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51.悪魔は食欲不振(2)

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 智奈は一口大にちぎったパンを手に持ったまま、とりあえず成り行きとシンジから聞かされたことを話した。いや、とりあえずも何も、シンジといた時間は実情、“掻い摘んで話す”という程度の時間しか一緒にいなかったのだ。
「まさか、あの男の云い分を鵜呑みにはしてないな」
 智奈の話を聞いたあとの、京吾の第一声はそれだった。
 いまの京吾も、ひとつの顔なのだろう。堂貫ともキョウゴとも違う口調で、疑り深く智奈を見つめる。
「してないけど……じゃあ、シンジくんが嵌められたって可能性はゼロ?」
「何人もの被害者たち全員がそろいもそろって嘘を吐いてると?」
 智奈の質問への答えは、身も蓋もないような問いで返ってきた。
「そんなことない」
「そもそも、なんであの男は智奈がGUにいることを知ってる?」
「……偶然――?」
「――なわけないだろう」
 京吾は智奈の言葉をさえぎって否定した。眼差しは不機嫌そのもので睨めつけるようだ。
「わたしは話してないから! ロマンチックナイトに行ってたときも会社の名前は云わなかったし、転職したことを知ってるのはリソースAの人たちだけ。話す人いなかったから」
 智奈は潔白を訴えたけれど、そうしたことで京吾は眉間にしわを寄せ、よけいに考えこんだ様子だ。
「じゃあ、だれだ」
 京吾は独り言を漏らす。智奈に訊ねているのではなく、京吾は自分に問いかけている。
 京吾の反応は大げさすぎる気がして、智奈は首をかしげた。
「その……深刻なこと?」
 京吾はくだらない質問だとばかりに、じろりと智奈を見やった。ともすれば、呆れて小ばかにした気配も無きにしも非ず、どちらかというとのん気な智奈に嘆いている。
「どこに深刻じゃないっていう安心材料があるんだ。あの男は智奈に嘘まで吐いた。いまさら会って、智奈の誤解を解く必要性がどこにある?」
「ホストに戻りたいってことじゃない? わたしがヘラートのオーナーと知り合いだと思ってるから、わたしに口添えしてほしいとか、わたしを通して“キョウゴ”に会おうとしてるとか」
 智奈が云うと、京吾はしばらく黙りこみ、そして深々とため息をついた。気持ちを切り替えるためか、ワインをゆっくり含んで飲み、口を開いた。
「その線も一理あるけど、どこで智奈の居場所を突きとめたのか、知っておく必要はある」
 その口ぶりからすると、探偵か何かを使って調べる気かもしれない。それはそれで智奈は安心できる。うなずくと、京吾もまたうなずいて、重荷を吹っきるようなしぐさで首を横に振った。
「シンジくんは、GUの社長のことは聞かなかったけど、ヘラートのオーナーとは別人だって思ってることになる?」
 京吾はわずかに顔をしかめた。
「ヘラートは合法のもとやってる。例えば、法務局でたどれば同一人物だとわかるだろう。けど、ヘラートが会社名じゃないことは智奈も知ってのとおりだ。ぺーぺーのホストにわざわざ“おれ”の会社名を口外する奴もいない」
 京吾の云うとおり、ヘラートは京吾がGUとは別に経営するホテル――ボンシャンホテルの事業の一部だということは智奈も知っている。
 そこにたどり着くのは難しいというのは――『おれ』と強調したことに鑑みればつまり、箝口令みたいな作用が自ずと働いているのだ。
「わたしと京吾の関係をどこまで知っているのかわからなかったし、知られるようなことは云ってないから」
「ロマンチックナイトのホストが、ヘラートのオーナーの女を襲った。それが界隈にまかり通っていることだ。同棲はそれを既成事実にするためだった。それで大抵の奴には効力がある。けど、愚か者は得てして恐怖という感覚が欠如している。だから安心はできない。少なくともおれは」
 京吾が同棲を持ちかけたとき、『魔除けになれる』と云ったのはそういうことだったのか。そして、愚か者にはシンジも属している。京吾はそう云っているのだろう。
「……わかった、気をつける」
