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37.“ふたり”のバイアス
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とっさにドアノブをつかんだのは逃亡本能が働いたせいだろうが、なぜそんな本能が働いたのかはまるでわからない。
キョウゴもまたとっさに動いて、助手席のほうに上体を倒すと同時に智奈の手首をつかんだ。
車内の空気が動いて、微香が智奈の嗅覚をかすめる。そうして、『ピクニック行かない?』などと、往路で堂貫をキョウゴと間違った理由がわかった。このほのかな香りの――キョウゴが纏うフェロモンのせいだ。
「なんで逃げる。それに、シートベルトしたままだ、引っかかって下手すると痣になる」
キョウゴの声から苦笑いが感じとれる。智奈はおそるおそるといった感じで振り向いた。
「……キョウゴ、どうしてここにいるの? どこかで入れ替わった?」
入れ替わったとしたら、どこで?
考えようとしても混乱していて記憶もたどれない。
「まず、慌てないで落ち着いてほしい。ちゃんと話すから。いい?」
キョウゴはなだめた口調で諭す。
智奈は息を呑み、キョウゴに見入り、やがてこくりとうなずいた。
オーケー、とキョウゴもうなずき返して、智奈は何を聞かされるのかと固唾を呑んで待った。
「おれがキョウゴとしてはじめて対面した日、智奈は声を知ってる気がすると云った。昼休みの屋上では堂貫京吾と立岡キョウゴが双子みたいだとか、あとは異父兄弟かとか云ってたな。そう感じるのは想定内で、けど否定したら智奈は受け入れた。“堂貫”が否定すれば、智奈は立場と堂貫の雰囲気が相まって、それ以上の追及ができない。受け入れるしか選択肢がないし、そこで別人だというバイアスがかかる。いろいろ、足掻いていたようだけど?」
最後はからかって、「とりあえず帰ろう。話の続きは家で」と続けた。キョウゴは正面に向き直ってシートベルトをすると、エンジンをかけて車を出した。
智奈はキョウゴを見つめたまま固まって、空回りする思考回路をどうにか正常にしようと試みる。
いま、横顔の綺麗なラインを邪魔する眼鏡がなく、やっぱり隣にいるのはキョウゴでしかない。
そう自分を納得させていると、走りだして間もなく車が止まった。キョウゴが智奈を振り向いて、すると目と目が合う。
「もっと簡単にすむと思っていたけど、智奈が単純という以上に純粋だってことをうっかりしてた。智奈にかかると、おれは後ろめたくなってばかりだ」
そう云ってキョウゴは腕を上げたかと思うと、智奈の頭の後ろに手をまわして、ぐいと引き寄せた。同時にキョウゴも顔を近づけて頭を傾ける。反射的に智奈が目を瞑ったのは習慣だろう。キョウゴは智奈のくちびるをすくうようにしてふさいだ。ぺたりとくっつき、キョウゴの舌先が智奈のくちびるの間を滑ったあと吸着しながら離れていった。
素早いキスはけれど誘惑的だ。キスなんてキョウゴとしか経験がなくて、だからなのか、目を瞑るとはっきりキョウゴだと思う。
智奈はゆっくりと目を開いた。視界いっぱいに映るのは紛れもなくキョウゴの麗らかな微笑だ。
「さきに弁解させてくれ。“堂貫”とおれが別人だと思わせたのは、智奈をからかうためじゃないし、騙し通そうとしていたわけでもない。おもしろがったことはまったくない。……と云ったら嘘になるけど」
智奈が怒ってもかまわない、そんな、すべて受けとめようといった気構えを見せつつ、キョウゴは正直に付け加えた。
「……入れ替わったんじゃなくて……別人でも双子でもなくて、キョウゴと堂貫オーナーは同一人物?」
「さっきからそう云ってる」
キョウゴは首をひねったあと前に向き直ると、車を発進させた。ほぼ同時にクラクションが聞こえて、智奈は赤信号で止まっていたのだと気づいた。クラクションは青になっているぞという催促だろうか。キスは前方の車からも後方の車からも丸見えだったかもしれなかった。
