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36.グリーングラス
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身なりはきちんとしていようが、典子の振る舞いは下品で目に余る。
「堂貫オーナー、すみません」
智奈が謝ると、堂貫は云い終わるか否かのうちに手を上げて制した。
「おれが勝手に首を突っこんだ。それに、想定内だ」
智奈にそう云って、堂貫は典子に向かった。
「三枝さん、僕が智奈さんの上司だというのは弁護士の真野さんからすでに伝達されて、ご存知と思います。ご主人のことで彼女が苦労している様子だったので、少しでも力になれればと口を出しました。ボディガードの件も僕の案です。ですから、少しも不自然ではありませんし、報酬も一切受けとりません。その程度の――僕であれば比較的たやすくできることを仲介したまでです」
堂貫はゆっくりと、そしてなだめるような気配で穏やかに典子に応えた。
典子は恐縮した様子もなく、口を開きかけ、それよりも早く智奈は口を挟んだ。
「お母さん、まずお礼が云えないの?」
「いま云おうとしたわ」
典子から即座に言葉が返ってきたところをみると、本当にそうしかけていたのか、それだったら少しは救われる。
真野弁護士が居心地悪そうにしているなか、典子は堂貫に向き直った。
「これでも娘のことを心配してるの。ごめんなさいね。早く片付けたかったし、助かったわ。ありがとう」
どういう心境の変化か、自分が年上というだけの上から目線ではあったものの、典子は母親らしく、いつになくしおらしい。
「三枝さん親子にとって、無用な心配がなくなれば何よりです。智奈さんには、仕事でも自分のことでも、心置きなく専念できるといいと思っていますから」
では、と続けて、堂貫は真野を見やった。
ええ、と堂貫に応じてうなずいた真野は、あちらで、と、隅の応接ソファに案内した。
「では、清算について説明致します」
「簡潔にお願いね」
真野の言葉に重ねるように典子は云い、智奈はやっぱり母には心境の変化などないと考えを改めた。
真野の説明によると、事務所内の片付け、引き継ぎや処分は、税理士会からの立ち会いのもと元事務所所員とともにすませたという。書類をいろいろと見せられたけれど、智奈が理解できたのは、事件に関する罰金とか元所員への退職金とか、諸々経費の計上と残高くらいだった。
正直、残余財産があったことにはほっとした。弁護士費用も、遺産分割の問題もある。もしそれがなければ、典子のことだから家を売りに出すよう迫ってくるかもしれなかった。日曜日、家に戻るとすら云っていたくらいだ。家も分け前のうちと思っているはずで、法律上も典子の云い分は間違っていない。
けれど、気持ちが法律とマッチするとは限らない。もしも智奈が、いつかどこか違うところに住むことになったとしても、父と暮らした場所だ、いつでも帰れる実家としてできるかぎり残しておきたかった。
「智奈、あなたには家がある。わたしには事務所の……」
典子はさっそく主張をしてきて、智奈はすぐさま、わかってる、とさえぎった。
「ここのは全部、お母さんが持っていって。そして、独りで生活していって。わたしも独りで生活していかなきゃならない。あとのことはもう知らないから」
「智奈、わたしを一方的に悪者にしないでちょうだい。わたしはね、学生の頃も勉強を後回しにして働いてた。一生分働いたっていうくらいね。あなたは悠々自適で恵まれてるの」
「だからって、苦労していたときのことならまだしも、ちょっとした贅沢ができているときに借金までしてもっと贅沢するなんて、意味がわからない。理解してって云われても無理」
「どん底の生活を知らないのに……」
「知りたくなんかない」
再び典子をさえぎったとき、智奈の肩に手がのり、ぎゅっとつかまれた。隣に座っている堂貫の手で、振り向くと堂貫は智奈に軽くうなずいてみせた。
自分でも不毛な言い争いをしていると思う。ごめんなさい、とつぶやいて、智奈はため息を押し殺した。
