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39.女性の影
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「笑い事じゃない。エレベーターの密室のなか、嗅覚がどうにかなりそうだった。なんで人工香料を故意に纏う必要があるんだ? 例えば……」
キョウゴは智奈の頭の後ろに手をまわして引き寄せた。頭の天辺に顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
「いい匂いだ」
会社の屋上で堂貫が云ったセリフと同じだ。
「ただのシャンプーの匂いだと思うけど」
キョウゴが手を放して、智奈は前のめりになっていた躰を起こしながら首をかしげた。
「きっと、そのくらいがちょうどいい。智奈のフェロモンとのバランスが絶妙だ」
フェロモンなんて……。
放っておけば危うい話になっていきそうで、智奈は俄に焦る。どうしたものか、急いで考えめぐった。
「マンションの女性たち、キョウゴのフェロモンに呼び寄せられてるのかも」
智奈はちゃかすことで話の方向を修正してみた。そこへ――
「オーナーの周りは女性だけでなく男も多く集まりますよ」
と、津田が口を挟み、智奈を加勢する。
キョウゴはじろりと真向かいを見やり、すると、津田は銃口を向けられたように軽くホールドアップしておどけた。
「もちろん、人望がある、という意味です」
津田は続けて、一端のレストランよろしく配膳し終えた料理の説明をすると――
「智奈さん、オーナーには人でなしの一面もありますのでお気をつけて。どれが本物のお顔か、私は存じません。では、楽しい夜を」
と、キョウゴがきっとよけいなひと言だと思っている言葉――警告を無責任に残して津田は去った。
キョウゴが二つの顔を持っていることは、智奈もいま実感しているところだ。津田の放言は冗談か否か、キョウゴはその二つの顔に限らず、まだ別の顔を持っているというのだろうか。
「人でなしって……ほんと?」
「そう思う奴はいるだろうな。ただし、そいつの周辺は助かってることもある」
キョウゴは遠回しに、なお且つオブラートにくるんでいて、智奈は少しも理解できない。
「智奈、そのことよりも、まずは食事をして。経緯とか云い訳とか聞きたいだろう?」
キョウゴが指差すのに釣られて、あらためて津田が並べていった料理を見渡した。智奈はため息をつく。不満ではなくて、幸せのため息だ。食前酒が出るような食事にふさわしい、一品一品が着飾られたメニューだ。空腹感が煽られて、いただきます、とさっそく食べ始めた。
「キョウゴ、いつもこんなの食べてるの? 家で?」
香草ソースを散らした煮込みトマトに豚肉のテリーヌ。智奈が作ることのない前菜を食べて、空腹感が落ち着くなり智奈は訊ねてみた。
津田はこのキッチンを使い慣れている様子だった。と思い返したところで、別のことが急浮上して気になった。キョウゴが口を開きかけて、それよりもさきに智奈は、待って、と制した。
「もしかして女の人をここに連れてくるとき、いつも津田さんを呼んでる?」
その返事が来ても意味のないことだ。過去のことで消去も変更もきかない。ともすれば、キョウゴへの過干渉にしかならず、うんざりさせる。こんなふうに訊ねるのは智奈だけではなかっただろう。口にしてしまったのだから、これももはや変更がきかない。
「ごめんなさい。くだらないこと……」
「そう、くだらない質問をした罰だ、智奈のジェラシーだと受けとめることにする」
キョウゴは身勝手に解釈した云い方をしたけれど、そのとおりジェラシーだ。ヘラートに行ったときのあの女性が脳裡にちらついた。あのときの行く先はホテルだったけれど。
キョウゴはじっと智奈を見て、否定はしないんだな、とおもしろがった。
「さっき、智奈はこの家をおれのテリトリーだと云っただろう。それは正しい。おれは自分のテリトリーには絶対に信用できる奴しか呼ばない」
「……わたしのこと、信用してる?」
