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31.糖度ゼロor100%

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 玄関のドアが閉まると同時に、こもった音がしてオートロックがかかった。その瞬間に智奈が深々とため息をつくと、キョウゴは薄く笑い、握り拳をくるんでいた手を離した。
「とりあえず、暴力沙汰にはならなかったな」
「……もしかして、わたしがお母さんを殴るとか思ってた?」
 智奈が拳をほどきながら冗談めかして云うと、キョウゴは肩をすくめてわずかに首をひねった。
「智奈が母親を避けたがる理由がわかったってところだな」
「キョウゴもお母さんを追いだした。明日は仕事だからって、まるでサラリーマンみたいなセリフ」
「追いだしたくなかったのか。まだ云いたいことが足りなかったとか?」
「云いたいことはいっぱいあるけど、追いだすほうが断然、優先事項。でも、キョウゴに訊きたかったことを思いだした。キョウゴって朝から出かけるし、わたしより早く出る日もある。昼間も仕事あるの? 自分の家に帰ってる?」
 キョウゴは声こそ立てなかったけれど、くちびるにきれいな弧を描いて可笑しそうにした。
「そんなところだ。近いうちに、おれの家に招待してやる」
 近いうちに、と曖昧な云い方ながらも確約のような雰囲気を感じた。恩着せがましいけれど、キョウゴのテリトリーに招かれるのは、キョウゴが智奈に気を許している証しだという気がして、ふわふわするようなうれしさを感じる。
「すごいゴージャス?」
「設備が整っているという意味ではゴージャスだ。けど、雰囲気はシンプルだ」
「楽しみ! マンション?」
「いや、マンションはおれの感覚からすると、空間的にプライベートという意味でズレてる」
 例えば、と、キョウゴは玄関のほうを指差して続けた。
「そこを一歩出れば、そこはプライベートじゃなくなるだろう。マンションは箱の中に閉じこめられてる感覚だな。自由が感じられない」
 智奈は思わずぷっと吹きだした。なんだ、と不思議そうな顔をしてキョウゴは首をひねる。
「やっぱりキョウゴはシャチっぽくない? 生きたシャチは水族館でしか見られないから考えないようにしてるけど、水槽の中に閉じこめられてるのはやっぱりかわいそうだと思うの。キョウゴは人間に捕らわれたりしないと思うけど」
「人魚姫みたいにシャチから人間になったとでも思ってるのか。おれははじめから人間だ」
 キョウゴはおもしろがって、智奈の冗談に乗って認識を正してみせた。
 人魚姫が引き合いに出されるとは思いもせず、キョウゴが海に戻る日が来たら、と、ばかばかしいけれど智奈は少し不安になってしまった。
「わたしは海には長く潜れないから、キョウゴは人間のほうがいいかも」
「はっ。もしかして泳げないのか」
「得意じゃない」
「じゃあ次のデートのときはおれに付き合ってくれ。プールに連れていく」
「次のデートって……まだ三月だけど、あと……」
「プールは年中無休だ。スポーツクラブのプールは味気ないけど、ホテルならデートに使える、洒落たプールもある」
 智奈の疑問に先回りしたキョウゴの答えは、優雅な日常を送っていることを証明する。智奈が普段からプールに縁遠いことはともかく、夏場のレジャープールを思い浮かべてしまっていた。
「あ、そっか。それも楽しみにしてる」
 と、智奈が純粋に感心したふうに云うと、キョウゴはあからさまにうれしそうにする。きれいな顔が綻びると、邪気のない少年のように見えるのだと、それにもまた見惚れる。
「智奈の素直さを見てると、もっと喜ばせたくなる。あのお母さんはいただけないけど、智奈に会えたのは、云ったとおり、お母さんのおかげだな」
 キョウゴは惜しげもなく智奈を甘やかす。その理由が智奈には皆目わからない。智奈よりもきれいで、もっと素直で――とそんな人はほかにもたくさんいるはず。特にキョウゴなら選択権まで持っている。それなのに、なぜ智奈なのだろう。
「キョウゴは病気かも」
「病気?」
「そう、目の病気? このまえの女の人みたいなほうがキョウゴに似合うのに……もしかして、わたしで遊んでる?」
「ああいう女が似合うって、智奈は遠回しにおれを侮辱してるって気づかない?」
 思ってもいなかった質問が向けられ、智奈はびっくり眼でキョウゴを見つめた。
「侮辱なんてしてない。意味がわから……」
「金と名声があれば、あらゆることがまかり通ると思っている。おれはそういう連中を利用する。けど、何に価値を置くか、価値観はまったく違う」
 キョウゴはめずらしく糖度ゼロのぴしゃりとした口調だ。よほど、その違いにこだわりがあるのか。
「……わたしに、価値ある?」
「ある。同化したいくらい、おれのものにしたい」
 智奈はさらに目を丸くした。
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