恥ずかしいと思ってしまうのはきっと自意識過剰だけれど、堂貫ならやらないことをキョウゴは平気でやる。いや――そういえば会社の屋上で、堂貫はキョウゴの面を見せていた。智奈が持った天ぷらに喰いついたとき、智奈の髪の匂いを嗅いだとき。あれはキョウゴがやりそうなことだ。
――ということは、やっぱり同一人物なのだ……。
ふたりがひとりだったら。
そんなふうに何度思ったことだろう。けれど、いざそうなると俄には納得しがたい。いろんな根拠があるにもかかわらず。
「眼鏡、かけなくても平気? 疲れるって……」
考えることがありすぎて頭の中がごちゃごちゃしている。その煩雑さを回避するかのように、智奈の思考は単純な質問に走った。
「夜の生活が長いと、昼は眩しすぎる。疲れるのは事実だ」
その云い方からするとつまり、重篤な問題ではないのだ。ちらりと助手席に目をやったキョウゴに、智奈は口を尖らせてみせた。
「病気なんだって心配して、病気かもって思いつかない自分にがっかりして落ちこんだのに」
「はっ。眼鏡は昼と夜の仕事を使い分けるための道具だ。それに……」
キョウゴは思わせぶりに言葉を切って、またちらりと智奈を流し目で見た。
「何?」
「眼鏡をしていないと、おれの顔に見惚れる奴がいて仕事にならないときがある。さっきの智奈みたいに」
真剣に云っているのかふざけて云っているのか。智奈は自惚れがすぎるとも云い返せず、手に負えない。
智奈は堂貫との時間を思い返しながら、見るともなく行く先を見ていると、車は住宅街に入っていく。キョウゴは帰ると云ったけれど、食事にも誘ったからどこかに寄るのかもしれない。
それにしても、住宅街とひと括りにするにはそぐわない、明らかにセレブの町という通りだ。大きく、塀に囲まれた家が並ぶ。そうして、キョウゴはその一角に入りこんだ。門扉が開いていき、その間を通り抜けて車を敷地内に進めた。
「キョウゴ? ここ、レストラン?」
レストランというよりも贅沢な個人宅という雰囲気だけれど。
「おれの家だ。招待するって云っただろう? 食事は用意されてる」
智奈は目を瞠って、デザイン性の高いモダンな家を見やった。
キョウゴもまたとっさに動いて、助手席のほうに上体を倒すと同時に智奈の手首をつかんだ。
車内の空気が動いて、微香が智奈の嗅覚をかすめる。そうして、『ピクニック行かない?』などと、往路で堂貫をキョウゴと間違った理由がわかった。このほのかな香りの――キョウゴが纏うフェロモンのせいだ。
「なんで逃げる。それに、シートベルトしたままだ、引っかかって下手すると痣になる」
キョウゴの声から苦笑いが感じとれる。智奈はおそるおそるといった感じで振り向いた。
「……キョウゴ、どうしてここにいるの? どこかで入れ替わった?」
入れ替わったとしたら、どこで?
考えようとしても混乱していて記憶もたどれない。
「まず、慌てないで落ち着いてほしい。ちゃんと話すから。いい?」
キョウゴはなだめた口調で諭す。
智奈は息を呑み、キョウゴに見入り、やがてこくりとうなずいた。
オーケー、とキョウゴもうなずき返して、智奈は何を聞かされるのかと固唾を呑んで待った。
「おれがキョウゴとしてはじめて対面した日、智奈は声を知ってる気がすると云った。昼休みの屋上では堂貫京吾と立岡キョウゴが双子みたいだとか、あとは異父兄弟かとか云ってたな。そう感じるのは想定内で、けど否定したら智奈は受け入れた。“堂貫”が否定すれば、智奈は立場と堂貫の雰囲気が相まって、それ以上の追及ができない。受け入れるしか選択肢がないし、そこで別人だというバイアスがかかる。いろいろ、足掻いていたようだけど?」
最後はからかって、「とりあえず帰ろう。話の続きは家で」と続けた。キョウゴは正面に向き直ってシートベルトをすると、エンジンをかけて車を出した。
智奈はキョウゴを見つめたまま固まって、空回りする思考回路をどうにか正常にしようと試みる。
いま、横顔の綺麗なラインを邪魔する眼鏡がなく、やっぱり隣にいるのはキョウゴでしかない。
