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30.ボディガード志願(2)
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いくら子供がいるからといって、行雄が最後までなぜ典子との離婚を断行しなかったのか、それは聞けていない。責任感からそうしなかったのかもしれないし、典子が騒いで面倒事になるのを避けたかったからかもしれない。
「こそこそできるわけないよ。だから、弁護士からちゃんと連絡が行ってるんでしょ。名目上、お母さんは妻なんだから。それに、報告してたからって、お母さんに何ができるの? どうせ、早くしてって急かすくらいじゃない」
「ひどい云い方ね、お母さんに向かって」
言葉を詰まらせるわけでもなく、典子は傷ついた振りもできていない。自分の非に気づくことができないのだから、もちろん非を理解することもできないで、智奈を理不尽に責めるのが常だ。いいかげん智奈は慣れたけれど、納得はしていない。
「ひどい娘だと思ってればいいよ。迷惑をかけて許してくれるのはお父さんだけってことをわかってる? そのお父さんはもういないんだよ」
大げさでもなんでもなく行雄がいないことは事実だ。智奈の言葉をどう受けとめたのか、典子はなぜか黙りこんだ。
沈黙のなか、キッチンで食器のぶつかる音がしている。ヘーゼルナッツの香りが漂ってきてまもなく、キョウゴがカップをのせたトレイを持ってきた。フレーバーコーヒーはインスタントだけれど、律儀に典子の希望に沿ったキョウゴを、智奈は恨めしく見つめた。
キョウゴはちらりと智奈を見ると、痛くも痒くもないといった気配でくちびるに緩く弧を描いた。手もとに目を戻したキョウゴは、砂糖とミルクを添えたソーサーにカップを載せ、典子の前に置く。そうして、智奈の隣に座ると自分たちの前にもカップを据えた。
典子はさっそくコーヒーに砂糖とミルクを入れたが、どことなく気がそぞろで、習慣的にこなしているように見える。嫌な予感――いや、やっぱり経験をもとにした予測がついて、智奈は前以て身構えた。そうしたところで役に立たないが――
「そう、お父さんはいないのよ、智奈の云うとおり。だからね、これからはふたりで協力していくしかないでしょ。そろそろ、わたしはここに戻るべきなんだわ」
典子の云い分は予測値を遥かに上回った。智奈は唖然とする。
典子のことをおかしな人だと云った智奈自身、その言葉が身に沁みた。智奈の感覚がおかしいのか、と自分のことを疑ってしまった。それくらいの衝撃だったのだ、しばらく口がきけなかった。
「お母さん、悪いけど……ううん、悪いのはお母さんでしょ。協力していくって、そんな言葉をわたしが信じると思う? お父さんからお金を巻きあげるばっかりで自分の後始末もしなかったくせに? 戻らなくていい。第一、この家はもういっぱいなの。お母さんの居場所なんて空いてないから」
典子は不可解だとばかりに眉間にしわを寄せ、智奈をじっと捕らえて答えを見いだそうとしている。すると、ふっとその視線をキョウゴに転じ、すぐさま智奈に戻した。
「まさか、智奈、この人と一緒に住んでるの?」
どんなにおかしな思考回路をしていても、まともに働くこともあるらしい。智奈は内心で皮肉っぽく思いながら、つんと軽く顎を上げた。
「だから何?」
「ここはわたしの家でもあるのよ。勝手に……」
「お母さんの家なんかじゃない。出ていったんだから。この家のために一円だって出してないじゃない。反対に、マイナスにしかしてない」
「冗談じゃないわ。わたしにだって相続の権利はあるのよ。事務所の整理だって、清算金をこの男に貢ぐためじゃないの? 智奈、あなたは騙されてるのよ。この見た目、どうしたってあなたと不釣り合いで……」
典子の不躾極まりない言葉は最後まで続かなかった。キョウゴが薄く笑ってさえぎったのだ。
見ると、キョウゴは皮肉っぽく笑っている。それは、精いっぱい善意に解釈しての見方であって、ひょっとしたら虚仮にした笑い方に見えなくもない。何しろ、こんな笑い方を智奈に見せたことはなく、その雰囲気は、シャチではなく、餌かどうかを見極めるべく囲うようにぐるぐると泳ぐ、凶暴なサメだ。
それでも、本人を目の前にして失礼なことを平気で云ってしまう典子のことだ、果たしてキョウゴが放っている気配を察知できるのか。
「挨拶が遅れました。立岡キョウゴです。今月になって智奈さんの家にお世話になっています。お母さんの許可がいるとはつゆ知らず、失礼しました」
表向き穏やかな言葉に、典子はハッと何やら思い立った様子だ。
「そういえば……さっき、ボディガードって云ってたわよね。なんのために必要なの?」
典子は、智奈とキョウゴをかわるがわる見やりながら訊ねた。
それに答えるのは、云いだしたキョウゴに任せた。もともと、同居を強行したときからキョウゴは守るとよく口にしている。単なる美辞麗句ではなくて、最初に会ったとき云っていたような意味が本当にあるのかもしれない。
「もちろん、必要なんですよ。お母さんが撒いた種だと理解していますが。責めているつもりはありません。むしろ、感謝したいくらいだ。おかげで智奈と出会えたんですから」
