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29.父のこと(2)

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「どうだったって、父に愛人がいたかどうかってこと?」
 問い返しながら、智奈は脳裡で父、行雄と女性の姿を再生していた。行雄の隣にいたのは、遠目で見て、背の高いすこぶる美人という雰囲気の女性だ。行雄のほうは年相応に良くも悪くも目立つ容姿ではなく、智奈からは不釣り合いに見えたものだ。
「ああ。別居して十年くらいあっただろう。女の影があってもおかしくない」
「母に云いつけたりしない?」
「はっ。そうしたところで、おれにはなんのメリットもない。逆に、智奈の信用を失うっていうデメリットならある」
 そもそも行雄は亡くなっていて、浮気がばれようがだれにもなんの影響もない。訊ねてしまったのは、母から面倒な追及を受けたくないからだ。例えば、愛人に使ったぶんのお金を寄越せと言い掛かりをつけてくるかもしれない。
「ほんと云うと、よくわからないの。紹介されたこともないから。お母さんがいる以上、紹介できなかったと思うし……。大学生のとき、夜、バイトから帰る途中に寄り道して、お父さんの事務所に行ったときにちょうど出てきて、そのとき見たのがはじめて。それを合わせて三回だけ見かけた。もしかしたら、仕事の取引先の人かもしれなくて、名前も知らないし、確信はできない」
「聞かされたことも訊いたこともない?」
 全然、と智奈は首を横に振った。
「ちょっと親しそうに見えたから、わたしが勝手にそうかなって思ってただけで。あ、でも、父にがっかりしたとか、そういうのはないの。それよりも、わたしがいなかったら、さっさと離婚して幸せになるチャンスがあったかもって思ってた。父がこんなに早く死んで、事情がわかって、なおさらそう思う。母のせいにしてるのも、責任転嫁。借金の話は知らなくて、あんな母親でも母親で、だから別居しても離婚しないことにはほっとしてたの。……離婚してって云えばよかった」
「智奈」
 視界が滲むのと、キョウゴが席を立つのとどちらが早かったのか、テーブルを回ってきたキョウゴは、間近で床に跪いたかと思うと、智奈が据わった椅子をつかんでくるりと正面に向きを変えた。そうして、智奈の躰を引き寄せて抱きしめた。
「泣きたいだけ泣けばいい。ただ……お父さんはきっと後悔してない。智奈が後悔するようなことを進んでやるような人じゃなかった。そうだろう? お父さんを信じるべきだ」
 この三カ月、吐露する場所が見つからず、抱えていた後悔を智奈は半ば無意識に打ち明けていた。キョウゴの云うとおり、行雄は智奈に後悔することを望まない。母と違って、行雄は子供のためにと手を尽くそうとする普通の父親だった。いや、普通以上に、自分を犠牲にしてまで妻の後始末を引き受けた。
「智奈、お父さんが後悔しているとしたら、智奈を残して逝くことだ。いま、お父さんが智奈に願ってるのはなんだと思う?」
「きっと……わたしの、幸せ……?」
 痞えながら云う智奈の背中を、キョウゴは子供をあやすみたいにとんとんと叩いた。
「そうだ」
 父を亡くしたことをだれとも共有できなかったことで、ずっと引きずってきたことがいまになって溢れた。自分のことなのに向き合えていなくて、未熟さが浮き彫りになる。
 独りぼっちで生きることではなく、悲しさやさみしさを共有してくれる人のいない、心底で独りぼっちでいることが怖かった。その怖さをいまキョウゴが追い払ってくれた気がした。
 智奈もまた抱きしめたくなってその衝動のまま、キョウゴの背中に手をまわす。ほっとしてついたため息はふるえているけれど。
「気持ちいい」
 智奈がつぶやくと、キョウゴの躰が揺れる。
「これは誘惑だな。さっさと食べて帰ろう」
 そう云いながらもしばらくキョウゴはそのままでいた。

 食事のあと、車で来ていたからアルコールを飲めなかったぶん、キョウゴはレストランでワインを調達してから帰路についた。
「キョウゴ、お酒ってやっぱり、すごく飲めちゃう? 味もわかる?」
 マンションのエレベーターに乗りこみながら、智奈はワインの入った紙袋を指差して訊ねてみた。
「どっちもホストの基本だろう。少なくとも、ヘラートは中身を安物のアルコールに入れ替えるなんていうごまかしはしてない」
 キョウゴは可笑しそうにして答える一方で、智奈は目を丸くした。
「そういうことするの?」
「ロマンチックナイトはそこまでやってなかったけど、そういう劣悪なクラブもある」
 世間知らずだな、と、キョウゴは智奈を責めるのではなく、なぜかうれしそうな様子で云う。
「でも、わたし、シンジには騙されてた」
「例外だ。けど、浪費するためとはいえ、なんでホスト通いだったんだ」
 浪費するためというようなことは堂貫にしか話していないけれど、その堂貫から聞いたのだろう。なぜホストだったか、智奈にとって散財するよりも比重の大きい理由は――
「……独りでいたくなかったから。客として行けば、閉店まで何時間でもお喋りの相手になる。そういうところ、ないでしょ? それとも、マッチングアプリとか、そういうほうが安全?」
 まさか、と、キョウゴは気に喰わなそうに顔をしかめた。五階にエレベーターが到着し、智奈の背中に手を当てて降りるようリードする間も眉間にしわを寄せている。
「ほとんどは真面目に利用してるかもしれないが、やっぱりおかしな奴はいる」
「そう云うキョウゴは『おかしな奴』じゃない?」
「それは智奈の主観による。けど、智奈にとって……」
「智奈」
 ふいに、キョウゴが云いかけている途中、別の声が割りこんできた。
 ぱっと声のしたほうへ顔を向けると、そこには知った声と違わない、知った顔があった。
「お母さん……何してるの」
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