だった。
 それがだれだか、智奈はおぼろげに察した。すると、さっき、とっさに京吾が隠そうとした理由も見えてくる。智奈によけいな疑念を抱かせないためだろう。
「この場合、人前かどうかは関係ない。イチャイチャして見えるのは見る側の主観的感想だろう? 見せびらかしているつもりはないし、僕は至って普通に振る舞っている」
「呆れた。仮にも社員の前なんだから、節度はわきまえたほうがいいんじゃない?」
「仕事は仕事、プライベートは良識の節度をわきまえて楽しむ。それをオーナーが示して何が悪い? いま法に違反することはやっていない」
「本当に本気なの?」
「僕自身がいちばんよくわかっている」
 京吾の返事を受けて、女性は呆れた様子で手を軽く広げて、首を横に振っている。
「それより、何しにここへ?」
「好奇心をくすぐられただけ。会長がお呼びよ。外のフロントにいらっしゃるわ。貴方がいない間、彼女のお守りはわたしがやってあげるから」
「よけいなことだ」
「ねぇ京吾、好奇心のついでに話しておきたいことがあったから来たの。わたしの話を聞けば、きっとよけいなことじゃないとわかるわ」
 智奈は口を挟むことなく飛び交う会話を聞いていた。京吾と女性は互いにざっくばらんだ。そのぽんぽんと飛ぶ掛け合いがふと止まって、智奈は京吾を見上げた。すると、少し考えこんだ面持ちに合った。
「彼女は手嶋てじま七海さんだ」
 ――美容サロンを経営している、と続いたその説明に、智奈はやっぱりと納得した。
「あとが面倒だから祖父に会ってくる。独りにしても大丈夫?」
 京吾からすると、智奈はそれほど頼りなく見えているのだろうか。
「子供じゃないから」
 智奈は少し口を尖らせた。
「オーケー。おれも大人にならないとな」
 京吾は可笑しそうに云うと、このまま待ってて、と云い、自分だけさっさとプールを出ていく。
 七海はちらりと智奈を見下ろして――彼女が智奈についてどんな感情を抱いているのかは皆目わからないけれど、京吾のあとを追っていった。
 京吾はビーチチェアに行き、自分のプールウエアを手に取ると同時に、智奈のカーディガンを取った。プールウエアを肩に引っかけながら振り向いて戻りかけたとき、七海が何か声をかけたのだろう、立ち止まった。
 その姿を見ていると、お似合いだというのは認めざるを得ない。七海は三十半ばくらいか、背が高くていかにもデキる美人だ。京吾より年上でも、京吾もまたデキる人で堂々としているぶん釣り合っている。智奈は自分と京吾がどんなふうに見えるのか、心配になるほど気になってしまった。
 七海と二、三言交わした京吾は、プールの中で待っている智奈のほうにやってきた。縁に来て、片膝をついてしゃがむと、智奈を見ていきなり、堪えきれなかったといったふうに吹くように笑う。
「何?」
「いや、置いてけぼりにされた犬みたいだなと思って」
「待っててって云ったのは京吾だから!」
「おかしな水着を選んだ智奈が悪い」
 京吾は小言を云い、カーディガンを首にかけると、智奈へと手を伸ばして腋を抱えてプールから引きあげた。同時に京吾は立ちあがり、素早くカーディガンを智奈の肩にかけた。
「彼女はよけいなことを云って智奈をからかうだろうけど、悪さはしない。いざとなったら容赦ない堂貫家を知ってるから」
 袖に腕を通しながら聞いていた智奈はこっくりとうなずいた。
「京吾が大人になって戻ってくるのを待ってる」
 京吾は笑い、すぐ戻る、と踵を返してプールウエアを羽織りながら遠ざかった。
 つかの間、京吾を見送り、智奈は少しためらいながらプールチェアのところに向かう。本当にお守りをする気か、七海は京吾についていくことなく智奈が来るのを待っているように見えた。
 智奈が近づく間、七海は値踏みをするように上から下まで目線を移動させていた。どんな結論に達したのだろう。
「はじめまして。手嶋七海よ。?」
 “あなたの名は?”という言葉を省略して、七海は首をかしげた。傲慢にも見え、成功者にありがちだとも思う。伴って、緩くカールさせた長い髪が胸の辺りで揺れている。髪の色は限りなく黒に近い赤でエレガントだ。
「三枝智奈です。はじめまして」
 挨拶はしたものの、七海とふたりで何を話せばいいのだろう。困惑している智奈をよそに、七海は京吾がプールウエアを掛けていたほうの椅子に勝手に座った。そうなると智奈だけ立ったままでいるのも不自然で、智奈は椅子に置いたバッグをテーブルの上に移動させて腰をおろした。
「世間知らずっぽい、あなたみたいな子に京吾が手を出すなんて驚いた。どこに惹かれたのかしら」
 まじまじと智奈を見て、七海は率直に、なお且つ、智奈自身が疑問に思っていることを独り言のように口にした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷徹秘書は生贄の恋人を溺愛する

