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35.人違い
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堂貫が智奈に対してどんな私情を持つのか、それを訊ねる間もなく、堂貫は個人的な話はここまでといわんばかりに、グループ筆頭のGUエージェントを案内すると云って、智奈を社長室から連れだした。
食事に誘われたことをあらためて考えてみた。断る隙もなかったのは、それが誘いではなく一方的な命令だったからだ。
断ろうなど一瞬たりとも思わなかったけれど、ひょっとしたら、智奈のほうから夕食に誘ったとき断った“お詫び”で、堂貫は夕食に連れていこうと思ったのかもしれない。智奈はつい自分の都合のいいように解釈した。命令であっても少しも嫌じゃない。もとより、何も考えなければ、ただうれしい。
けれど現状は、今日、父のことが片付けば堂貫が智奈をかまう理由はなくなる。つまり、堂貫と食事をするのは最初で最後だ。
時間を見計らってGUビルを出ると、堂貫自らが運転して三枝税理士事務所に向かった。
キョウゴと同じく堂貫は手慣れた様子で車を操る。流れに乗ったところで智奈は断りを云っておくべきだったと思いだした。
「あの、母のこと、キョウゴさんはいいって云ってくれましたけど、予定外で来ることになってすみません」
「謝ることじゃない。お母さんからすると当然のことと思うだろう」
「でも、面倒な人なので……親子げんかは避けられない気がします」
堂貫は運転しながらちらりと智奈を見やった。
「せっかくお父さんが残した財産を無駄に食い潰すよりも、この際、すっきりさせたほうがいい。親の不始末を子供が背負うことはない」
その言葉に、堂貫も片親で育っていることを思いだした。云い分からすると、キョウゴと同じように、堂貫もまた親への不満を抱いているのだと考えるのは安易すぎるだろうか。
「はい。少し気分がラクになりました」
「おれに気を遣う必要はない。仕事中だけ、社員の手前、気を遣ってくれたら助かる」
堂貫は冗談めかして云ったけれど、智奈からすると勘違いしそうになる言葉だった。まるで、今日限りではなく、これからもプライベートで付き合いが続くとほのめかしている。吹っきろうとしているのに、堂貫自身がその智奈の覚悟を挫こうとする。その実、智奈の心が希望を掻き集めようと働きかけているにすぎない。
それに、勘違いでなければならない。何も考えなければ、今日が終わりでないというならやっぱりうれしいけれど、同時にキョウゴのことを考えてしまう。後ろめたさと、キョウゴを失いたくないというわがままな気持ちがさざめく。
「母よりも常識はあると思ってます」
エンジン音もほとんどない静かな車内に、短い吐息が聞こえた。
車の中はふたりきりの密室だ。それなのに緊張しないのはなぜだろう。沈黙も気にならなくて、智奈は窓の外に目を向けた。
四月に入ったばかりで、今日は特に天気がいいから車内はぽかぽかしている。外も春らしい陽気で、桜並木の道沿いを通れば自然と気持ちも和んでくる。車内の薫りと相まって桜の香りが感じられる。窓を閉めているから桜の香りというのは気のせいだろうけれど。
「キョウゴ、明日かあさって、ピクニック行かない?」
智奈はふと思いついて、車が赤信号に止まるのに合わせて云いながら運転席を振り向いたとたん、グリーングラス越しに目が合った。
智奈は自分で自分の云ったことに驚いて目を見開いた。
「ごめんなさい。……間違えました」
堂貫はどう思っただろう。取り消しはきかなくて、智奈は焦りつつ、謝った。
「いいんじゃないか」
堂貫は首をわずかにひねりながらひと言で応じた。どんなふうに受けとめればいいのだろう。言葉どおりに勧めているのか、人違いに呆れているのか怒っているのか。
「……はい。キョウゴさんには甘えすぎてます。一緒にいてくれて、ほんとに助けられてるんです。独立して生活するのもおかしくない年なのに、毎食独りごはんがさみしいって自分でも子供っぽいと思います。……あ、夜ごはん食べてくるってキョウゴさんに連絡しないと……」
「いや、いい。知ってるから」
堂貫のことだ、そのへんの抜かりもなくて当然だ。そして、まもなく着く、という堂貫の声音はいつもと同じで、智奈はほっとしながらうなずいて前を向いた。
父の事務所に着くと、母の典子がすでに到着していて、その意気込みが窺える。姿を見るなり、智奈はため息がこぼれるのを抑えられなかった。
「いざとなったらおれが助ける」
耳もとでいきなり囁き声がして、智奈はハッとしながら振り向く。すぐ背後に立った堂貫が身をかがめていて、ふたりのくちびるがぶつかりそうになった。
智奈は慌てて一歩退いて、ごめんなさい、と意味もなく謝った。堂貫は上体を起こすと、話が噛み合っていないことに呆れたのか、首を一度、横に振る。
「そちらが堂貫さんて仰るの?」
露骨に不審そうにした典子の声が割りこんだ。典子がいつからこんなふうに無神経になったのか、失礼極まりない。
典子の言葉を受けて、弁護士が率先して間に入って紹介をした。堂貫は典子に名刺まで渡す。へぇ、と名刺をまじまじと見てやはり失礼な相づちを打ち、典子は顔を上げると今度はじろじろと堂貫を見ている。それから、智奈に目が転じられると、躰が反射的にこわばった。
