27 / 100
26.贅沢な願望
しおりを挟む
フロアを跨ぐ、深く巨大な水槽の中、いろんな海洋生物に混じって白黒斑のシャチが優雅に泳ぐ。下のフロアから見えるのは、専らシャチのおなかだ。
「智奈、本当に水族館が好きなんだな。水槽にへばりついてる。カエルみたいだ」
ぱっと声のしたほうを振り向くと、目の前に、ほら、と飲み物の容器が掲げられた。
三月最後の日曜日、キョウゴから誘われた初デートで水族館までやってきた。久しぶりに来て、やっぱり魚を見るのは好きだと実感している。
特別、天井の高い大きな水槽の前から動かない智奈に痺れを切らしたのか、キョウゴは飲み物を買いにいくと云い、けれどその言葉も智奈はいいかげんに聞いていたのだろう、びっくり眼になりながらカップを受けとった。
「カエルって……もっと可愛く云ってくれるといいのに」
智奈は少し口を尖らせた。
「可愛くって例えば?」
「えっと……てんとう虫は?」
「はっ。確かに、小さいところは似てる。……それと、体液を飛ばすところも」
一瞬なんのことかと考えた。てんとう虫の習性――攻撃されたとき黄色い体液を出すことを思いだし、その意味を察すると、智奈は慌てて周りを見た。
すると、すぐ近くにいる女性同士の連れ二人と目が合ってしまう。そうして彼女たちの視線がキョウゴへと転じる。そうなると、彼女たちが果たしてキョウゴの発言に反応したのか、それともキョウゴ自身に反応しているのか、どちらかは判別がつかない。
「おかしなこと云わないで!」
智奈は音にならない囁き声でキョウゴを咎めた。そうしたところでキョウゴに効き目はなく、にやりとしながら澄まして肩をすくめると、智奈を水槽へと向き直らせた。キョウゴはぴたりと背中に張りつき、水槽の壁に片手をついて、もう片方は腹部に手をまわして智奈を囲う。
「おかしなことじゃなくて事実だろう。おれは気に入ってる」
キョウゴはからかうと、身をかがめて智奈の耳もとに顔を寄せて――
「ちなみに、カエルがひっくり返った恰好も気に入ってるけど」
耳もとで熱い吐息をこぼしながらキョウゴは嫌らしいことを囁いた。
だれかに聞かれなくても智奈は慌てた。ベッドのなか、最後の砦はまだ守られているけれど、ひっくり返ったカエルみたいな恰好でなされる行為は恥ずかしすぎる。抗議してもやり込められることはわかっているから、智奈は平気な振りを装ってだんまりを通した。
その努力すらもキョウゴは察しておもしろがっている。その証拠に、背中にくっついた躰が持続して小さく揺れた。
「キョウゴはもう、こんなふうに人前でベタベタする年じゃないと思うけど」
「ベタベタ? おれは智奈を守ってる、約束どおりに」
やり込めようとしてもキョウゴはどこ吹く風だ。ただ、その言葉を聞いてふと智奈は堂貫のことを思いだした。自ずと、およそ二週間前のことが脳裡に甦る。
堂貫とキョウゴ。髪の匂いを気にする共通点。似ているという以上に同じだ。あのとき、ぼんやりとそうは思っても、パラダイスから抜けだす気にはなれなくて、智奈は眠りについた。
いざ翌日になると、自分の考えが突飛な気がして、訊ねるのは控えてしまった。
背の高さ、頬から顎にかけての輪郭、声、そして髪の匂いを気にするところ、いろんなところが似ていて、けれど、喋り方は違って、昼間の仕事と夜の仕事というところも違っている。
類は友を呼んだにすぎないのか、それとも双子?
