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55.スイート
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ホテルは異国の人も多くいて、人前のキスが特に注目されることはないだろうけれど、智奈はあえて人と目を合わせないようにした。
京吾が目立つ存在でなければいいのにと思うことがある。そこも含めて惹かれてしまったことは否めないけれど。
「やっぱり京吾には眼鏡は必要だと思う」
京吾に案内されたスイートルームに入って、ふたりきりになるなり智奈は云った。その直後、何気なく視界に入ってきた部屋の雰囲気に目を奪われて足を止めた。
「すごい……なんだか……海に来た気分」
「だろう?」
京吾の家はブルーライトのおかげで夜だけ海に変わるけれど、この部屋は壁の上半分が濃いブルーで、下半分と床は砂を思わせるような桃白色の木材が使われている。まるで海の底にいるようなコーディネートだ。家具も、効果的にブルー色が配置されている。
智奈はベッドルームからバスルームまでぐるりと見てまわった。その間、京吾はだれかと電話をしていて、リビングに戻るとその電話が終わるのを待って智奈は話しかけた。
「ほかのスイートルームもここと同じ?」
「いや、レインボーカラーでそれぞれイメージされている」
「ほんと? 見てまわりたいかも」
「空いてたら見せてやる。……今度」
すぐさまそうしそうな雰囲気だったのに、京吾は『今度』と付け加えて嘆息した。その理由は明白だ。いまは時間がない。
「おじいちゃんの命令は絶対?」
「ナポレオン風に云えば、祖父は“NO”という言葉を知らない」
「……独裁的」
「まさに。ノーと云うことで自分が絶対だとその人間に知らしめて服従させる。いまや洗脳だな。人の人生に祖父こそが干渉しすぎてる」
「でも、そうなりたいんでしょ?」
智奈が問うと、京吾は虚を衝かれたように静止した気配を見せ、それからハハッと笑った。
「祖父のようにはならないと思いながら、その地位を欲しがっている。矛盾してるのは、やっぱりコンプレックスのせいだろうな。承認欲求なのかもしれない」
コンプレックスというのは、母親との関係だったり生い立ちだったり聞かされているから理解できるけれど、承認欲求は京吾とは結びつかない。智奈は首をかしげて京吾を見つめた。
「自分が何者かってことを確かめたい?」
「確かめたいというよりは確立したい」
けど、と続けて半端なまま言葉を切り、京吾はふいに身をかがめたかと思うと、また智奈に口づけた。今度はふたりきりで、ゆっくり吸いつくキスだ。離れてしまうと、追いかけたくなってしまった。
「“けど”の続きは何?」
智奈が訊ねると、京吾はうれしそうな、きれいな微笑を浮かべる。
「いや、優先順位が変わったな、って実感してる」
「……どういう意味?」
「いつまでもこのままでいたいってことだ」
その答えは、繋がっているようで繋がっていない、とそんなふうに、智奈が求めた的から外れている。
「……このままって、おなかはおっきくなるけど。来年は一人増えちゃう」
「そこは一人増えたときに考えを改めればいい。いまは……いまからしばらく、智奈はもっと自分を大切にしてほしい」
少し硬い声に潜むのは切実さだろうか。その意味は読みとれて、智奈のくちびるが綻ぶ。
「心配されるのはうれしいって京吾はまえに云ったよね。いまそんな感じ。心配を通り越して怒りまくる京吾も知ってるけど」
京吾は手を軽くホールドアップして、おどけることでごまかした。智奈がくすくす笑いだすと。
「あのときのように襲おうか」
京吾は脅し文句を吐いた。
「食事に遅れたらあとが怖そう」
智奈は制するように両方の手のひらを京吾に向けた。
「怖くはない。智奈はおれのものだ。祖父はそう理解してるから。ただ、今日キャンセルしたとしても、祖父はあの手この手でちょっかいを出してくる。云っただろう、祖父に会うことはリスクになるって。智奈はおれを通して祖父に会った。祖父の正体を知っていることを除外しても、簡単に縁は切れない」