「智奈、あのボディガードといい、この方といい、いったいどこで知り合ったの? 不自然よね」
典子は娘の気持ちを推し量ることもせず、ただ邪推した言葉を吐いた。
食事に誘われたことをあらためて考えてみた。断る隙もなかったのは、それが誘いではなく一方的な命令だったからだ。
断ろうなど一瞬たりとも思わなかったけれど、ひょっとしたら、智奈のほうから夕食に誘ったとき断った“お詫び”で、堂貫は夕食に連れていこうと思ったのかもしれない。智奈はつい自分の都合のいいように解釈した。命令であっても少しも嫌じゃない。もとより、何も考えなければ、ただうれしい。
けれど現状は、今日、父のことが片付けば堂貫が智奈をかまう理由はなくなる。つまり、堂貫と食事をするのは最初で最後だ。
時間を見計らってGUビルを出ると、堂貫自らが運転して三枝税理士事務所に向かった。
キョウゴと同じく堂貫は手慣れた様子で車を操る。流れに乗ったところで智奈は断りを云っておくべきだったと思いだした。
「あの、母のこと、キョウゴさんはいいって云ってくれましたけど、予定外で来ることになってすみません」
「謝ることじゃない。お母さんからすると当然のことと思うだろう」
「でも、面倒な人なので……親子げんかは避けられない気がします」
堂貫は運転しながらちらりと智奈を見やった。
「せっかくお父さんが残した財産を無駄に食い潰すよりも、この際、すっきりさせたほうがいい。親の不始末を子供が背負うことはない」
その言葉に、堂貫も片親で育っていることを思いだした。云い分からすると、キョウゴと同じように、堂貫もまた親への不満を抱いているのだと考えるのは安易すぎるだろうか。
「はい。少し気分がラクになりました」
「おれに気を遣う必要はない。仕事中だけ、社員の手前、気を遣ってくれたら助かる」
堂貫は冗談めかして云ったけれど、智奈からすると勘違いしそうになる言葉だった。まるで、今日限りではなく、これからもプライベートで付き合いが続くとほのめかしている。吹っきろうとしているのに、堂貫自身がその智奈の覚悟を挫こうとする。その実、智奈の心が希望を掻き集めようと働きかけているにすぎない。
それに、勘違いでなければならない。何も考えなければ、今日が終わりでないというならやっぱりうれしいけれど、同時にキョウゴのことを考えてしまう。後ろめたさと、キョウゴを失いたくないというわがままな気持ちがさざめく。
「母よりも常識はあると思ってます」
エンジン音もほとんどない静かな車内に、短い吐息が聞こえた。
車の中はふたりきりの密室だ。それなのに緊張しないのはなぜだろう。沈黙も気にならなくて、智奈は窓の外に目を向けた。
四月に入ったばかりで、今日は特に天気がいいから車内はぽかぽかしている。外も春らしい陽気で、桜並木の道沿いを通れば自然と気持ちも和んでくる。車内の薫りと相まって桜の香りが感じられる。窓を閉めているから桜の香りというのは気のせいだろうけれど。
「キョウゴ、明日かあさって、ピクニック行かない?」
智奈はふと思いついて、車が赤信号に止まるのに合わせて云いながら運転席を振り向いたとたん、グリーングラス越しに目が合った。
智奈は自分で自分の云ったことに驚いて目を見開いた。
「ごめんなさい。……間違えました」
堂貫はどう思っただろう。取り消しはきかなくて、智奈は焦りつつ、謝った。
「いいんじゃないか」
堂貫は首をわずかにひねりながらひと言で応じた。どんなふうに受けとめればいいのだろう。言葉どおりに勧めているのか、人違いに呆れているのか怒っているのか。
「……はい。キョウゴさんには甘えすぎてます。一緒にいてくれて、ほんとに助けられてるんです。独立して生活するのもおかしくない年なのに、毎食独りごはんがさみしいって自分でも子供っぽいと思います。……あ、夜ごはん食べてくるってキョウゴさんに連絡しないと……」
「いや、いい。知ってるから」
堂貫のことだ、そのへんの抜かりもなくて当然だ。そして、まもなく着く、という堂貫の声音はいつもと同じで、智奈はほっとしながらうなずいて前を向いた。
父の事務所に着くと、母の典子がすでに到着していて、その意気込みが窺える。姿を見るなり、智奈はため息がこぼれるのを抑えられなかった。
「いざとなったらおれが助ける」
耳もとでいきなり囁き声がして、智奈はハッとしながら振り向く。すぐ背後に立った堂貫が身をかがめていて、ふたりのくちびるがぶつかりそうになった。
智奈は慌てて一歩退いて、ごめんなさい、と意味もなく謝った。堂貫は上体を起こすと、話が噛み合っていないことに呆れたのか、首を一度、横に振る。
「そちらが堂貫さんて仰るの?」
露骨に不審そうにした典子の声が割りこんだ。典子がいつからこんなふうに無神経になったのか、失礼極まりない。
典子の言葉を受けて、弁護士が率先して間に入って紹介をした。堂貫は典子に名刺まで渡す。へぇ、と名刺をまじまじと見てやはり失礼な相づちを打ち、典子は顔を上げると今度はじろじろと堂貫を見ている。それから、智奈に目が転じられると、躰が反射的にこわばった。
「智奈、あのボディガードといい、この方といい、いったいどこで知り合ったの? 不自然よね」
典子は娘の気持ちを推し量ることもせず、ただ邪推した言葉を吐いた。
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