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62.世間知らず(1)
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声は智奈の背中のほうから聞こえ、一瞬、悦子かと思ったけれど、記憶に真新しく残る声とは違っている。ただ、声のトーンに聞き覚えがある。思いだせないけれど印象に残っている、そんな感覚だ。
京吾から離れようとすると、智奈を抱く腕がそれを許さない。まるで、見せたくないといったしぐさに感じるのは思いすごしだろうか。どうしたの? そう云うかわりに、智奈は京吾の背中をぽんぽんとなだめるように叩いた。一拍置いて、腕がゆっくりと緩む。
智奈はプールの底に足がつくのを待ってゴーグルを外し、後ろを振り向いた。
プールの縁から少し下がったところに女性が立っている。最初にプールサンダルが目に入り、視線を上げていくにつれ、プールとは不似合いな恰好だけれど圧倒されるくらいの自信に満ちた出立ちが見えてきた。
膝丈の赤紫のタイトスカートはウエストとヒップの絶妙なバランスを強調し、胸もとが開きフリルのついたブラウスはバストを大きく見せている。智奈から見て、京吾は完璧で、その対極にある女性版の完璧ボディだ。そして、その顔立ちは、悦子と同じですこぶる美人だった。
それがだれだか、智奈はおぼろげに察した。すると、さっき、とっさに京吾が隠そうとした理由も見えてくる。智奈によけいな疑念を抱かせないためだろう。
「この場合、人前かどうかは関係ない。イチャイチャして見えるのは見る側の主観的感想だろう? 見せびらかしているつもりはないし、僕は至って普通に振る舞っている」
「呆れた。仮にも社員の前なんだから、節度はわきまえたほうがいいんじゃない?」
「仕事は仕事、プライベートは良識の節度をわきまえて楽しむ。それをオーナーが示して何が悪い? いま法に違反することはやっていない」
「本当に本気なの?」
「僕自身がいちばんよくわかっている」
京吾の返事を受けて、女性は呆れた様子で手を軽く広げて、首を横に振っている。
「それより、何しにここへ?」
「好奇心をくすぐられただけ。会長がお呼びよ。外のフロントにいらっしゃるわ。貴方がいない間、彼女のお守りはわたしがやってあげるから」
「よけいなことだ」
「ねぇ京吾、好奇心のついでに話しておきたいことがあったから来たの。わたしの話を聞けば、きっとよけいなことじゃないとわかるわ」
智奈は口を挟むことなく飛び交う会話を聞いていた。京吾と女性は互いにざっくばらんだ。そのぽんぽんと飛ぶ掛け合いがふと止まって、智奈は京吾を見上げた。すると、少し考えこんだ面持ちに合った。
「彼女は手嶋七海さんだ」
――美容サロンを経営している、と続いたその説明に、智奈はやっぱりと納得した。
「あとが面倒だから祖父に会ってくる。独りにしても大丈夫?」
京吾からすると、智奈はそれほど頼りなく見えているのだろうか。
「子供じゃないから」
智奈は少し口を尖らせた。
「オーケー。おれも大人にならないとな」
京吾は可笑しそうに云うと、このまま待ってて、と云い、自分だけさっさとプールを出ていく。
七海はちらりと智奈を見下ろして――彼女が智奈についてどんな感情を抱いているのかは皆目わからないけれど、京吾のあとを追っていった。
京吾はビーチチェアに行き、自分のプールウエアを手に取ると同時に、智奈のカーディガンを取った。プールウエアを肩に引っかけながら振り向いて戻りかけたとき、七海が何か声をかけたのだろう、立ち止まった。
その姿を見ていると、お似合いだというのは認めざるを得ない。七海は三十半ばくらいか、背が高くていかにもデキる美人だ。京吾より年上でも、京吾もまたデキる人で堂々としているぶん釣り合っている。智奈は自分と京吾がどんなふうに見えるのか、心配になるほど気になってしまった。
