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34.かまいたがり屋(1)
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金曜日、三枝税理士事務所の閉所の日、智奈は午後からの立ち会いのために会社は休暇を取った。
キョウゴは、がんばれよ、と云って、いつもと変わらずラフな恰好で朝から出かけている。何をがんばるのか、おそらく母のことを云っているのだろう。
キョウゴを見送ったあと、智奈は一日前倒しをして、習慣である家の掃除に取りかかった。堂貫から電話があったのはその最中だった。
堂貫とは父の事務所で合流する約束だが、その時間は午後三時半だ。何か不都合でもあったのか、疑問が浮かびながらも半分は声が聞けると思って、うれしくてドキドキした。
このところ堂貫が会社に来ることもなくなって、連絡は専ら電話やメールですんでいる。声を聞くことも稀なのだ。
それもそのはず、いくつものグループ会社を持つ堂貫は、一会社に自らがいつまでも密に関わるほど暇ではない。智奈が堂貫に直接連絡を取ること自体がめずらしいことだろう。上層部に報告するにしても、普通なら、せいぜい秘書とか補佐経由だ。リソースAの社内のことですら、智奈がまず報告するのは川上課長なのだから。
「はい、三枝です」
通話モードにするなり智奈は応じると、それは自分でも早口に感じた。まず聞こえたのは短い吐息だ。
笑った?
そう思ったけれど、何も笑わせるようなことはしていないし、堂貫のキャラクターとはちょっと相容れない。
呆れたのだ、きっと。
そう思い直したとおり――
『こっちから電話したんだ、名乗らなくてもわかっている』
と、そんな言葉が返ってきた。
勇んでいたのは自分でも認める。
その理由が知られていないように――いや、知ってもらったほうがいいのかもしれない。でも、そうなったらキョウゴを裏切ることになってしまう。
智奈は分岐点に立ち尽くした気分で途方に暮れる。すると――
『複雑だ』
と、智奈の心の中を表す言葉がつぶやかれ、耳に届いた。
ひょっとして心の内を無意識に語っていたのだろうか。智奈は不安になる。
「……あの……」
ためらいがちに口を開いたものの、意味のない言葉で途切れた。もとより、応じる言葉が見つからない。そんな智奈の戸惑いを、いや、と堂貫がさえぎって続けた。
『今日、事務所に行くまえに、時間があるならこっちに来てみたらどうかと思って電話した』
「え……こっち、って?」
『GUエージェント、おれが始めた会社だ。興味があるなら見学してみないか』
「ほんとですか? 行きたいです、ぜひ」
思いがけない誘いに、若干、勢いこんで返事をするとまた短い吐息が届く。本当に息がかかるわけではないからなんともないはずなのに、智奈はくすぐったいような感覚がして首をすくめた。
『午後から時間を空けてる。十三時すぎだったら何時でもいい』
「はい、あとでお邪魔します」
『ああ、待っている』
電話はぷっつりと切れたけれど、堂貫の声が残響しているように感じて、しばらくばかみたいにスマホを耳に当てたまま智奈は微動だにしなかった。
不思議だ。
仕事のとき、堂貫は淡々と接するけれど、いざプライベートのことになると、接し方は変わらなくても云うことがやわらかくなる。使い分けが智奈よりもずっと上手だ。それとも、智奈が勝手にそう感じているだけなのか。
ただ、必要のない――利益にならない、父の事務所のこと、たったいまの会社案内のこと、それらを云いだしたのは堂貫で、親切という言葉では足りない。わかりやすく簡単なひと言で云えば、堂貫はやさしい。だれもかまってくれないときに現れたから、智奈はそう思うのかもしれない。
キョウゴが智奈をかまう理由はわかっているつもりだ。智奈の気持ちが欲しいと云うほどの、智奈に対する気持ちがキョウゴにはある。けれど、それはきっと同居をし始めてからの話で、同居を『いい考え』と云った初対面の日にはなかった気持ちだ。
自分で自分を卑下するのもどうかと思うけれど、堂貫とキョウゴふたりとも、智奈を親切という以上にかまうのはやっぱり不思議だった。
そして、不思議という以上に智奈はうれしい。
午後になって出かけるまで、掃除だったり昼食だったりとやることがあったからよかったものの、それでも智奈はそわそわとして落ち着かなかった。
着ていく服も最後まで悩んだけれど、オフィス街にあるGUビルを目の前にしたとき、無難にオフィス着としても浮かない服装で来てよかったと安堵した。
リソースAが入居している、無味乾燥な四角いビルと違い、地下二階、地上三十階建のGUビルは、丸く出っ張って凝ったつくりのエントランスのせいか、高級ホテルのようで外観は気品がある。要するに入りにくい雰囲気があった。
智奈は緊張しながらエントランスをくぐった。総合受付のカウンターにはめずらしく男性もいて、智奈は順番的にその男性に堂貫への連絡を頼んだ。すると、隣にいた受付の女性がぱっと顔を向けた。智奈でも気づくくらいのしぐさで、思わず目を向けるとまるで天然記念物に遭遇したような顔に合う。
もし、それくらい奇抜に見える、変なところがあったらどうしよう。例えば、掃除してきたまま頭に埃が積んでいるとか、チークを塗りすぎていま頃発色し、福笑いみたいになっているとか。
あとで思えば、そんなばかげた不安も緊張していたせいだろう。堂貫がわざわざ迎えに降りてきたとき。
「堂貫オーナー、わたし、どこかヘンじゃないですか」
お疲れさまです、という挨拶もそこそこに、智奈は出し抜けに訊ねていた。
キョウゴは、がんばれよ、と云って、いつもと変わらずラフな恰好で朝から出かけている。何をがんばるのか、おそらく母のことを云っているのだろう。
キョウゴを見送ったあと、智奈は一日前倒しをして、習慣である家の掃除に取りかかった。堂貫から電話があったのはその最中だった。
堂貫とは父の事務所で合流する約束だが、その時間は午後三時半だ。何か不都合でもあったのか、疑問が浮かびながらも半分は声が聞けると思って、うれしくてドキドキした。
このところ堂貫が会社に来ることもなくなって、連絡は専ら電話やメールですんでいる。声を聞くことも稀なのだ。
それもそのはず、いくつものグループ会社を持つ堂貫は、一会社に自らがいつまでも密に関わるほど暇ではない。智奈が堂貫に直接連絡を取ること自体がめずらしいことだろう。上層部に報告するにしても、普通なら、せいぜい秘書とか補佐経由だ。リソースAの社内のことですら、智奈がまず報告するのは川上課長なのだから。
「はい、三枝です」
通話モードにするなり智奈は応じると、それは自分でも早口に感じた。まず聞こえたのは短い吐息だ。
笑った?