京吾の言葉で、智奈は自分の微妙な立ち位置のことを思いだした。
「京吾のお母さん、わたしのことを知ってたの?」
「仮にもデートしていた相手だ。智奈の話にはなっただろうし、写真くらいは見せられてただろう。見かけたことだってあったかもしれない」
悦子が社長室に突撃訪問してきたとき、京吾は智奈の存在を隠蔽したけれど、それはいかがわしいことをしていたせいだけではなく、悦子が智奈を知っていたからということもあったのだろう。
「お父さんと京吾のお母さんの本当の関係は秘密でしょ。それなのに、わたしはおじいちゃんに会ってもかまわなかったの?」
「智奈は秘密を知っている。けど、知っていることを、こっちからわざわざ云う必要はない。どちらかといえば、愛人関係の事実も、祖父の正体も、智奈が知っていることは祖父に知られたくない。けど、智奈に嘘を吐かせるつもりはない。訊かれたときは答えていいから。いい?」
京介に知られたくない理由を京吾に訊ねても、きっとまた守りたいなんて云うのだろう。何を判断するにしても、京吾が智奈のためにと考えていることは、ちゃんとわかっている。
「うん、大丈夫」
「結婚についても、子供のことも正直に云っていい。訊か……」
「訊かれたら、でしょ」
すかさず智奈が京吾の言葉に重ねると、京吾は感心しつつ、満足げに首を横に振る。
「智奈の物わかりの良さも好きだ」
「でも、子供のことって訊かれる? 今日はっきりしたことなのに」
「まえに云ったと思うけど、祖父が何者か、見た目に騙されるなってことだ」
びっくり眼の智奈を見下ろすと、諦観したふうに京吾は肩をすくめ、それから腕時計を見た。
「時間まで少し余裕がある。ホテルを案内しようか?」
「案内される」
智奈の云い方が可笑しかったのか、京吾は首をひねって笑い、それから何を思ったのかため息をついた。
「やっぱり子供は早すぎた気がする」
その意味もわかる。
「ふたりの間、ちゃんと甘やかされてあげる」
智奈が生意気に云ってみせると。
「遠慮なく」
京吾はにやりとして、隙なく智奈の言葉を逆手にとって宣言した。
京吾が目立つ存在でなければいいのにと思うことがある。そこも含めて惹かれてしまったことは否めないけれど。
「やっぱり京吾には眼鏡は必要だと思う」
京吾に案内されたスイートルームに入って、ふたりきりになるなり智奈は云った。その直後、何気なく視界に入ってきた部屋の雰囲気に目を奪われて足を止めた。
「すごい……なんだか……海に来た気分」
「だろう?」
京吾の家はブルーライトのおかげで夜だけ海に変わるけれど、この部屋は壁の上半分が濃いブルーで、下半分と床は砂を思わせるような桃白色の木材が使われている。まるで海の底にいるようなコーディネートだ。家具も、効果的にブルー色が配置されている。
智奈はベッドルームからバスルームまでぐるりと見てまわった。その間、京吾はだれかと電話をしていて、リビングに戻るとその電話が終わるのを待って智奈は話しかけた。
「ほかのスイートルームもここと同じ?」
「いや、レインボーカラーでそれぞれイメージされている」
「ほんと? 見てまわりたいかも」
「空いてたら見せてやる。……今度」
すぐさまそうしそうな雰囲気だったのに、京吾は『今度』と付け加えて嘆息した。その理由は明白だ。いまは時間がない。
「おじいちゃんの命令は絶対?」
「ナポレオン風に云えば、祖父は“NO”という言葉を知らない」
「……独裁的」
「まさに。ノーと云うことで自分が絶対だとその人間に知らしめて服従させる。いまや洗脳だな。人の人生に祖父こそが干渉しすぎてる」
「でも、そうなりたいんでしょ?」
智奈が問うと、京吾は虚を衝かれたように静止した気配を見せ、それからハハッと笑った。
「祖父のようにはならないと思いながら、その地位を欲しがっている。矛盾してるのは、やっぱりコンプレックスのせいだろうな。承認欲求なのかもしれない」