「三枝さん、智奈さんの意向はお聞きのとおりです。あとは真野さんに任せましょう。悪いようにはなりませんよ。贅沢をせず、地道に働けば独りで充分やっていけます」
堂貫はうんざりしているとしてもうまく隠している。
典子はどう受けとめたのか、何やら気にかかったような、あるいは思いついたような顔つきになって、堂貫を見ている。
「堂貫さん、その色眼鏡は外さないのかしら? 目が弱いの?」
「ええ、目が疲れやすいので手放せませんね。念のため、隠すべき犯罪歴もありませんし、ファッションでもありません」
典子は何を思ったのか、突飛な質問のおかげで智奈はいまさら堂貫の答えに納得した。加えて、病気かもしれないことに考え至らず、自分の思いやりのなさにがっかりした。
一方で、質問をした張本人は不可解そうに首をかしげたけれど。
「そうなの」
という、あっけらかんとした言葉は納得したものだった。
典子はいきなりすっくと立ちあがって――
「それじゃあ、真野さん、行きましょう。今後の段取りを教えていただきたいわ」
と、勝手に仕切った。
とはいえ、智奈も母と別れて帰ることについては大賛成だ。一緒に事務所を出ると、真野は事務所の鍵をかけ、苦笑いをしながら智奈と堂貫と挨拶を交わすと、典子を引き連れていった。
「智奈、またね」
わざわざ振り向いて、不気味なほど典子はにっこりとした笑みを智奈に向けて立ち去った。
智奈は清々していいはずが、この感覚は呆然といったほうが適切だ。嵐どころか天変地異が起きてすっからかんになった気分だった。
「あの、堂貫オーナー、ありがとうございました。それに、うんざりさせてすみませんでした」
駐車場に行って車に乗ると、智奈は開口一番、お礼と謝罪を口にした。うつむいて、小さくため息をつく。
「うんざり? それは違うな。ますます智奈を守れるのはおれしかいないって思った」
……え?
その砕けた声も喋り方も、堂貫のものではなかった。
聞き間違いかと自分を疑いながら、智奈は顔を上げて運転席を振り向いた。
堂貫は躰をひねって智奈のほうを向くと、グリーングラスに手をかけた。それが顔から外されていく。
「人間の思いこみって、驚異だと思わないか」
智奈の吃驚した顔を見てにやりとしたのは、紛れもなくキョウゴだった。
「堂貫オーナー、すみません」
智奈が謝ると、堂貫は云い終わるか否かのうちに手を上げて制した。
「おれが勝手に首を突っこんだ。それに、想定内だ」
智奈にそう云って、堂貫は典子に向かった。
「三枝さん、僕が智奈さんの上司だというのは弁護士の真野さんからすでに伝達されて、ご存知と思います。ご主人のことで彼女が苦労している様子だったので、少しでも力になれればと口を出しました。ボディガードの件も僕の案です。ですから、少しも不自然ではありませんし、報酬も一切受けとりません。その程度の――僕であれば比較的たやすくできることを仲介したまでです」
堂貫はゆっくりと、そしてなだめるような気配で穏やかに典子に応えた。
典子は恐縮した様子もなく、口を開きかけ、それよりも早く智奈は口を挟んだ。
「お母さん、まずお礼が云えないの?」
「いま云おうとしたわ」
典子から即座に言葉が返ってきたところをみると、本当にそうしかけていたのか、それだったら少しは救われる。
真野弁護士が居心地悪そうにしているなか、典子は堂貫に向き直った。
「これでも娘のことを心配してるの。ごめんなさいね。早く片付けたかったし、助かったわ。ありがとう」
どういう心境の変化か、自分が年上というだけの上から目線ではあったものの、典子は母親らしく、いつになくしおらしい。
「三枝さん親子にとって、無用な心配がなくなれば何よりです。智奈さんには、仕事でも自分のことでも、心置きなく専念できるといいと思っていますから」
では、と続けて、堂貫は真野を見やった。
ええ、と堂貫に応じてうなずいた真野は、あちらで、と、隅の応接ソファに案内した。
「では、清算について説明致します」
「簡潔にお願いね」
真野の言葉に重ねるように典子は云い、智奈はやっぱり母には心境の変化などないと考えを改めた。
