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46.武器は魅惑
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一緒に暮らそう、とあらためてキョウゴ――堂貫京吾が云っておよそ二カ月がたった。六月の半ばすぎ、季節も春を終えて夏との境目、梅雨に入っている。
週末前の今日も、傘が必要なくらいの雨が降っているけれど、オフィスのなかにまで雨音は届かない。キーボードを叩く音だったりマウスのクリック音だったり、あるいは会話とかこもった足音とか、至って通常の雑音が奏でられている。
三枝税理士事務所の整理が付いた日、京吾が云いだしたとおりに、智奈はリソースA企画をやめてGUホールディングスに転職した。有給休暇を消化したのち、コーポレートセクションの財務部に所属して二カ月足らず、仕事はまだまだ新人レベルだけれど、オフィスの雰囲気にはずいぶんと慣れた。
「三枝さん、社長から呼びだしが来たわよ。リソースAのことで聞きたいことがあるって。社長室に行ってくれる?」
四半期決算を控えて確認作業が多くなり、この頃は残業時間も増えている。終業時間の三十分前、気分転換のためのコーヒーを片手にデスクに戻ると、智奈の指南役をしてくれている有吉が隣のデスクから声をかけた。
有吉は四十代で、GUが株式上場を目指す頃から勤めているベテランだ。この春から親の介護という家庭の事情があり、時短、なお且つフレックスタイムで働いている。智奈が来たことで気分的にも仕事的にもらくになったと、とても歓迎してくれた。
「あ、すみません。すぐ行きます」
「ごゆっくり。わたしはもう帰るから、あとを頼むわね」
ごゆっくり、という言葉は職場には不似合いだろう。有吉は智奈と“社長”の関係を疑って、きっとからかっている。
疑うも何も、ただならぬ関係であることは確かだ。ただし、ふたりが職場で親しげに振る舞うことはない。あの日、堂貫社長自らが智奈に会社を案内したこと、それが想像をたくましくさせているのだと思う。つまり、疑っているのは有吉に限ったことではない。直接、智奈が問われることがないだけで。
リソースA企画では針の筵だったけれど、別の意味で、ここも針の筵だ。大して経歴のない若い智奈が、新入社員の入社直後に中途採用で入社したことだけでも目立っているのに。京吾はそのうち気にされなくなると云う。そのとおりだと思うけれど、そうなるまでに辛抱は必須だ。
「はい、お疲れさまでした。有吉さん、ちゃんと休みも取ってくださいね」
周囲を気にしながら、無難に応じると、有吉はたいへんさも見せずにフフッと笑う。笑うところではないだけに、有吉が冷やかしていたことは確定した。
ありがとう、と可笑しそうにした有吉に見送られて、智奈は社長室に向かった。
廊下に出て少し奥に行き、コーポレートセクションとは反対側にある社長室のドアをノックする。待つことなく、どうぞ、とこもった声がして、智奈はドアを開けてなかに入った。
「お疲れさまです」
云いながら、智奈は広い社長室を見渡した。いるのは京吾一人だ。そうわかって、智奈はほっとして肩の力を抜く。
京吾は大きなデスクについていて、肘置きがある贅沢な革張りの椅子に座ったまま、智奈が近づいてくるのを待った。
「お疲れ。だれかに狙われてるのか」
有吉に続いて京吾までもが智奈を見て可笑しそうにする。
「狙われてない……ません。疑われるから慎重にしているだけ……です」
京吾に釣られ、砕けてしまった言葉遣いを改め、智奈は仕事モードをどうにか守った。京吾は通常、社内でもグリーングラスをかけているけれど、いまは外していることもあって油断した。
眼鏡をかけた堂貫がキョウゴだということに慣れる以前は、言葉遣いもうまく対処できていたのに、いざ慣れてしまうと普段から心がけておかなければならなくなった。京吾はふたりきりのときくらい普通でいいだろうと云うけれど、場所に応じて切り替えが上手な京吾と違い、智奈はぼろが出かねない。
「疑われる?」
京吾はすまして惚けた。
「気づいてないはずない、ですよね」
「当然だ。智奈が特別だ、という印象はここを案内したとき意図して与えたからな。社内だけでなく、エントランスの受付にも」
なるほど、あのときの『成功だ』という言葉はそういう意味だったのだ――と納得している場合ではない。もっとも、見学してみないかと誘われて能天気に乗ったのは智奈だ。云い訳をすれば、GUにスカウトされるとは思ってもいなかった。
「必要ありました?」
「守ろうとしてるのに、よけいなお世話だって云うつもりか?」