コンプレックスというのは、母親との関係だったり生い立ちだったり聞かされているから理解できるけれど、承認欲求は京吾とは結びつかない。智奈は首をかしげて京吾を見つめた。
「自分が何者かってことを確かめたい?」
「確かめたいというよりは確立したい」
けど、と続けて半端なまま言葉を切り、京吾はふいに身をかがめたかと思うと、また智奈に口づけた。今度はふたりきりで、ゆっくり吸いつくキスだ。離れてしまうと、追いかけたくなってしまった。
「“けど”の続きは何?」
智奈が訊ねると、京吾はうれしそうな、きれいな微笑を浮かべる。
「いや、優先順位が変わったな、って実感してる」
「……どういう意味?」
「いつまでもこのままでいたいってことだ」
その答えは、繋がっているようで繋がっていない、とそんなふうに、智奈が求めた的から外れている。
「……このままって、おなかはおっきくなるけど。来年は一人増えちゃう」
「そこは一人増えたときに考えを改めればいい。いまは……いまからしばらく、智奈はもっと自分を大切にしてほしい」
少し硬い声に潜むのは切実さだろうか。その意味は読みとれて、智奈のくちびるが綻ぶ。
「心配されるのはうれしいって京吾はまえに云ったよね。いまそんな感じ。心配を通り越して怒りまくる京吾も知ってるけど」
京吾は手を軽くホールドアップして、おどけることでごまかした。智奈がくすくす笑いだすと。
「あのときのように襲おうか」
京吾は脅し文句を吐いた。
「食事に遅れたらあとが怖そう」
智奈は制するように両方の手のひらを京吾に向けた。
「怖くはない。智奈はおれのものだ。祖父はそう理解してるから。ただ、今日キャンセルしたとしても、祖父はあの手この手でちょっかいを出してくる。云っただろう、祖父に会うことはリスクになるって。智奈はおれを通して祖父に会った。祖父の正体を知っていることを除外しても、簡単に縁は切れない」
京吾の言葉で、智奈は自分の微妙な立ち位置のことを思いだした。
「京吾のお母さん、わたしのことを知ってたの?」
「仮にもデートしていた相手だ。智奈の話にはなっただろうし、写真くらいは見せられてただろう。見かけたことだってあったかもしれない」
悦子が社長室に突撃訪問してきたとき、京吾は智奈の存在を隠蔽したけれど、それはいかがわしいことをしていたせいだけではなく、悦子が智奈を知っていたからということもあったのだろう。
「お父さんと京吾のお母さんの本当の関係は秘密でしょ。それなのに、わたしはおじいちゃんに会ってもかまわなかったの?」
「智奈は秘密を知っている。けど、知っていることを、こっちからわざわざ云う必要はない。どちらかといえば、愛人関係の事実も、祖父の正体も、智奈が知っていることは祖父に知られたくない。けど、智奈に嘘を吐かせるつもりはない。訊かれたときは答えていいから。いい?」
京介に知られたくない理由を京吾に訊ねても、きっとまた守りたいなんて云うのだろう。何を判断するにしても、京吾が智奈のためにと考えていることは、ちゃんとわかっている。
「うん、大丈夫」
「結婚についても、子供のことも正直に云っていい。訊か……」
「訊かれたら、でしょ」
すかさず智奈が京吾の言葉に重ねると、京吾は感心しつつ、満足げに首を横に振る。
「智奈の物わかりの良さも好きだ」
「でも、子供のことって訊かれる? 今日はっきりしたことなのに」
「まえに云ったと思うけど、祖父が何者か、見た目に騙されるなってことだ」
びっくり眼の智奈を見下ろすと、諦観したふうに京吾は肩をすくめ、それから腕時計を見た。
「時間まで少し余裕がある。ホテルを案内しようか?」
「案内される」
智奈の云い方が可笑しかったのか、京吾は首をひねって笑い、それから何を思ったのかため息をついた。
「やっぱり子供は早すぎた気がする」
その意味もわかる。
「ふたりの間、ちゃんと甘やかされてあげる」
智奈が生意気に云ってみせると。
「遠慮なく」
京吾はにやりとして、隙なく智奈の言葉を逆手にとって宣言した。
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