真野の説明によると、事務所内の片付け、引き継ぎや処分は、税理士会からの立ち会いのもと元事務所所員とともにすませたという。書類をいろいろと見せられたけれど、智奈が理解できたのは、事件に関する罰金とか元所員への退職金とか、諸々経費の計上と残高くらいだった。
正直、残余財産があったことにはほっとした。弁護士費用も、遺産分割の問題もある。もしそれがなければ、典子のことだから家を売りに出すよう迫ってくるかもしれなかった。日曜日、家に戻るとすら云っていたくらいだ。家も分け前のうちと思っているはずで、法律上も典子の云い分は間違っていない。
けれど、気持ちが法律とマッチするとは限らない。もしも智奈が、いつかどこか違うところに住むことになったとしても、父と暮らした場所だ、いつでも帰れる実家としてできるかぎり残しておきたかった。
「智奈、あなたには家がある。わたしには事務所の……」
典子はさっそく主張をしてきて、智奈はすぐさま、わかってる、とさえぎった。
「ここのは全部、お母さんが持っていって。そして、独りで生活していって。わたしも独りで生活していかなきゃならない。あとのことはもう知らないから」
「智奈、わたしを一方的に悪者にしないでちょうだい。わたしはね、学生の頃も勉強を後回しにして働いてた。一生分働いたっていうくらいね。あなたは悠々自適で恵まれてるの」
「だからって、苦労していたときのことならまだしも、ちょっとした贅沢ができているときに借金までしてもっと贅沢するなんて、意味がわからない。理解してって云われても無理」
「どん底の生活を知らないのに……」
「知りたくなんかない」
再び典子をさえぎったとき、智奈の肩に手がのり、ぎゅっとつかまれた。隣に座っている堂貫の手で、振り向くと堂貫は智奈に軽くうなずいてみせた。
自分でも不毛な言い争いをしていると思う。ごめんなさい、とつぶやいて、智奈はため息を押し殺した。
「三枝さん、智奈さんの意向はお聞きのとおりです。あとは真野さんに任せましょう。悪いようにはなりませんよ。贅沢をせず、地道に働けば独りで充分やっていけます」
堂貫はうんざりしているとしてもうまく隠している。
典子はどう受けとめたのか、何やら気にかかったような、あるいは思いついたような顔つきになって、堂貫を見ている。
「堂貫さん、その色眼鏡は外さないのかしら? 目が弱いの?」
「ええ、目が疲れやすいので手放せませんね。念のため、隠すべき犯罪歴もありませんし、ファッションでもありません」
典子は何を思ったのか、突飛な質問のおかげで智奈はいまさら堂貫の答えに納得した。加えて、病気かもしれないことに考え至らず、自分の思いやりのなさにがっかりした。
一方で、質問をした張本人は不可解そうに首をかしげたけれど。
「そうなの」
という、あっけらかんとした言葉は納得したものだった。
典子はいきなりすっくと立ちあがって――
「それじゃあ、真野さん、行きましょう。今後の段取りを教えていただきたいわ」
と、勝手に仕切った。
とはいえ、智奈も母と別れて帰ることについては大賛成だ。一緒に事務所を出ると、真野は事務所の鍵をかけ、苦笑いをしながら智奈と堂貫と挨拶を交わすと、典子を引き連れていった。
「智奈、またね」
わざわざ振り向いて、不気味なほど典子はにっこりとした笑みを智奈に向けて立ち去った。
智奈は清々していいはずが、この感覚は呆然といったほうが適切だ。嵐どころか天変地異が起きてすっからかんになった気分だった。
「あの、堂貫オーナー、ありがとうございました。それに、うんざりさせてすみませんでした」
駐車場に行って車に乗ると、智奈は開口一番、お礼と謝罪を口にした。うつむいて、小さくため息をつく。
「うんざり? それは違うな。ますます智奈を守れるのはおれしかいないって思った」
……え?
その砕けた声も喋り方も、堂貫のものではなかった。
聞き間違いかと自分を疑いながら、智奈は顔を上げて運転席を振り向いた。
堂貫は躰をひねって智奈のほうを向くと、グリーングラスに手をかけた。それが顔から外されていく。
「人間の思いこみって、驚異だと思わないか」
智奈の吃驚した顔を見てにやりとしたのは、紛れもなくキョウゴだった。
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