「そうだな、智奈の場合は信用以前の問題かもしれない」
「どういうこと?」
智奈が問うと、キョウゴは即答せず、迷った素振りで目を泳がせた。そうして整理がついたのか、智奈に目を戻した。
「その答えはすべて聞いてから聞くほうがいい。卑怯になりかねないから。これ以上、智奈に対して後ろめたくなるのはごめんだ」
キョウゴは打ち切りだとばかりに肩をそびやかして、ポタージュスープに手をつけた。
智奈もそれに倣う。それぞれの贅沢な味を楽しみながら、中途半端に終わった会話のことを考える。
「キョウゴ、さっきの信用できる人しか呼ばないって、もしかして女の人をここに呼んだことないって遠回しに云った?」
つい智奈はそうであってほしいという願望を口にしてしまう。自分は特別だと思いたい。それは正直な気持ちだ。堂貫とキョウゴ、ふたりが独りだとわかったとたん、自分で自分を現金だとも思う。
「間違ってない」
よかった。言葉にするのは控えたけれど、智奈の顔が綻ぶのを見ると気持ちは丸わかりだ。キョウゴは薄く笑った。
「智奈、堂貫悦子って知ってるか?」
キョウゴは出し抜けに質問を向け、智奈は首をかしげた。
「……だれ? ……堂貫って……親戚? ……じゃなくてひょっとしてキョウゴのお母さん?」
いつもさえぎるキョウゴが、智奈が独りで答えを出すまで待っていた。
智奈の問いにキョウゴはうなずき、そして促すように首をひねる。
「わたしが堂貫オーナーの……キョウゴのお母さんを知ってるわけないよ。もしかしてわたし、会ったことあるの?」
キョウゴは曖昧に首をひねって見せた。そうして脇に置いていたスマホを取ると、何かしら操作をして智奈に向けた。
なんだろう。
「堂貫悦子、これがおれの母だ」
キョウゴは、不思議そうにした智奈の無言の問いに答えた。
智奈はスマホを覗きこむ。刹那、目を丸くした。見間違いかと思って瞬きをしてみたけれど、記憶にある顔と一致した。それほど印象的な美人だったのだ、彼女は。
「この女性、お父さんと一緒にいた人……?」
智奈が見たことなのだから、キョウゴに問いかけたところで答えられるわけがないのに、キョウゴはおもむろにうなずいた。
キョウゴは智奈の頭の後ろに手をまわして引き寄せた。頭の天辺に顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
「いい匂いだ」
会社の屋上で堂貫が云ったセリフと同じだ。
「ただのシャンプーの匂いだと思うけど」
キョウゴが手を放して、智奈は前のめりになっていた躰を起こしながら首をかしげた。
「きっと、そのくらいがちょうどいい。智奈のフェロモンとのバランスが絶妙だ」
フェロモンなんて……。
放っておけば危うい話になっていきそうで、智奈は俄に焦る。どうしたものか、急いで考えめぐった。
「マンションの女性たち、キョウゴのフェロモンに呼び寄せられてるのかも」
智奈はちゃかすことで話の方向を修正してみた。そこへ――
「オーナーの周りは女性だけでなく男も多く集まりますよ」
と、津田が口を挟み、智奈を加勢する。
キョウゴはじろりと真向かいを見やり、すると、津田は銃口を向けられたように軽くホールドアップしておどけた。
「もちろん、人望がある、という意味です」
津田は続けて、一端のレストランよろしく配膳し終えた料理の説明をすると――
「智奈さん、オーナーには人でなしの一面もありますのでお気をつけて。どれが本物のお顔か、私は存じません。では、楽しい夜を」
と、キョウゴがきっとよけいなひと言だと思っている言葉――警告を無責任に残して津田は去った。
キョウゴが二つの顔を持っていることは、智奈もいま実感しているところだ。津田の放言は冗談か否か、キョウゴはその二つの顔に限らず、まだ別の顔を持っているというのだろうか。
「人でなしって……ほんと?」
「そう思う奴はいるだろうな。ただし、そいつの周辺は助かってることもある」
キョウゴは遠回しに、なお且つオブラートにくるんでいて、智奈は少しも理解できない。
