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48.充電
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「京吾、何を想像してるの!? それにデスクの下に潜りこんでないっ」
悲鳴じみた智奈の抗議に、京吾はどこ吹く風といったふうに飄々として笑う。智奈の頬を両手でくるみ、顎を持ちあげると、自分は前のめりになった。ゆったりとした吸いつくキスをして、まもなく離れていった。
「バレバレだな」
前かがみになったまま京吾は薄く笑う。
「なんのこと?」
「このまえ大騒ぎしたくせに学習してない。口紅が取れてる」
オフィスで“キス魔”に遭遇するのは今日がはじめてではない。頻繁にあるわけでもないけれど、人目のないところで京吾とすれ違うときは油断ならない。
めったにすれ違うことはないし、大抵は挨拶みたいなキスだけれど、少し前に破目を外した、ねちっこいキスに見舞われた。京吾がさっき云ったこと――キスでイクというのはあり得ないとしても、智奈がすぐのぼせてしまうのは確かで、そのときは逃げるようにパウダールームに駆けこみ、どんな顔をしているか確かめたら、リップのオレンジ色が見事に取れていた、という具合だ。
智奈は末端の一般社員で、なお且つ新人であり、こんなふうに社長室を訪れることは普通にないから、今日は油断してしまった。
「大騒ぎしてない。慌てただけ」
「まあ、今日は心配ない」
京吾はしたり顔で笑うとスーツベストのポケットに手を入れ、取りだしたものを智奈の目の前に掲げる。智奈が使っているメイクブランドのリップだ。
「……持ち歩いてるの?」
「おれは学習するから、智奈と違って。口、軽く開けて」
京吾は云いながらリップをくるくるとまわして智奈の顎を軽く持ちあげると、くちびるに色をのせていく。
「いかにも手馴れてる感じ」
京吾がリップをしまうのを見ながら、智奈の口からそんな言葉が飛びだした。嫌味に近く、嫉妬だと受けとられかねない口調だと自分で思う。
案の定、京吾はにやにやして悦に入る。
「もとホストだと知ってるだろう」
京吾が智奈の腕をつかみ、促されるまま智奈は立ちあがった。
「京吾はさっきもお母さんにそう云ってた。七海さんてだれ? 男の人? 女の人?」
智奈は矢継ぎ早に疑問を投げかけた。さっき手慣れていると云ってしまったことも悦子の言葉が気にかかっていたせいで、またがまんできず衝動的に訊ねてしまった。
京吾は肘掛けに腕を置いて悠然と椅子にもたれ、目の前に立った智奈を見上げる。その顔の“にやにや”に拍車がかかった。
「智奈も一人前に嫉妬するわけだ」
「……うんざりする?」
「おれが“堂貫”にジェラシーを感じてる話、さっき聞いただろう? 智奈はうんざりしたのか?」
「うんざりしてないけど、比べるところを間違ってると思う」
「間違ってない。智奈よりもずっと複雑なジェラシーだ。自分とは闘いようがない」
確かに、多重人格であっても自分とは闘いようがないけれど、いま話が逸れているのは意図してのことか。
「……七海さんのこと、教えたくないの?」
京吾はわずかに右の肩をすくめ、薄く笑う。
「逆に云うほどのことでもない。智奈も一度、見かけてるはずだ。ヘラートの前で」
なんのこと? と、すぐにはぴんと来なかった。智奈がヘラートを訪ねたのは一度だけ――といってもクラブの前まで行っただけだが、そのときのことは鮮明に憶えていて、まもなく七海という名とその姿が一致した。
「ヘラートからホテルに一緒に行った人?」
「そうだ。彼女は美容サロンの経営者で、母を通してヘラートに来た客だ。彼女にとっては、母は上客で仲がいい」
あの日、結果的にはあの女性と何もなかったと聞いて知っているけれど、だからいいということにはならない。かといって、智奈と会う以前のことに、智奈が口を出す筋合いもない。複雑だ。