七海と二、三言交わした京吾は、プールの中で待っている智奈のほうにやってきた。縁に来て、片膝をついてしゃがむと、智奈を見ていきなり、堪えきれなかったといったふうに吹くように笑う。
「何?」
「いや、置いてけぼりにされた犬みたいだなと思って」
「待っててって云ったのは京吾だから!」
「おかしな水着を選んだ智奈が悪い」
京吾は小言を云い、カーディガンを首にかけると、智奈へと手を伸ばして腋を抱えてプールから引きあげた。同時に京吾は立ちあがり、素早くカーディガンを智奈の肩にかけた。
「彼女はよけいなことを云って智奈をからかうだろうけど、悪さはしない。いざとなったら容赦ない堂貫家を知ってるから」
袖に腕を通しながら聞いていた智奈はこっくりとうなずいた。
「京吾が大人になって戻ってくるのを待ってる」
京吾は笑い、すぐ戻る、と踵を返してプールウエアを羽織りながら遠ざかった。
つかの間、京吾を見送り、智奈は少しためらいながらプールチェアのところに向かう。本当にお守りをする気か、七海は京吾についていくことなく智奈が来るのを待っているように見えた。
智奈が近づく間、七海は値踏みをするように上から下まで目線を移動させていた。どんな結論に達したのだろう。
「はじめまして。手嶋七海よ。?」
“あなたの名は?”という言葉を省略して、七海は首をかしげた。傲慢にも見え、成功者にありがちだとも思う。伴って、緩くカールさせた長い髪が胸の辺りで揺れている。髪の色は限りなく黒に近い赤でエレガントだ。
「三枝智奈です。はじめまして」
挨拶はしたものの、七海とふたりで何を話せばいいのだろう。困惑している智奈をよそに、七海は京吾がプールウエアを掛けていたほうの椅子に勝手に座った。そうなると智奈だけ立ったままでいるのも不自然で、智奈は椅子に置いたバッグをテーブルの上に移動させて腰をおろした。
「世間知らずっぽい、あなたみたいな子に京吾が手を出すなんて驚いた。どこに惹かれたのかしら」
まじまじと智奈を見て、七海は率直に、なお且つ、智奈自身が疑問に思っていることを独り言のように口にした。
京吾から離れようとすると、智奈を抱く腕がそれを許さない。まるで、見せたくないといったしぐさに感じるのは思いすごしだろうか。どうしたの? そう云うかわりに、智奈は京吾の背中をぽんぽんとなだめるように叩いた。一拍置いて、腕がゆっくりと緩む。
智奈はプールの底に足がつくのを待ってゴーグルを外し、後ろを振り向いた。
プールの縁から少し下がったところに女性が立っている。最初にプールサンダルが目に入り、視線を上げていくにつれ、プールとは不似合いな恰好だけれど圧倒されるくらいの自信に満ちた出立ちが見えてきた。
膝丈の赤紫のタイトスカートはウエストとヒップの絶妙なバランスを強調し、胸もとが開きフリルのついたブラウスはバストを大きく見せている。智奈から見て、京吾は完璧で、その対極にある女性版の完璧ボディだ。そして、その顔立ちは、悦子と同じですこぶる美人だった。
それがだれだか、智奈はおぼろげに察した。すると、さっき、とっさに京吾が隠そうとした理由も見えてくる。智奈によけいな疑念を抱かせないためだろう。
「この場合、人前かどうかは関係ない。イチャイチャして見えるのは見る側の主観的感想だろう? 見せびらかしているつもりはないし、僕は至って普通に振る舞っている」
「呆れた。仮にも社員の前なんだから、節度はわきまえたほうがいいんじゃない?」
「仕事は仕事、プライベートは良識の節度をわきまえて楽しむ。それをオーナーが示して何が悪い? いま法に違反することはやっていない」
「本当に本気なの?」
「僕自身がいちばんよくわかっている」
京吾の返事を受けて、女性は呆れた様子で手を軽く広げて、首を横に振っている。
「それより、何しにここへ?」