そう自分を納得させていると、走りだして間もなく車が止まった。キョウゴが智奈を振り向いて、すると目と目が合う。
「もっと簡単にすむと思っていたけど、智奈が単純という以上に純粋だってことをうっかりしてた。智奈にかかると、おれは後ろめたくなってばかりだ」
そう云ってキョウゴは腕を上げたかと思うと、智奈の頭の後ろに手をまわして、ぐいと引き寄せた。同時にキョウゴも顔を近づけて頭を傾ける。反射的に智奈が目を瞑ったのは習慣だろう。キョウゴは智奈のくちびるをすくうようにしてふさいだ。ぺたりとくっつき、キョウゴの舌先が智奈のくちびるの間を滑ったあと吸着しながら離れていった。
素早いキスはけれど誘惑的だ。キスなんてキョウゴとしか経験がなくて、だからなのか、目を瞑るとはっきりキョウゴだと思う。
智奈はゆっくりと目を開いた。視界いっぱいに映るのは紛れもなくキョウゴの麗らかな微笑だ。
「さきに弁解させてくれ。“堂貫”とおれが別人だと思わせたのは、智奈をからかうためじゃないし、騙し通そうとしていたわけでもない。おもしろがったことはまったくない。……と云ったら嘘になるけど」
智奈が怒ってもかまわない、そんな、すべて受けとめようといった気構えを見せつつ、キョウゴは正直に付け加えた。
「……入れ替わったんじゃなくて……別人でも双子でもなくて、キョウゴと堂貫オーナーは同一人物?」
「さっきからそう云ってる」
キョウゴは首をひねったあと前に向き直ると、車を発進させた。ほぼ同時にクラクションが聞こえて、智奈は赤信号で止まっていたのだと気づいた。クラクションは青になっているぞという催促だろうか。キスは前方の車からも後方の車からも丸見えだったかもしれなかった。
恥ずかしいと思ってしまうのはきっと自意識過剰だけれど、堂貫ならやらないことをキョウゴは平気でやる。いや――そういえば会社の屋上で、堂貫はキョウゴの面を見せていた。智奈が持った天ぷらに喰いついたとき、智奈の髪の匂いを嗅いだとき。あれはキョウゴがやりそうなことだ。
――ということは、やっぱり同一人物なのだ……。
ふたりがひとりだったら。
そんなふうに何度思ったことだろう。けれど、いざそうなると俄には納得しがたい。いろんな根拠があるにもかかわらず。
「眼鏡、かけなくても平気? 疲れるって……」
考えることがありすぎて頭の中がごちゃごちゃしている。その煩雑さを回避するかのように、智奈の思考は単純な質問に走った。
「夜の生活が長いと、昼は眩しすぎる。疲れるのは事実だ」
その云い方からするとつまり、重篤な問題ではないのだ。ちらりと助手席に目をやったキョウゴに、智奈は口を尖らせてみせた。
「病気なんだって心配して、病気かもって思いつかない自分にがっかりして落ちこんだのに」
「はっ。眼鏡は昼と夜の仕事を使い分けるための道具だ。それに……」
キョウゴは思わせぶりに言葉を切って、またちらりと智奈を流し目で見た。
「何?」
「眼鏡をしていないと、おれの顔に見惚れる奴がいて仕事にならないときがある。さっきの智奈みたいに」
真剣に云っているのかふざけて云っているのか。智奈は自惚れがすぎるとも云い返せず、手に負えない。
智奈は堂貫との時間を思い返しながら、見るともなく行く先を見ていると、車は住宅街に入っていく。キョウゴは帰ると云ったけれど、食事にも誘ったからどこかに寄るのかもしれない。
それにしても、住宅街とひと括りにするにはそぐわない、明らかにセレブの町という通りだ。大きく、塀に囲まれた家が並ぶ。そうして、キョウゴはその一角に入りこんだ。門扉が開いていき、その間を通り抜けて車を敷地内に進めた。
「キョウゴ? ここ、レストラン?」
レストランというよりも贅沢な個人宅という雰囲気だけれど。
「おれの家だ。招待するって云っただろう? 食事は用意されてる」
智奈は目を瞠って、デザイン性の高いモダンな家を見やった。
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