「カノジョ、いっぱいいた?」
「おれが云ってるのは、智奈が云う“カノジョ”とは違う。女性というだけだ。わかってるだろう? もう四カ月近く、智奈と暮らしてる。智奈は特別な存在だ。ほかのどの女性とも一緒に暮らそうなんて思ったことはないし、そうしたこともない。まえにもそう云った」
「信用してないわけじゃなくて……」
「やっぱりジェラシーだ」
「好きな人がいるなら、あたりまえの感情だと思う」
「同感だ」
という言葉が返ってきたものの、不公平だと感じるのは智奈に自信が伴わないせいだろうか。京吾はずっと余裕があるように見える。
そろそろ帰さないとな、と独り言のようにつぶやいて京吾は続けた。
「今日はヘラートに顔を出してくる。遅くなるし、夕食もすませてくる。いい?」
嫌と答えたら京吾はどうするだろう。ふとわがままなことを考えた。けれど、『いい?』と問うのはつまり“大丈夫か”という問いかけであり、智奈のことを気にかけてくれているとわかる。
「大丈夫。……もしかして呼びだしたのって、それを云うため?」
「おれはいつだって智奈に飢えてる」
「高いお給料をもらってるから、仕事はちゃんとしたい」
智奈はまわりくどく、仕事中の不謹慎な私用にNGを出したのだけれど、その実、うれしかった。
「やっぱり生意気だ」
「戻ります。お疲れさまです」
応戦していたらいつまでも戻れない。もともと本心は離れたくないと思っているから、自分の気持ちにも強引に動かなくてはならない。智奈は取り合わないことにして、社員らしく丁寧に一礼をした。
京吾は呆れた素振りで笑い、デスクに置いた書類を智奈に差しだした。
「これを持って。仕事してたっていうフリしたほうがいいだろう?」
智奈が受けとると同時に京吾は立ちあがり――
「ついでに、おれが家に帰るまでのぶん、充電だ」
と、智奈を抱きしめた。
充電はふたりのどちらに必要なのか。きっと、ふたりともに必要なのだ。
悲鳴じみた智奈の抗議に、京吾はどこ吹く風といったふうに飄々として笑う。智奈の頬を両手でくるみ、顎を持ちあげると、自分は前のめりになった。ゆったりとした吸いつくキスをして、まもなく離れていった。
「バレバレだな」
前かがみになったまま京吾は薄く笑う。
「なんのこと?」
「このまえ大騒ぎしたくせに学習してない。口紅が取れてる」
オフィスで“キス魔”に遭遇するのは今日がはじめてではない。頻繁にあるわけでもないけれど、人目のないところで京吾とすれ違うときは油断ならない。
めったにすれ違うことはないし、大抵は挨拶みたいなキスだけれど、少し前に破目を外した、ねちっこいキスに見舞われた。京吾がさっき云ったこと――キスでイクというのはあり得ないとしても、智奈がすぐのぼせてしまうのは確かで、そのときは逃げるようにパウダールームに駆けこみ、どんな顔をしているか確かめたら、リップのオレンジ色が見事に取れていた、という具合だ。
智奈は末端の一般社員で、なお且つ新人であり、こんなふうに社長室を訪れることは普通にないから、今日は油断してしまった。
「大騒ぎしてない。慌てただけ」
「まあ、今日は心配ない」
京吾はしたり顔で笑うとスーツベストのポケットに手を入れ、取りだしたものを智奈の目の前に掲げる。智奈が使っているメイクブランドのリップだ。
「……持ち歩いてるの?」
「おれは学習するから、智奈と違って。口、軽く開けて」
京吾は云いながらリップをくるくるとまわして智奈の顎を軽く持ちあげると、くちびるに色をのせていく。
「いかにも手馴れてる感じ」
京吾がリップをしまうのを見ながら、智奈の口からそんな言葉が飛びだした。嫌味に近く、嫉妬だと受けとられかねない口調だと自分で思う。
案の定、京吾はにやにやして悦に入る。