砂原雑音
恋愛
旧題:正しい媚薬の使用法 ……先輩。 なんて人に、なんてものを盛ってくれたんですか……! グラスに盛られた「天使の媚薬」 それを綺麗に飲み干したのは、わが社で「悪魔」と呼ばれる超エリートの社長秘書。 果たして悪魔に媚薬は効果があるのか。 確かめる前に逃げ出そうとしたら、がっつり捕まり。気づいたら、悪魔の微笑が私を見下ろしていたのでした。 ※多少無理やり表現あります※多少……?

【R18】嫌いな同期をおっぱい堕ちさせますっ!

なとみ
恋愛
山田夏生は同期の瀬崎恭悟が嫌いだ。逆恨みだと分かっている。でも、会社でもプライベートでも要領の良い所が気に入らない!ある日の同期会でベロベロに酔った夏生は、実は小さくはない自分の胸で瀬崎を堕としてやろうと目論む。隠れDカップのヒロインが、嫌いな同期をおっぱい堕ちさせる話。(全5話+番外小話) ・無欲様主催の、「秋のぱい祭り企画」参加作品です(こちらはムーンライトノベルズにも掲載しています。) ※全編背後注意

友情結婚してみたら溺愛されてる件

鳴宮鶉子
恋愛
幼馴染で元カレの彼と友情結婚したら、溺愛されてる?

ミックスド★バス~湯けむりマッサージは至福のとき

taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。 温子の疲れを癒そうと、水川が温泉旅行を提案。温泉地での水川からのマッサージに、温子は身も心も蕩けて……❤︎ ミックスド★バスの第4弾です。

やさしい幼馴染は豹変する。

春密まつり
恋愛
マンションの隣の部屋の喘ぎ声に悩まされている紗江。 そのせいで転職1日目なのに眠くてたまらない。 なんとか遅刻せず会社に着いて挨拶を済ませると、なんと昔大好きだった幼馴染と再会した。 けれど、王子様みたいだった彼は昔の彼とは違っていてーー ▼全6話 ▼ムーンライト、pixiv、エブリスタにも投稿しています

セカンドラブ ー30歳目前に初めての彼が7年ぶりに現れてあの時よりちゃんと抱いてやるって⁉ 【完結】

remo
恋愛
橘 あおい、30歳目前。 干からびた生活が長すぎて、化石になりそう。このまま一生1人で生きていくのかな。 と思っていたら、 初めての相手に再会した。 柚木 紘弥。 忘れられない、初めての1度だけの彼。 【完結】ありがとうございました‼

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

突然ですが、偽装溺愛婚はじめました

紺乃 藍
恋愛
結婚式当日、花嫁である柏木七海(かしわぎななみ)をバージンロードの先で待ち受けていたのは『見知らぬ女性の挙式乱入』と『花婿の逃亡』という衝撃的な展開だった。 チャペルに一人置き去りにされみじめな思いで立ち尽くしていると、参列者の中から一人の男性が駆け寄ってきて、七海の手を取る。 「君が結婚すると聞いて諦めていた。でも破談になるなら、代わりに俺と結婚してほしい」 そう言って突然求婚してきたのは、七海が日々社長秘書として付き従っている上司・支倉将斗(はせくらまさと)だった。 最初は拒否する七海だったが、会社の外聞と父の体裁を盾に押し切られ、結局は期限付きの〝偽装溺愛婚〟に応じることに。 しかし長年ビジネスパートナーとして苦楽を共にしてきた二人は、アッチもコッチも偽装とは思えないほどに相性抜群で…!? ◇ R18表現のあるお話には「◆」マークがついています ◇ 設定はすべてフィクションです。実際の人物・企業・団体には一切関係ございません ◇ エブリスタ・ムーンライトノベルズにも掲載しています

処理中です...