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54.二人のフィクサー
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今朝になって京吾に急きょ仕事が入って、約束だったボンシャンホテルのプール行きは午後に延びたけれど、そこにまた急きょ別の用件ができた。
京吾が産科できちんと検査しようと云って聞かなかったのだ。土曜日の午後は、お産や急患を除き、初診や定期的な妊娠検査など診察をやっている病院は普通ない。京吾はその無理を通したのだ。たぶん、その無理を無理とも思っていない。
知り合いの病院だと連れていかれるとそこは、何棟もある大きな総合病院だった。診察の終わり間際、総合診療内科の部長という古畑が現れた。五十代だろうか、その人が、およそ四カ月前、薬を飲まされた智奈の診察をしてくれたという。京吾と古畑が懇意にしているのは、ふたりの会話から見て取れた。
一般人であればやらない――いや、やれないことだったり、人脈であったり、京吾がその辺りのアラサー男性とは訳が違うことを智奈はあらためて認識した。
そうして、いまのところ妊娠に問題はないという太鼓判を捺してもらい、ふたりがボンシャンホテルに着いたのは予定よりもずいぶんと遅くなって日が沈む頃だった。
車の乗降口でホテルマンにキーを預けたあと、エントランスを抜けロビーに入る。どこからなんの用があって、こんなに人が集まるのだろう。自分のことは棚に上げてそう思うほど、フロント辺りは人が集中している。
そんななかでも、京吾の存在は際立っているのか、もしくは車を預かったホテルマンが知らせたのか、逸早く京吾を認めてフロントスタッフの男性が自らやってくると、恭しく鍵を渡して戻っていった。
「泊まるの?」
智奈は京吾を覗きこんで訊ねた。
「どうせならゆっくりしたいだろう? おれの家が気に入ってるなら、ここのスイートルームも智奈は気に入る」
京吾は断言して、智奈の背中に手を添えて歩きだした。
「プールはどこ?」
「レジャープールみたいな雰囲気ならホテルの裏側、競泳できる室内プールは五階だ。五階はシンプルだけど夜景の眺めはいい」
「眺めとかよりも、京吾が泳ぐところを見たい」
智奈は迷いなく答え、背中に添えられた手から抜けだすと、その腕にしがみつくように自分の腕を絡ませた。京吾は短く声をあげて笑う。
「どうやってもシャチと泳ぎたいみたいだな。それなら五階だ」
「おなかがおっきくなるまえに……」
「京吾?」
突然、だれかが京吾の名を呼び、智奈は途中で言葉を切った。智奈が足を止めたのと、頭上から舌打ちが聞こえたのは同時だった。
その女性の声には聞き覚えがある。何気なくそう思いながら、京吾に合わせて声のしたほうをゆっくり振り向いた。
確かに、その声は知っていた。智奈は目を丸くして、数歩隔てたところにいる女性、堂貫悦子に見入った。
なんなんだ。
頭上のそれはつぶやきにしかなっていない。おそらく、智奈にしか聞こえていない。呆れたようであり、あきらめたようでもあるその言葉は、ひょっとしたら悦子に向けられたものではないのかもしれない。悦子には隣に連れの男性がいた。
悦子に連れがいるなら、それは立岡史郎が妥当だろうけれど、智奈の記憶にある顔とはまったく違う。そもそもこんなふうに堂々と会える間柄ではない。
それならだれ?