「もとホストだと知ってるだろう」
京吾が智奈の腕をつかみ、促されるまま智奈は立ちあがった。
「京吾はさっきもお母さんにそう云ってた。七海さんてだれ? 男の人? 女の人?」
智奈は矢継ぎ早に疑問を投げかけた。さっき手慣れていると云ってしまったことも悦子の言葉が気にかかっていたせいで、またがまんできず衝動的に訊ねてしまった。
京吾は肘掛けに腕を置いて悠然と椅子にもたれ、目の前に立った智奈を見上げる。その顔の“にやにや”に拍車がかかった。
「智奈も一人前に嫉妬するわけだ」
「……うんざりする?」
「おれが“堂貫”にジェラシーを感じてる話、さっき聞いただろう? 智奈はうんざりしたのか?」
「うんざりしてないけど、比べるところを間違ってると思う」
「間違ってない。智奈よりもずっと複雑なジェラシーだ。自分とは闘いようがない」
確かに、多重人格であっても自分とは闘いようがないけれど、いま話が逸れているのは意図してのことか。
「……七海さんのこと、教えたくないの?」
京吾はわずかに右の肩をすくめ、薄く笑う。
「逆に云うほどのことでもない。智奈も一度、見かけてるはずだ。ヘラートの前で」
なんのこと? と、すぐにはぴんと来なかった。智奈がヘラートを訪ねたのは一度だけ――といってもクラブの前まで行っただけだが、そのときのことは鮮明に憶えていて、まもなく七海という名とその姿が一致した。
「ヘラートからホテルに一緒に行った人?」
「そうだ。彼女は美容サロンの経営者で、母を通してヘラートに来た客だ。彼女にとっては、母は上客で仲がいい」
あの日、結果的にはあの女性と何もなかったと聞いて知っているけれど、だからいいということにはならない。かといって、智奈と会う以前のことに、智奈が口を出す筋合いもない。複雑だ。
「カノジョ、いっぱいいた?」
「おれが云ってるのは、智奈が云う“カノジョ”とは違う。女性というだけだ。わかってるだろう? もう四カ月近く、智奈と暮らしてる。智奈は特別な存在だ。ほかのどの女性とも一緒に暮らそうなんて思ったことはないし、そうしたこともない。まえにもそう云った」
「信用してないわけじゃなくて……」
「やっぱりジェラシーだ」
「好きな人がいるなら、あたりまえの感情だと思う」
「同感だ」
という言葉が返ってきたものの、不公平だと感じるのは智奈に自信が伴わないせいだろうか。京吾はずっと余裕があるように見える。
そろそろ帰さないとな、と独り言のようにつぶやいて京吾は続けた。
「今日はヘラートに顔を出してくる。遅くなるし、夕食もすませてくる。いい?」
嫌と答えたら京吾はどうするだろう。ふとわがままなことを考えた。けれど、『いい?』と問うのはつまり“大丈夫か”という問いかけであり、智奈のことを気にかけてくれているとわかる。
「大丈夫。……もしかして呼びだしたのって、それを云うため?」
「おれはいつだって智奈に飢えてる」
「高いお給料をもらってるから、仕事はちゃんとしたい」
智奈はまわりくどく、仕事中の不謹慎な私用にNGを出したのだけれど、その実、うれしかった。
「やっぱり生意気だ」
「戻ります。お疲れさまです」
応戦していたらいつまでも戻れない。もともと本心は離れたくないと思っているから、自分の気持ちにも強引に動かなくてはならない。智奈は取り合わないことにして、社員らしく丁寧に一礼をした。
京吾は呆れた素振りで笑い、デスクに置いた書類を智奈に差しだした。
「これを持って。仕事してたっていうフリしたほうがいいだろう?」
智奈が受けとると同時に京吾は立ちあがり――
「ついでに、おれが家に帰るまでのぶん、充電だ」
と、智奈を抱きしめた。
充電はふたりのどちらに必要なのか。きっと、ふたりともに必要なのだ。
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