「智奈、そのことよりも、まずは食事をして。経緯とか云い訳とか聞きたいだろう?」
キョウゴが指差すのに釣られて、あらためて津田が並べていった料理を見渡した。智奈はため息をつく。不満ではなくて、幸せのため息だ。食前酒が出るような食事にふさわしい、一品一品が着飾られたメニューだ。空腹感が煽られて、いただきます、とさっそく食べ始めた。
「キョウゴ、いつもこんなの食べてるの? 家で?」
香草ソースを散らした煮込みトマトに豚肉のテリーヌ。智奈が作ることのない前菜を食べて、空腹感が落ち着くなり智奈は訊ねてみた。
津田はこのキッチンを使い慣れている様子だった。と思い返したところで、別のことが急浮上して気になった。キョウゴが口を開きかけて、それよりもさきに智奈は、待って、と制した。
「もしかして女の人をここに連れてくるとき、いつも津田さんを呼んでる?」
その返事が来ても意味のないことだ。過去のことで消去も変更もきかない。ともすれば、キョウゴへの過干渉にしかならず、うんざりさせる。こんなふうに訊ねるのは智奈だけではなかっただろう。口にしてしまったのだから、これももはや変更がきかない。
「ごめんなさい。くだらないこと……」
「そう、くだらない質問をした罰だ、智奈のジェラシーだと受けとめることにする」
キョウゴは身勝手に解釈した云い方をしたけれど、そのとおりジェラシーだ。ヘラートに行ったときのあの女性が脳裡にちらついた。あのときの行く先はホテルだったけれど。
キョウゴはじっと智奈を見て、否定はしないんだな、とおもしろがった。
「さっき、智奈はこの家をおれのテリトリーだと云っただろう。それは正しい。おれは自分のテリトリーには絶対に信用できる奴しか呼ばない」
「……わたしのこと、信用してる?」
「そうだな、智奈の場合は信用以前の問題かもしれない」
「どういうこと?」
智奈が問うと、キョウゴは即答せず、迷った素振りで目を泳がせた。そうして整理がついたのか、智奈に目を戻した。
「その答えはすべて聞いてから聞くほうがいい。卑怯になりかねないから。これ以上、智奈に対して後ろめたくなるのはごめんだ」
キョウゴは打ち切りだとばかりに肩をそびやかして、ポタージュスープに手をつけた。
智奈もそれに倣う。それぞれの贅沢な味を楽しみながら、中途半端に終わった会話のことを考える。
「キョウゴ、さっきの信用できる人しか呼ばないって、もしかして女の人をここに呼んだことないって遠回しに云った?」
つい智奈はそうであってほしいという願望を口にしてしまう。自分は特別だと思いたい。それは正直な気持ちだ。堂貫とキョウゴ、ふたりが独りだとわかったとたん、自分で自分を現金だとも思う。
「間違ってない」
よかった。言葉にするのは控えたけれど、智奈の顔が綻ぶのを見ると気持ちは丸わかりだ。キョウゴは薄く笑った。
「智奈、堂貫悦子って知ってるか?」
キョウゴは出し抜けに質問を向け、智奈は首をかしげた。
「……だれ? ……堂貫って……親戚? ……じゃなくてひょっとしてキョウゴのお母さん?」
いつもさえぎるキョウゴが、智奈が独りで答えを出すまで待っていた。
智奈の問いにキョウゴはうなずき、そして促すように首をひねる。
「わたしが堂貫オーナーの……キョウゴのお母さんを知ってるわけないよ。もしかしてわたし、会ったことあるの?」
キョウゴは曖昧に首をひねって見せた。そうして脇に置いていたスマホを取ると、何かしら操作をして智奈に向けた。
なんだろう。
「堂貫悦子、これがおれの母だ」
キョウゴは、不思議そうにした智奈の無言の問いに答えた。
智奈はスマホを覗きこむ。刹那、目を丸くした。見間違いかと思って瞬きをしてみたけれど、記憶にある顔と一致した。それほど印象的な美人だったのだ、彼女は。
「この女性、お父さんと一緒にいた人……?」
智奈が見たことなのだから、キョウゴに問いかけたところで答えられるわけがないのに、キョウゴはおもむろにうなずいた。
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