でも、双子なら一心同体などと云わずに、普通に双子と云えばすむ。
それ以降、あらためて髪の匂いを気にされることなく、偶然にすぎなかったかもしれない。第一、別人を装ってなんの意味があるのか。まったく見当がつかない。
もっと云えば、智奈の願望がそう思わせるのだ。堂貫とキョウゴが同一人物であれば、何も惑ったり迷ったりしない。
その日から二週間がたって、ふたりの違いはくっきりしてきた。
堂貫はお詫びだといって父の事務所の清算を申し出たが、有言実行、さっそく動いてくれていて、来週の金曜日、智奈は最後の手続きに立ち会うことになっている。
堂貫とふたりきりになることはもうなく、対面してのプライベートな会話は会社のエレベーターホールの前で見送りをするつかの間だけ、電話がかかってきても用件のみ、仕事のときはあたりまえに至ってビジネスライクだ。
がっかりするのはきっと筋違いだ。堂貫は仕事の付き合いの延長上で、すぎるほど親切にしてくれているのにすぎない。
智奈がその都度お礼を云うたびに堂貫は、『お詫びだ、約束は守る』と、そんなことを返す。
堂貫がそうやって外側の障害――面倒事から智奈を守るのに対して、キョウゴの場合は、今日みたいにデートに誘って楽しませてくれたり、同棲して智奈を孤独から救ったり、内面の部分を守っている。
ふたりの守り方は違っていて、だからこそ智奈はふたりがひとりだったらと思ってしまうのだ。
贅沢な願望だ。
「智奈、本当に水族館が好きなんだな。水槽にへばりついてる。カエルみたいだ」
ぱっと声のしたほうを振り向くと、目の前に、ほら、と飲み物の容器が掲げられた。
三月最後の日曜日、キョウゴから誘われた初デートで水族館までやってきた。久しぶりに来て、やっぱり魚を見るのは好きだと実感している。
特別、天井の高い大きな水槽の前から動かない智奈に痺れを切らしたのか、キョウゴは飲み物を買いにいくと云い、けれどその言葉も智奈はいいかげんに聞いていたのだろう、びっくり眼になりながらカップを受けとった。
「カエルって……もっと可愛く云ってくれるといいのに」
智奈は少し口を尖らせた。
「可愛くって例えば?」
「えっと……てんとう虫は?」
「はっ。確かに、小さいところは似てる。……それと、体液を飛ばすところも」
一瞬なんのことかと考えた。てんとう虫の習性――攻撃されたとき黄色い体液を出すことを思いだし、その意味を察すると、智奈は慌てて周りを見た。
すると、すぐ近くにいる女性同士の連れ二人と目が合ってしまう。そうして彼女たちの視線がキョウゴへと転じる。そうなると、彼女たちが果たしてキョウゴの発言に反応したのか、それともキョウゴ自身に反応しているのか、どちらかは判別がつかない。
「おかしなこと云わないで!」
智奈は音にならない囁き声でキョウゴを咎めた。そうしたところでキョウゴに効き目はなく、にやりとしながら澄まして肩をすくめると、智奈を水槽へと向き直らせた。キョウゴはぴたりと背中に張りつき、水槽の壁に片手をついて、もう片方は腹部に手をまわして智奈を囲う。
「おかしなことじゃなくて事実だろう。おれは気に入ってる」
キョウゴはからかうと、身をかがめて智奈の耳もとに顔を寄せて――
「ちなみに、カエルがひっくり返った恰好も気に入ってるけど」
耳もとで熱い吐息をこぼしながらキョウゴは嫌らしいことを囁いた。
だれかに聞かれなくても智奈は慌てた。ベッドのなか、最後の砦はまだ守られているけれど、ひっくり返ったカエルみたいな恰好でなされる行為は恥ずかしすぎる。抗議してもやり込められることはわかっているから、智奈は平気な振りを装ってだんまりを通した。
その努力すらもキョウゴは察しておもしろがっている。その証拠に、背中にくっついた躰が持続して小さく揺れた。
「キョウゴはもう、こんなふうに人前でベタベタする年じゃないと思うけど」
「ベタベタ? おれは智奈を守ってる、約束どおりに」
やり込めようとしてもキョウゴはどこ吹く風だ。ただ、その言葉を聞いてふと智奈は堂貫のことを思いだした。自ずと、およそ二週間前のことが脳裡に甦る。
堂貫とキョウゴ。髪の匂いを気にする共通点。似ているという以上に同じだ。あのとき、ぼんやりとそうは思っても、パラダイスから抜けだす気にはなれなくて、智奈は眠りについた。
いざ翌日になると、自分の考えが突飛な気がして、訊ねるのは控えてしまった。
背の高さ、頬から顎にかけての輪郭、声、そして髪の匂いを気にするところ、いろんなところが似ていて、けれど、喋り方は違って、昼間の仕事と夜の仕事というところも違っている。
類は友を呼んだにすぎないのか、それとも双子?