初老の男性は京吾には及ばないけれど背が高く、姿勢もよく、佇まいはさながらベテラン俳優だ。引けを取らない洗練された気配が漂う。だれかに似ている。そう感じたとき。
「おじいさんまでここで密会ですか」
智奈は京吾の言葉に吃驚し、半面、納得がいった。初老の男性は京吾に似ているのだ。いや、生まれた順番からすると、京吾がその男性――祖父の堂貫京介に似ているのだ。
以前、『祖父に会ったらきっとびっくりする』と京吾が智奈に云ったことがある。そのとおりだった。例えば、革張りの椅子にふんぞり返った政治家のような厳つい人物をイメージしていたのに、そこにいる人は、品があって、やはり京吾の云うとおり、怖いフィクサーにはとても見えなかった。
「密会とはいかがわしいようにしか聞こえないが。密談と云ってくれ」
その声も智奈が想像していたようにしわがれてはいない。なめらかで穏やかだ。おまけに冗談めかした返しで、ジョークも通じる人のようだ。
「おれのホテルがスキャンダルの宝庫になるのはごめんですよ」
京吾の口調も穏やかだけれど、さっきのつぶやきからすればあくまで装っているだけで、本音は違うのだろう。
京介は薄らと笑って応じ、おもむろに智奈へと目を転じた。
「そちらは……」
「智奈さんよ。行雄さんの娘さん。でしょ?」
京介をさえぎり、悦子が先回りして云い、智奈に同意を求めた。
悦子の口から父のことを『行雄さん』と聞くと、智奈は複雑な気持ちになった。愛人関係が名ばかりだったことは知っているのに。ただ、この遭遇に驚いたあまり、一礼すらしていないことに気づいた。
「はい。はじめまして。三枝智奈といいます」
智奈は、最初は話しかけた悦子に、それから京介に会釈をした。
そうしながら、智奈の存在は彼らにとって非常に微妙なのではないかと考え至った。思わず身構えてしまった一方で、京介と悦子は各々で名乗り、そして京吾との関係を教えるという簡単な自己紹介をした。智奈の不安は取り越し苦労だったのか、拍子抜けするくらい気安い。
そして京介は京吾に向かった。
「密談のまえに腹ごしらえだ。おまえたちふたりも付き合ってくれ。私の部屋に三十分後に」
智奈が思いもしない招待にびっくりしているうちに、じゃあね、と悦子の軽快な言葉を残して彼らはさっさと立ち去った。
智奈は隣を振り仰ぐ。京吾が一文字にくちびるを結んでいるところを見ると、招待ではなく、命令だったのかもしれない。
「京吾、何万円もするフルコースが出る?」
京吾の不機嫌よりも、緊張からくる智奈の不安のほうがずっと深刻で、それを払拭するように自分でちゃかしてみる。
すると、功を奏したのか京吾は吹くように笑った。
「智奈、ナイスだ。祖父がこのホテル最高のメニューを注文してなかったらすり替えておく」
そう云って、人前にもかかわらず、京吾は腰を折って素早く智奈に口づけた。
京吾が産科できちんと検査しようと云って聞かなかったのだ。土曜日の午後は、お産や急患を除き、初診や定期的な妊娠検査など診察をやっている病院は普通ない。京吾はその無理を通したのだ。たぶん、その無理を無理とも思っていない。
知り合いの病院だと連れていかれるとそこは、何棟もある大きな総合病院だった。診察の終わり間際、総合診療内科の部長という古畑が現れた。五十代だろうか、その人が、およそ四カ月前、薬を飲まされた智奈の診察をしてくれたという。京吾と古畑が懇意にしているのは、ふたりの会話から見て取れた。
一般人であればやらない――いや、やれないことだったり、人脈であったり、京吾がその辺りのアラサー男性とは訳が違うことを智奈はあらためて認識した。
そうして、いまのところ妊娠に問題はないという太鼓判を捺してもらい、ふたりがボンシャンホテルに着いたのは予定よりもずいぶんと遅くなって日が沈む頃だった。
車の乗降口でホテルマンにキーを預けたあと、エントランスを抜けロビーに入る。どこからなんの用があって、こんなに人が集まるのだろう。自分のことは棚に上げてそう思うほど、フロント辺りは人が集中している。
そんななかでも、京吾の存在は際立っているのか、もしくは車を預かったホテルマンが知らせたのか、逸早く京吾を認めてフロントスタッフの男性が自らやってくると、恭しく鍵を渡して戻っていった。
「泊まるの?」
智奈は京吾を覗きこんで訊ねた。
「どうせならゆっくりしたいだろう? おれの家が気に入ってるなら、ここのスイートルームも智奈は気に入る」
京吾は断言して、智奈の背中に手を添えて歩きだした。
「プールはどこ?」
「レジャープールみたいな雰囲気ならホテルの裏側、競泳できる室内プールは五階だ。五階はシンプルだけど夜景の眺めはいい」
「眺めとかよりも、京吾が泳ぐところを見たい」
智奈は迷いなく答え、背中に添えられた手から抜けだすと、その腕にしがみつくように自分の腕を絡ませた。京吾は短く声をあげて笑う。
「どうやってもシャチと泳ぎたいみたいだな。それなら五階だ」
「おなかがおっきくなるまえに……」
「京吾?」
突然、だれかが京吾の名を呼び、智奈は途中で言葉を切った。智奈が足を止めたのと、頭上から舌打ちが聞こえたのは同時だった。
その女性の声には聞き覚えがある。何気なくそう思いながら、京吾に合わせて声のしたほうをゆっくり振り向いた。
確かに、その声は知っていた。智奈は目を丸くして、数歩隔てたところにいる女性、堂貫悦子に見入った。
なんなんだ。
頭上のそれはつぶやきにしかなっていない。おそらく、智奈にしか聞こえていない。呆れたようであり、あきらめたようでもあるその言葉は、ひょっとしたら悦子に向けられたものではないのかもしれない。悦子には隣に連れの男性がいた。
悦子に連れがいるなら、それは立岡史郎が妥当だろうけれど、智奈の記憶にある顔とはまったく違う。そもそもこんなふうに堂々と会える間柄ではない。
それならだれ?