「好奇心をくすぐられただけ。会長がお呼びよ。外のフロントにいらっしゃるわ。貴方がいない間、彼女のお守りはわたしがやってあげるから」
「よけいなことだ」
「ねぇ京吾、好奇心のついでに話しておきたいことがあったから来たの。わたしの話を聞けば、きっとよけいなことじゃないとわかるわ」
智奈は口を挟むことなく飛び交う会話を聞いていた。京吾と女性は互いにざっくばらんだ。そのぽんぽんと飛ぶ掛け合いがふと止まって、智奈は京吾を見上げた。すると、少し考えこんだ面持ちに合った。
「彼女は手嶋七海さんだ」
――美容サロンを経営している、と続いたその説明に、智奈はやっぱりと納得した。
「あとが面倒だから祖父に会ってくる。独りにしても大丈夫?」
京吾からすると、智奈はそれほど頼りなく見えているのだろうか。
「子供じゃないから」
智奈は少し口を尖らせた。
「オーケー。おれも大人にならないとな」
京吾は可笑しそうに云うと、このまま待ってて、と云い、自分だけさっさとプールを出ていく。
七海はちらりと智奈を見下ろして――彼女が智奈についてどんな感情を抱いているのかは皆目わからないけれど、京吾のあとを追っていった。
京吾はビーチチェアに行き、自分のプールウエアを手に取ると同時に、智奈のカーディガンを取った。プールウエアを肩に引っかけながら振り向いて戻りかけたとき、七海が何か声をかけたのだろう、立ち止まった。
その姿を見ていると、お似合いだというのは認めざるを得ない。七海は三十半ばくらいか、背が高くていかにもデキる美人だ。京吾より年上でも、京吾もまたデキる人で堂々としているぶん釣り合っている。智奈は自分と京吾がどんなふうに見えるのか、心配になるほど気になってしまった。
七海と二、三言交わした京吾は、プールの中で待っている智奈のほうにやってきた。縁に来て、片膝をついてしゃがむと、智奈を見ていきなり、堪えきれなかったといったふうに吹くように笑う。
「何?」
「いや、置いてけぼりにされた犬みたいだなと思って」
「待っててって云ったのは京吾だから!」
「おかしな水着を選んだ智奈が悪い」
京吾は小言を云い、カーディガンを首にかけると、智奈へと手を伸ばして腋を抱えてプールから引きあげた。同時に京吾は立ちあがり、素早くカーディガンを智奈の肩にかけた。
「彼女はよけいなことを云って智奈をからかうだろうけど、悪さはしない。いざとなったら容赦ない堂貫家を知ってるから」
袖に腕を通しながら聞いていた智奈はこっくりとうなずいた。
「京吾が大人になって戻ってくるのを待ってる」
京吾は笑い、すぐ戻る、と踵を返してプールウエアを羽織りながら遠ざかった。
つかの間、京吾を見送り、智奈は少しためらいながらプールチェアのところに向かう。本当にお守りをする気か、七海は京吾についていくことなく智奈が来るのを待っているように見えた。
智奈が近づく間、七海は値踏みをするように上から下まで目線を移動させていた。どんな結論に達したのだろう。
「はじめまして。手嶋七海よ。?」
“あなたの名は?”という言葉を省略して、七海は首をかしげた。傲慢にも見え、成功者にありがちだとも思う。伴って、緩くカールさせた長い髪が胸の辺りで揺れている。髪の色は限りなく黒に近い赤でエレガントだ。
「三枝智奈です。はじめまして」
挨拶はしたものの、七海とふたりで何を話せばいいのだろう。困惑している智奈をよそに、七海は京吾がプールウエアを掛けていたほうの椅子に勝手に座った。そうなると智奈だけ立ったままでいるのも不自然で、智奈は椅子に置いたバッグをテーブルの上に移動させて腰をおろした。
「世間知らずっぽい、あなたみたいな子に京吾が手を出すなんて驚いた。どこに惹かれたのかしら」
まじまじと智奈を見て、七海は率直に、なお且つ、智奈自身が疑問に思っていることを独り言のように口にした。
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