「わたし、まだ守られる必要、あります?」
問いを問いで返すと、キョウゴはかすかに首をひねったあと、苦笑を浮かべた。
「確かに、おれがやりたくて勝手にやってることでもある。ここに来て」
京吾はデスクの手前のほうをトントンと指先で叩いた。そこに書類があって、智奈はデスクをまわりこんで京吾の側に行き、デスクの上を覗きこんだ。用事はその書類のことだろうと思ってそうしたのに、京吾は椅子を大きく引くと、前のめりになった智奈の脚を膝辺りから腕で抱きこみ、同時に腋の下にもう片方の腕がまわって、あっという間に躰がすくい上げられた。
状況を把握しきれずに悲鳴をあげたのはつかの間、不安定さを回避しようとしたのは本能で、京吾に抱き寄せられた瞬間に智奈は抱きつき、そこをすかさず利用してキョウゴは智奈のくちびるをくちびるで捉え、悲鳴を呑みこんだ。
一瞬の出来事で、混乱した智奈はキスを受けとめることで精いっぱいだ。京吾は無遠慮に舌を差し入れ、智奈の舌をすくう。無防備だったゆえに、京吾が強く吸ったとたん舌が呑みこまれていく。
んんっ。
京吾は自分の口の中で智奈の舌先を自在に舐る。くすぐったさが快楽に変化するのに時間はかからない。あまりの気持ちよさに智奈は力を奪われて、もたげていた首からも力が抜ける。腕の重みの変化に気づいたのだろう、京吾は吸着音を立てながらゆっくりと顔を上げた。
智奈は緩慢に瞬きをして、真上にある顔に焦点を合わせた。そこに見えたのは、たとえるなら魅惑を武器にする悪魔だ。
「智奈はそのうち、キスでイケるんじゃないか」
至極満足げな声音だ。
「……ちが……」
「オフィスでイカせるにはもってこいだ」
違うと云いかけた言葉をさえぎり、京吾が云った言葉に智奈はハッと我に返った。
「京吾っ、こんなところで――」
「“社長”、じゃないのか」
起きあがろうともがくけれど、京吾の腕がそれを許さず、あまつさえ智奈の失言を正した。動けないことで逆にあきらめがついて、智奈も冷静さを少し取り戻す。
もしもだれかが入ってくるとして、ばつが悪いのは、尊厳を奪われるものが何もない智奈よりも、地位のある京吾のほうだ。智奈はそう開き直った。
「……“社長”、これはセクハラだと思います」
「その言葉遣い、背徳感があって俄然、やる気が出てくるけどな」
始末に負えない。智奈は手っ取り早く、かろうじて手の届くところにあった眼鏡を取ると、京吾の鼻にフレームを引っかけた。
週末前の今日も、傘が必要なくらいの雨が降っているけれど、オフィスのなかにまで雨音は届かない。キーボードを叩く音だったりマウスのクリック音だったり、あるいは会話とかこもった足音とか、至って通常の雑音が奏でられている。
三枝税理士事務所の整理が付いた日、京吾が云いだしたとおりに、智奈はリソースA企画をやめてGUホールディングスに転職した。有給休暇を消化したのち、コーポレートセクションの財務部に所属して二カ月足らず、仕事はまだまだ新人レベルだけれど、オフィスの雰囲気にはずいぶんと慣れた。
「三枝さん、社長から呼びだしが来たわよ。リソースAのことで聞きたいことがあるって。社長室に行ってくれる?」
四半期決算を控えて確認作業が多くなり、この頃は残業時間も増えている。終業時間の三十分前、気分転換のためのコーヒーを片手にデスクに戻ると、智奈の指南役をしてくれている有吉が隣のデスクから声をかけた。
有吉は四十代で、GUが株式上場を目指す頃から勤めているベテランだ。この春から親の介護という家庭の事情があり、時短、なお且つフレックスタイムで働いている。智奈が来たことで気分的にも仕事的にもらくになったと、とても歓迎してくれた。
「あ、すみません。すぐ行きます」
「ごゆっくり。わたしはもう帰るから、あとを頼むわね」
ごゆっくり、という言葉は職場には不似合いだろう。有吉は智奈と“社長”の関係を疑って、きっとからかっている。
疑うも何も、ただならぬ関係であることは確かだ。ただし、ふたりが職場で親しげに振る舞うことはない。あの日、堂貫社長自らが智奈に会社を案内したこと、それが想像をたくましくさせているのだと思う。つまり、疑っているのは有吉に限ったことではない。直接、智奈が問われることがないだけで。
リソースA企画では針の筵だったけれど、別の意味で、ここも針の筵だ。大して経歴のない若い智奈が、新入社員の入社直後に中途採用で入社したことだけでも目立っているのに。京吾はそのうち気にされなくなると云う。そのとおりだと思うけれど、そうなるまでに辛抱は必須だ。
「はい、お疲れさまでした。有吉さん、ちゃんと休みも取ってくださいね」