そう思ったけれど、何も笑わせるようなことはしていないし、堂貫のキャラクターとはちょっと相容れない。
呆れたのだ、きっと。
そう思い直したとおり――
『こっちから電話したんだ、名乗らなくてもわかっている』
と、そんな言葉が返ってきた。
勇んでいたのは自分でも認める。
その理由が知られていないように――いや、知ってもらったほうがいいのかもしれない。でも、そうなったらキョウゴを裏切ることになってしまう。
智奈は分岐点に立ち尽くした気分で途方に暮れる。すると――
『複雑だ』
と、智奈の心の中を表す言葉がつぶやかれ、耳に届いた。
ひょっとして心の内を無意識に語っていたのだろうか。智奈は不安になる。
「……あの……」
ためらいがちに口を開いたものの、意味のない言葉で途切れた。もとより、応じる言葉が見つからない。そんな智奈の戸惑いを、いや、と堂貫がさえぎって続けた。
『今日、事務所に行くまえに、時間があるならこっちに来てみたらどうかと思って電話した』
「え……こっち、って?」
『GUエージェント、おれが始めた会社だ。興味があるなら見学してみないか』
「ほんとですか? 行きたいです、ぜひ」
思いがけない誘いに、若干、勢いこんで返事をするとまた短い吐息が届く。本当に息がかかるわけではないからなんともないはずなのに、智奈はくすぐったいような感覚がして首をすくめた。
『午後から時間を空けてる。十三時すぎだったら何時でもいい』
「はい、あとでお邪魔します」
『ああ、待っている』
電話はぷっつりと切れたけれど、堂貫の声が残響しているように感じて、しばらくばかみたいにスマホを耳に当てたまま智奈は微動だにしなかった。
不思議だ。
仕事のとき、堂貫は淡々と接するけれど、いざプライベートのことになると、接し方は変わらなくても云うことがやわらかくなる。使い分けが智奈よりもずっと上手だ。それとも、智奈が勝手にそう感じているだけなのか。
ただ、必要のない――利益にならない、父の事務所のこと、たったいまの会社案内のこと、それらを云いだしたのは堂貫で、親切という言葉では足りない。わかりやすく簡単なひと言で云えば、堂貫はやさしい。だれもかまってくれないときに現れたから、智奈はそう思うのかもしれない。
キョウゴが智奈をかまう理由はわかっているつもりだ。智奈の気持ちが欲しいと云うほどの、智奈に対する気持ちがキョウゴにはある。けれど、それはきっと同居をし始めてからの話で、同居を『いい考え』と云った初対面の日にはなかった気持ちだ。
自分で自分を卑下するのもどうかと思うけれど、堂貫とキョウゴふたりとも、智奈を親切という以上にかまうのはやっぱり不思議だった。
そして、不思議という以上に智奈はうれしい。
午後になって出かけるまで、掃除だったり昼食だったりとやることがあったからよかったものの、それでも智奈はそわそわとして落ち着かなかった。
着ていく服も最後まで悩んだけれど、オフィス街にあるGUビルを目の前にしたとき、無難にオフィス着としても浮かない服装で来てよかったと安堵した。
リソースAが入居している、無味乾燥な四角いビルと違い、地下二階、地上三十階建のGUビルは、丸く出っ張って凝ったつくりのエントランスのせいか、高級ホテルのようで外観は気品がある。要するに入りにくい雰囲気があった。
智奈は緊張しながらエントランスをくぐった。総合受付のカウンターにはめずらしく男性もいて、智奈は順番的にその男性に堂貫への連絡を頼んだ。すると、隣にいた受付の女性がぱっと顔を向けた。智奈でも気づくくらいのしぐさで、思わず目を向けるとまるで天然記念物に遭遇したような顔に合う。
もし、それくらい奇抜に見える、変なところがあったらどうしよう。例えば、掃除してきたまま頭に埃が積んでいるとか、チークを塗りすぎていま頃発色し、福笑いみたいになっているとか。
あとで思えば、そんなばかげた不安も緊張していたせいだろう。堂貫がわざわざ迎えに降りてきたとき。
「堂貫オーナー、わたし、どこかヘンじゃないですか」
お疲れさまです、という挨拶もそこそこに、智奈は出し抜けに訊ねていた。
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