典子に負けず、キョウゴも率直だ。しかも、恥ずかしげもなく智奈との本当の関係をほのめかした。
「こそこそできるわけないよ。だから、弁護士からちゃんと連絡が行ってるんでしょ。名目上、お母さんは妻なんだから。それに、報告してたからって、お母さんに何ができるの? どうせ、早くしてって急かすくらいじゃない」
「ひどい云い方ね、お母さんに向かって」
言葉を詰まらせるわけでもなく、典子は傷ついた振りもできていない。自分の非に気づくことができないのだから、もちろん非を理解することもできないで、智奈を理不尽に責めるのが常だ。いいかげん智奈は慣れたけれど、納得はしていない。
「ひどい娘だと思ってればいいよ。迷惑をかけて許してくれるのはお父さんだけってことをわかってる? そのお父さんはもういないんだよ」
大げさでもなんでもなく行雄がいないことは事実だ。智奈の言葉をどう受けとめたのか、典子はなぜか黙りこんだ。
沈黙のなか、キッチンで食器のぶつかる音がしている。ヘーゼルナッツの香りが漂ってきてまもなく、キョウゴがカップをのせたトレイを持ってきた。フレーバーコーヒーはインスタントだけれど、律儀に典子の希望に沿ったキョウゴを、智奈は恨めしく見つめた。
キョウゴはちらりと智奈を見ると、痛くも痒くもないといった気配でくちびるに緩く弧を描いた。手もとに目を戻したキョウゴは、砂糖とミルクを添えたソーサーにカップを載せ、典子の前に置く。そうして、智奈の隣に座ると自分たちの前にもカップを据えた。
典子はさっそくコーヒーに砂糖とミルクを入れたが、どことなく気がそぞろで、習慣的にこなしているように見える。嫌な予感――いや、やっぱり経験をもとにした予測がついて、智奈は前以て身構えた。そうしたところで役に立たないが――
「そう、お父さんはいないのよ、智奈の云うとおり。だからね、これからはふたりで協力していくしかないでしょ。そろそろ、わたしはここに戻るべきなんだわ」
典子の云い分は予測値を遥かに上回った。智奈は唖然とする。
典子のことをおかしな人だと云った智奈自身、その言葉が身に沁みた。智奈の感覚がおかしいのか、と自分のことを疑ってしまった。それくらいの衝撃だったのだ、しばらく口がきけなかった。
「お母さん、悪いけど……ううん、悪いのはお母さんでしょ。協力していくって、そんな言葉をわたしが信じると思う? お父さんからお金を巻きあげるばっかりで自分の後始末もしなかったくせに? 戻らなくていい。第一、この家はもういっぱいなの。お母さんの居場所なんて空いてないから」
典子は不可解だとばかりに眉間にしわを寄せ、智奈をじっと捕らえて答えを見いだそうとしている。すると、ふっとその視線をキョウゴに転じ、すぐさま智奈に戻した。
「まさか、智奈、この人と一緒に住んでるの?」
どんなにおかしな思考回路をしていても、まともに働くこともあるらしい。智奈は内心で皮肉っぽく思いながら、つんと軽く顎を上げた。
「だから何?」
「ここはわたしの家でもあるのよ。勝手に……」
「お母さんの家なんかじゃない。出ていったんだから。この家のために一円だって出してないじゃない。反対に、マイナスにしかしてない」
「冗談じゃないわ。わたしにだって相続の権利はあるのよ。事務所の整理だって、清算金をこの男に貢ぐためじゃないの? 智奈、あなたは騙されてるのよ。この見た目、どうしたってあなたと不釣り合いで……」
典子の不躾極まりない言葉は最後まで続かなかった。キョウゴが薄く笑ってさえぎったのだ。
見ると、キョウゴは皮肉っぽく笑っている。それは、精いっぱい善意に解釈しての見方であって、ひょっとしたら虚仮にした笑い方に見えなくもない。何しろ、こんな笑い方を智奈に見せたことはなく、その雰囲気は、シャチではなく、餌かどうかを見極めるべく囲うようにぐるぐると泳ぐ、凶暴なサメだ。
それでも、本人を目の前にして失礼なことを平気で云ってしまう典子のことだ、果たしてキョウゴが放っている気配を察知できるのか。
「挨拶が遅れました。立岡キョウゴです。今月になって智奈さんの家にお世話になっています。お母さんの許可がいるとはつゆ知らず、失礼しました」
表向き穏やかな言葉に、典子はハッと何やら思い立った様子だ。
「そういえば……さっき、ボディガードって云ってたわよね。なんのために必要なの?」
典子は、智奈とキョウゴをかわるがわる見やりながら訊ねた。
それに答えるのは、云いだしたキョウゴに任せた。もともと、同居を強行したときからキョウゴは守るとよく口にしている。単なる美辞麗句ではなくて、最初に会ったとき云っていたような意味が本当にあるのかもしれない。
「もちろん、必要なんですよ。お母さんが撒いた種だと理解していますが。責めているつもりはありません。むしろ、感謝したいくらいだ。おかげで智奈と出会えたんですから」
典子に負けず、キョウゴも率直だ。しかも、恥ずかしげもなく智奈との本当の関係をほのめかした。
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