周囲を気にしながら、無難に応じると、有吉はたいへんさも見せずにフフッと笑う。笑うところではないだけに、有吉が冷やかしていたことは確定した。
ありがとう、と可笑しそうにした有吉に見送られて、智奈は社長室に向かった。
廊下に出て少し奥に行き、コーポレートセクションとは反対側にある社長室のドアをノックする。待つことなく、どうぞ、とこもった声がして、智奈はドアを開けてなかに入った。
「お疲れさまです」
云いながら、智奈は広い社長室を見渡した。いるのは京吾一人だ。そうわかって、智奈はほっとして肩の力を抜く。
京吾は大きなデスクについていて、肘置きがある贅沢な革張りの椅子に座ったまま、智奈が近づいてくるのを待った。
「お疲れ。だれかに狙われてるのか」
有吉に続いて京吾までもが智奈を見て可笑しそうにする。
「狙われてない……ません。疑われるから慎重にしているだけ……です」
京吾に釣られ、砕けてしまった言葉遣いを改め、智奈は仕事モードをどうにか守った。京吾は通常、社内でもグリーングラスをかけているけれど、いまは外していることもあって油断した。
眼鏡をかけた堂貫がキョウゴだということに慣れる以前は、言葉遣いもうまく対処できていたのに、いざ慣れてしまうと普段から心がけておかなければならなくなった。京吾はふたりきりのときくらい普通でいいだろうと云うけれど、場所に応じて切り替えが上手な京吾と違い、智奈はぼろが出かねない。
「疑われる?」
京吾はすまして惚けた。
「気づいてないはずない、ですよね」
「当然だ。智奈が特別だ、という印象はここを案内したとき意図して与えたからな。社内だけでなく、エントランスの受付にも」
なるほど、あのときの『成功だ』という言葉はそういう意味だったのだ――と納得している場合ではない。もっとも、見学してみないかと誘われて能天気に乗ったのは智奈だ。云い訳をすれば、GUにスカウトされるとは思ってもいなかった。
「必要ありました?」
「守ろうとしてるのに、よけいなお世話だって云うつもりか?」
「わたし、まだ守られる必要、あります?」
問いを問いで返すと、キョウゴはかすかに首をひねったあと、苦笑を浮かべた。
「確かに、おれがやりたくて勝手にやってることでもある。ここに来て」
京吾はデスクの手前のほうをトントンと指先で叩いた。そこに書類があって、智奈はデスクをまわりこんで京吾の側に行き、デスクの上を覗きこんだ。用事はその書類のことだろうと思ってそうしたのに、京吾は椅子を大きく引くと、前のめりになった智奈の脚を膝辺りから腕で抱きこみ、同時に腋の下にもう片方の腕がまわって、あっという間に躰がすくい上げられた。
状況を把握しきれずに悲鳴をあげたのはつかの間、不安定さを回避しようとしたのは本能で、京吾に抱き寄せられた瞬間に智奈は抱きつき、そこをすかさず利用してキョウゴは智奈のくちびるをくちびるで捉え、悲鳴を呑みこんだ。
一瞬の出来事で、混乱した智奈はキスを受けとめることで精いっぱいだ。京吾は無遠慮に舌を差し入れ、智奈の舌をすくう。無防備だったゆえに、京吾が強く吸ったとたん舌が呑みこまれていく。
んんっ。
京吾は自分の口の中で智奈の舌先を自在に舐る。くすぐったさが快楽に変化するのに時間はかからない。あまりの気持ちよさに智奈は力を奪われて、もたげていた首からも力が抜ける。腕の重みの変化に気づいたのだろう、京吾は吸着音を立てながらゆっくりと顔を上げた。
智奈は緩慢に瞬きをして、真上にある顔に焦点を合わせた。そこに見えたのは、たとえるなら魅惑を武器にする悪魔だ。
「智奈はそのうち、キスでイケるんじゃないか」
至極満足げな声音だ。
「……ちが……」
「オフィスでイカせるにはもってこいだ」
違うと云いかけた言葉をさえぎり、京吾が云った言葉に智奈はハッと我に返った。
「京吾っ、こんなところで――」
「“社長”、じゃないのか」
起きあがろうともがくけれど、京吾の腕がそれを許さず、あまつさえ智奈の失言を正した。動けないことで逆にあきらめがついて、智奈も冷静さを少し取り戻す。
もしもだれかが入ってくるとして、ばつが悪いのは、尊厳を奪われるものが何もない智奈よりも、地位のある京吾のほうだ。智奈はそう開き直った。
「……“社長”、これはセクハラだと思います」
「その言葉遣い、背徳感があって俄然、やる気が出てくるけどな」
始末に負えない。智奈は手っ取り早く、かろうじて手の届くところにあった眼鏡を取ると、京吾の鼻にフレームを引っかけた。
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