初老の男性は京吾には及ばないけれど背が高く、姿勢もよく、佇まいはさながらベテラン俳優だ。引けを取らない洗練された気配が漂う。だれかに似ている。そう感じたとき。
「おじいさんまでここで密会ですか」
智奈は京吾の言葉に吃驚し、半面、納得がいった。初老の男性は京吾に似ているのだ。いや、生まれた順番からすると、京吾がその男性――祖父の堂貫京介に似ているのだ。
以前、『祖父に会ったらきっとびっくりする』と京吾が智奈に云ったことがある。そのとおりだった。例えば、革張りの椅子にふんぞり返った政治家のような厳つい人物をイメージしていたのに、そこにいる人は、品があって、やはり京吾の云うとおり、怖いフィクサーにはとても見えなかった。
「密会とはいかがわしいようにしか聞こえないが。密談と云ってくれ」
その声も智奈が想像していたようにしわがれてはいない。なめらかで穏やかだ。おまけに冗談めかした返しで、ジョークも通じる人のようだ。
「おれのホテルがスキャンダルの宝庫になるのはごめんですよ」
京吾の口調も穏やかだけれど、さっきのつぶやきからすればあくまで装っているだけで、本音は違うのだろう。
京介は薄らと笑って応じ、おもむろに智奈へと目を転じた。
「そちらは……」
「智奈さんよ。行雄さんの娘さん。でしょ?」
京介をさえぎり、悦子が先回りして云い、智奈に同意を求めた。
悦子の口から父のことを『行雄さん』と聞くと、智奈は複雑な気持ちになった。愛人関係が名ばかりだったことは知っているのに。ただ、この遭遇に驚いたあまり、一礼すらしていないことに気づいた。
「はい。はじめまして。三枝智奈といいます」
智奈は、最初は話しかけた悦子に、それから京介に会釈をした。
そうしながら、智奈の存在は彼らにとって非常に微妙なのではないかと考え至った。思わず身構えてしまった一方で、京介と悦子は各々で名乗り、そして京吾との関係を教えるという簡単な自己紹介をした。智奈の不安は取り越し苦労だったのか、拍子抜けするくらい気安い。
そして京介は京吾に向かった。
「密談のまえに腹ごしらえだ。おまえたちふたりも付き合ってくれ。私の部屋に三十分後に」
智奈が思いもしない招待にびっくりしているうちに、じゃあね、と悦子の軽快な言葉を残して彼らはさっさと立ち去った。
智奈は隣を振り仰ぐ。京吾が一文字にくちびるを結んでいるところを見ると、招待ではなく、命令だったのかもしれない。
「京吾、何万円もするフルコースが出る?」
京吾の不機嫌よりも、緊張からくる智奈の不安のほうがずっと深刻で、それを払拭するように自分でちゃかしてみる。
すると、功を奏したのか京吾は吹くように笑った。
「智奈、ナイスだ。祖父がこのホテル最高のメニューを注文してなかったらすり替えておく」
そう云って、人前にもかかわらず、京吾は腰を折って素早く智奈に口づけた。
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