 京吾が聞きたいと思う答えを探して云ってみたけれど、それでも不服そうだ。
 京吾の気が立っていることは確かで、それが長続きしないことを祈るしかない。よけいなことを云ってしまう危険を冒すよりも、黙っているほうが賢明だ。それが不自然に見えないよう、好都合にも食事という方法がある。食欲不振な京吾には気の毒だけれど、好物のライチを食べたくてうずうずしていた智奈は、持っていたパンを食べたあとライチを抓んだ。
 ライチの皮をむきながら、智奈は京吾とのことをあらためて考えた。ふたりが同棲するような恋人関係だと知る人はそういない。智奈は話す人がいないから話さないし、会社では気を遣わせてしまうからと黙っている。
 社内のことに限っては、智奈からすると、周囲に気を遣わせることよりも自分が気まずいから公にしたくないのだ。一方で、京吾に云わせれば、知られていないことで自分が気を遣わなくてすむらしい。例えば、今日みたいに社長室に智奈を呼びだして“いけないこと”をやっても勘繰られることもない。視点を変えれば、京吾は“いけないこと”をやりたがっているとも受けとれる。
 ただ、社内でも知っている人は長友だけではなかった。
 GUビルの前で北村にシンジを紹介したとき、普通なら訊ねるところを北村がそうしなかったことがある。智奈が同年代の男性といたなら、普通はカレシかと訊ねる。それは訊ねなかったのに、どこに行くのかと北村は行き先を訊ねた。不自然すぎる。
「北村主任は、わたしたちのことを知ってるの?」
 智奈が食べる傍らで、何やら思考に耽っていた京吾に話しかけてみた。
「大学の後輩だ」
 京吾は肩をすくめて、智奈がすでに知っていることを云う。
「それは知ってる。答えになってないよ?」
「あいつももとホストだ。大学時代におれが誘って、就活のときにGUに誘った」
「コージくんみたいな感じ?」
 智奈が訊ねると、京吾は何やら可笑しそうにした。いつもの京吾に戻っている。
「智奈にはコージがどう見えてる?」
「忠犬ハチ公。でも、ただ仕えてるんじゃなくて、命令されなくても主のために動いてる。京吾の頭脳の一部みたいな感じ?」
「確かに、新たな案件以外、おれの意志は理解しているし、だから勝手に動いてくれる」
「北村主任も勝手に動いたんだよね。だから京吾はチョコラに来た。シンジくんのこと……わたしとどう関わってるか、北村主任は知ってたの?」
 北村が智奈と京吾の本当の関係を知っているのか否か、あの直後に京吾に連絡をしたとしたら、長友同様、“堂貫社長のコネ入社”以上の関係だと思っている、あるいは知っているに違いなかった。
「いや。あの男が現れるとは、つい二時間前まで思っていなかった。北村はいわゆる“ニオイ”でわかるんだろう。安全か危険か。だから北村の下に智奈を置いたってところもある」
 ライチのほのかな甘い匂いくらいは智奈にもわかる。そんなレベルと違って、京吾の最後の言葉を聞くと、北村が形のないものをニオイでわかるというのはどうやら冗談ではないらしい。
 いや、問題はそこではなく。
「京吾の忠犬ハチ公なスパイってどれくらいいるの?」
 あらゆるところにいるとしたら、安心と相反して、見張られているみたいで落ち着けない。
「ある程度は把握してる」
 京吾の答えはなんとも曖昧だった。
 津田が、京吾の周りには男も多く集まると云っていたけれど、きっとこういうことなのだろう。
「そのある程度の人たち、北村主任みたいに特技を持ってる人、多いの?」
「それなりに有能だ。表裏でおれは人材業をやってるんだ、人を見ることも使うことも、常人よりは長けているつもりだ」
 自信たっぷりにそう云ったあと、京吾は、けど、と逆接を唱えた。ワイングラスを置いてカウンターをまわりこんで智奈のほうにやってくる。
 ライチをかじり、その果汁が智奈の口の端に滲んだ。それを京吾が指先ですくい、智奈の口もとに突きつける。
「智奈はおれの目をくらませる。せめて、癒やしてほしい。食欲不振でおれが飢え死にするまえに」
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