でも、双子なら一心同体などと云わずに、普通に双子と云えばすむ。
それ以降、あらためて髪の匂いを気にされることなく、偶然にすぎなかったかもしれない。第一、別人を装ってなんの意味があるのか。まったく見当がつかない。
もっと云えば、智奈の願望がそう思わせるのだ。堂貫とキョウゴが同一人物であれば、何も惑ったり迷ったりしない。
その日から二週間がたって、ふたりの違いはくっきりしてきた。
堂貫はお詫びだといって父の事務所の清算を申し出たが、有言実行、さっそく動いてくれていて、来週の金曜日、智奈は最後の手続きに立ち会うことになっている。
堂貫とふたりきりになることはもうなく、対面してのプライベートな会話は会社のエレベーターホールの前で見送りをするつかの間だけ、電話がかかってきても用件のみ、仕事のときはあたりまえに至ってビジネスライクだ。
がっかりするのはきっと筋違いだ。堂貫は仕事の付き合いの延長上で、すぎるほど親切にしてくれているのにすぎない。
智奈がその都度お礼を云うたびに堂貫は、『お詫びだ、約束は守る』と、そんなことを返す。
堂貫がそうやって外側の障害――面倒事から智奈を守るのに対して、キョウゴの場合は、今日みたいにデートに誘って楽しませてくれたり、同棲して智奈を孤独から救ったり、内面の部分を守っている。
ふたりの守り方は違っていて、だからこそ智奈はふたりがひとりだったらと思ってしまうのだ。
贅沢な願望だ。
0
お気に入りに追加
280
あなたにおすすめの小説
冷徹秘書は生贄の恋人を溺愛する
砂原雑音
恋愛
旧題:正しい媚薬の使用法
……先輩。
なんて人に、なんてものを盛ってくれたんですか……!
グラスに盛られた「天使の媚薬」
それを綺麗に飲み干したのは、わが社で「悪魔」と呼ばれる超エリートの社長秘書。
果たして悪魔に媚薬は効果があるのか。
確かめる前に逃げ出そうとしたら、がっつり捕まり。気づいたら、悪魔の微笑が私を見下ろしていたのでした。
※多少無理やり表現あります※多少……?
【R18】嫌いな同期をおっぱい堕ちさせますっ!
なとみ
恋愛
山田夏生は同期の瀬崎恭悟が嫌いだ。逆恨みだと分かっている。でも、会社でもプライベートでも要領の良い所が気に入らない!ある日の同期会でベロベロに酔った夏生は、実は小さくはない自分の胸で瀬崎を堕としてやろうと目論む。隠れDカップのヒロインが、嫌いな同期をおっぱい堕ちさせる話。(全5話+番外小話)
・無欲様主催の、「秋のぱい祭り企画」参加作品です(こちらはムーンライトノベルズにも掲載しています。)
※全編背後注意
ミックスド★バス~湯けむりマッサージは至福のとき
taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。
温子の疲れを癒そうと、水川が温泉旅行を提案。温泉地での水川からのマッサージに、温子は身も心も蕩けて……❤︎
ミックスド★バスの第4弾です。
やさしい幼馴染は豹変する。
春密まつり
恋愛
マンションの隣の部屋の喘ぎ声に悩まされている紗江。
そのせいで転職1日目なのに眠くてたまらない。
なんとか遅刻せず会社に着いて挨拶を済ませると、なんと昔大好きだった幼馴染と再会した。
けれど、王子様みたいだった彼は昔の彼とは違っていてーー
▼全6話
▼ムーンライト、pixiv、エブリスタにも投稿しています
セカンドラブ ー30歳目前に初めての彼が7年ぶりに現れてあの時よりちゃんと抱いてやるって⁉ 【完結】
remo
恋愛
橘 あおい、30歳目前。
干からびた生活が長すぎて、化石になりそう。このまま一生1人で生きていくのかな。
と思っていたら、
初めての相手に再会した。
柚木 紘弥。
忘れられない、初めての1度だけの彼。
【完結】ありがとうございました‼
一夜限りのお相手は
栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月
突然ですが、偽装溺愛婚はじめました
紺乃 藍
恋愛
結婚式当日、花嫁である柏木七海(かしわぎななみ)をバージンロードの先で待ち受けていたのは『見知らぬ女性の挙式乱入』と『花婿の逃亡』という衝撃的な展開だった。
チャペルに一人置き去りにされみじめな思いで立ち尽くしていると、参列者の中から一人の男性が駆け寄ってきて、七海の手を取る。
「君が結婚すると聞いて諦めていた。でも破談になるなら、代わりに俺と結婚してほしい」
そう言って突然求婚してきたのは、七海が日々社長秘書として付き従っている上司・支倉将斗(はせくらまさと)だった。
最初は拒否する七海だったが、会社の外聞と父の体裁を盾に押し切られ、結局は期限付きの〝偽装溺愛婚〟に応じることに。
しかし長年ビジネスパートナーとして苦楽を共にしてきた二人は、アッチもコッチも偽装とは思えないほどに相性抜群で…!?
◇ R18表現のあるお話には「◆」マークがついています
◇ 設定はすべてフィクションです。実際の人物・企業・団体には一切関係ございません
◇ エブリスタ・ムーンライトノベルズにも掲載しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる