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20.パーフェクトスーツ
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あとで、という堂貫の言葉はいざなうように温かく聞こえたけれど、そのあとであったことは、智奈の上司である川上と、堂貫の補佐である長友を交えた打ち合わせで、立場的な現実を突きつけられた。
打ち合わせ中、昼休みにあった身近さは感じられず、堂貫は至って事務的だったし、智奈にしろ仕事である以上、淡々と携わっていたけれど、帰り際も特別なことは何もなく、労いの言葉を交わすのが精いっぱいで、置いてけぼりにされたように智奈は途方にくれた。
あまつさえ、夕方になってキョウゴから『今日は帰れなくなった』というメッセージが入って、今日は独りぼっちの夜だ。
今日の夕食はハンバーグを作るつもりで、予定どおり三つ用意した。もとからひとつはお弁当用だったけれど、もうひとつ、キョウゴの分として作ったのも冷凍をしておけばいい。それはよしとしても、独りで食べるのは詰まらない。昼間、お弁当を食べるときにお喋りの相手――堂貫がいたからよけいにそう感じるのかもしれない。
それにしても、キョウゴが来て一週間もたっていない。そんな短い間に、ようやく慣れていた独り暮しがいかに心細いかを忘れていた。智奈は無自覚にキョウゴの存在を当てにしていたのだ。そんな情けないことまで思い知らされる。
母がいなくなってもさみしいとはあまり感じなかった。それだけ母は自分が楽しむことのほうがさきで、智奈をかまっていなかったのだろうか。対して、父の行雄が病死したときは悲しくてたまらなかった。けれど、その悲しみを共有する人がいなかった。
行雄の弟家族もほかの親族も、葬儀に参列はしてくれたけれど遠巻きだった。智奈になぐさめの言葉をかけてくれたものの関わりたくないことが見て取れた。
責められることではない。智奈もまた、面倒な母とは関わりたくない。母の人生の責任など背負いたくない。きっと、それと同じことだ。
バラエティのテレビ番組を相手にした夕食のあと、智奈はハンバーグをひとつラップで包み、とりあえずカウンターに置くと、そこにある小さなイーゼルが目に留まった。
真鍮のイーゼルに飾っているのはポストカードでも写真でもなく名刺だ。キョウゴのクラブの名刺で、黒地にゴールドとワインレッドで文字などが装飾され、紙も上質であれば、ヘラートのロゴやデザインも、名刺にしておくのがもったいないくらいお洒落なのだ。
智奈は、なんらかの啓示が映しだされるのを待つかのごとく、じっとそれを見つめた。そして、脳内で啓示を受けたようにぱっと思いついた。
智奈は急いで食器や鍋を洗い、お米を砥いでから着替えをすませた。会社は私服で、帰ってもわざわざ着替えることはせず、料理をするときはエプロンを身に着けるだけだからそのままでも出かけられる。けれど、いまから行こうとする場所はもう少しお洒落感があったほうがいい。
メイクを直して、トートバッグから小振りのショルダーバッグに変えて、そうして出てきた先は、キョウゴがいるであろう、ホストクラブのヘラートだ。
名刺に載った住所を頼って来た街は、ロマンチックナイトがあったにぎやかな街とは違って、わりと閑静な雰囲気だ。紹介制で客はほぼセレブだと聞いたとおり、宣伝用の看板が外に出ているわけでもなく、欧風のアンティークな木製のドアにネームプレートが掛けられているだけだが、シンプルでいながら上品だ。
夜の九時をすぎたところで、防音がきいているのか、客が少ないのか、そもそも騒々しさがないのか、向かい側の歩道に立った智奈にはまったく様子が窺えない。入るのにはやっぱり勇気がいる。ロマンチックナイトに行けたのはそこのホストからキャッチされたからで、智奈が自ら飛びこんだわけではない。
キョウゴから誘われていない以上、勝手に来るのもどうかと思って連絡は入れなかったけれど、智奈が頼んでもいないのに、来る? とか、連れていく、と云ったのもキョウゴだ。
――ちょっと待って。
ふと、智奈は自分で自分を引きとめた。キョウゴは、帰れなくなったと伝えてきただけで、クラブに出るとは云っていない。
智奈はバッグからスマホを取りだして、メッセージアプリを開いた。
すると、ちょうどそのとき、いかにも高級といった大きい車が、店の正面で歩道につけて止まった。照明のせいか、やたらとぴかぴかした白い車だ。運転席からスーツを着た男が出てくると、左側の後部ドア辺りにまわりこむ。どうやら、そこで待機するようだ。
だれかしらセレブの送迎車だろう。智奈は、さすがに高級クラブの客だと感心しながら眺めていると、店のドアが内側から開いた。
出てきた人にキョウゴを呼んでもらえばいい。そう考えついてスマホをバッグにしまい、智奈は顔を上げた。とたん、智奈だけ時間が止まったように躰が硬直した。
出てきたのはキョウゴ本人だった。これまでラフな恰好しか見たことがなく、いま完璧にスーツを着こなしているけれど、片側一車線という距離があってもその顔は見間違いようがない。その姿だけなら、魅惑されてうっとりしただろうけれど、そうはならなかった。
キョウゴは隣の女性にぴたりと寄り添い、おそらく腰を抱いてエスコートしている。運転手が後部座席のドアを開けると、キョウゴはさきに乗るよう女性を促し、ありがとう、とそれに応じる艶やかな女性の声がしたあと。
「ボンシャンホテルに行ってくれ」
聞き間違えようのないキョウゴの声が夜の街中に響いた。いや、智奈が耳を澄ましていたから聞こえたのか。しかも、そのホテルの名にも聞き覚えがある。先週、キョウゴに連れられて智奈が泊まったホテルだ。
まるで手順があるかのように、キョウゴのエスコートも女性とのコミュニケーションもすべてが自然だった。ホストだからあたりまえだ。けれど。
車に乗るのは女性だけではなかった。車内で女性は運転席の後ろに移動し、続いてキョウゴが乗ろうとして身をかがめている。
その途中、ふとキョウゴの顔がこちらを向き、直後、かがめかけていた背を伸ばした。
智奈は身動きひとつせず、呼吸さえも止まっているのに、何が目を引いたのか、キョウゴはまっすぐ智奈を捕らえた。
打ち合わせ中、昼休みにあった身近さは感じられず、堂貫は至って事務的だったし、智奈にしろ仕事である以上、淡々と携わっていたけれど、帰り際も特別なことは何もなく、労いの言葉を交わすのが精いっぱいで、置いてけぼりにされたように智奈は途方にくれた。
あまつさえ、夕方になってキョウゴから『今日は帰れなくなった』というメッセージが入って、今日は独りぼっちの夜だ。
今日の夕食はハンバーグを作るつもりで、予定どおり三つ用意した。もとからひとつはお弁当用だったけれど、もうひとつ、キョウゴの分として作ったのも冷凍をしておけばいい。それはよしとしても、独りで食べるのは詰まらない。昼間、お弁当を食べるときにお喋りの相手――堂貫がいたからよけいにそう感じるのかもしれない。
それにしても、キョウゴが来て一週間もたっていない。そんな短い間に、ようやく慣れていた独り暮しがいかに心細いかを忘れていた。智奈は無自覚にキョウゴの存在を当てにしていたのだ。そんな情けないことまで思い知らされる。
母がいなくなってもさみしいとはあまり感じなかった。それだけ母は自分が楽しむことのほうがさきで、智奈をかまっていなかったのだろうか。対して、父の行雄が病死したときは悲しくてたまらなかった。けれど、その悲しみを共有する人がいなかった。
行雄の弟家族もほかの親族も、葬儀に参列はしてくれたけれど遠巻きだった。智奈になぐさめの言葉をかけてくれたものの関わりたくないことが見て取れた。
責められることではない。智奈もまた、面倒な母とは関わりたくない。母の人生の責任など背負いたくない。きっと、それと同じことだ。
バラエティのテレビ番組を相手にした夕食のあと、智奈はハンバーグをひとつラップで包み、とりあえずカウンターに置くと、そこにある小さなイーゼルが目に留まった。
真鍮のイーゼルに飾っているのはポストカードでも写真でもなく名刺だ。キョウゴのクラブの名刺で、黒地にゴールドとワインレッドで文字などが装飾され、紙も上質であれば、ヘラートのロゴやデザインも、名刺にしておくのがもったいないくらいお洒落なのだ。
智奈は、なんらかの啓示が映しだされるのを待つかのごとく、じっとそれを見つめた。そして、脳内で啓示を受けたようにぱっと思いついた。
智奈は急いで食器や鍋を洗い、お米を砥いでから着替えをすませた。会社は私服で、帰ってもわざわざ着替えることはせず、料理をするときはエプロンを身に着けるだけだからそのままでも出かけられる。けれど、いまから行こうとする場所はもう少しお洒落感があったほうがいい。
メイクを直して、トートバッグから小振りのショルダーバッグに変えて、そうして出てきた先は、キョウゴがいるであろう、ホストクラブのヘラートだ。
名刺に載った住所を頼って来た街は、ロマンチックナイトがあったにぎやかな街とは違って、わりと閑静な雰囲気だ。紹介制で客はほぼセレブだと聞いたとおり、宣伝用の看板が外に出ているわけでもなく、欧風のアンティークな木製のドアにネームプレートが掛けられているだけだが、シンプルでいながら上品だ。
夜の九時をすぎたところで、防音がきいているのか、客が少ないのか、そもそも騒々しさがないのか、向かい側の歩道に立った智奈にはまったく様子が窺えない。入るのにはやっぱり勇気がいる。ロマンチックナイトに行けたのはそこのホストからキャッチされたからで、智奈が自ら飛びこんだわけではない。
キョウゴから誘われていない以上、勝手に来るのもどうかと思って連絡は入れなかったけれど、智奈が頼んでもいないのに、来る? とか、連れていく、と云ったのもキョウゴだ。
――ちょっと待って。
ふと、智奈は自分で自分を引きとめた。キョウゴは、帰れなくなったと伝えてきただけで、クラブに出るとは云っていない。
智奈はバッグからスマホを取りだして、メッセージアプリを開いた。
すると、ちょうどそのとき、いかにも高級といった大きい車が、店の正面で歩道につけて止まった。照明のせいか、やたらとぴかぴかした白い車だ。運転席からスーツを着た男が出てくると、左側の後部ドア辺りにまわりこむ。どうやら、そこで待機するようだ。
だれかしらセレブの送迎車だろう。智奈は、さすがに高級クラブの客だと感心しながら眺めていると、店のドアが内側から開いた。
出てきた人にキョウゴを呼んでもらえばいい。そう考えついてスマホをバッグにしまい、智奈は顔を上げた。とたん、智奈だけ時間が止まったように躰が硬直した。
出てきたのはキョウゴ本人だった。これまでラフな恰好しか見たことがなく、いま完璧にスーツを着こなしているけれど、片側一車線という距離があってもその顔は見間違いようがない。その姿だけなら、魅惑されてうっとりしただろうけれど、そうはならなかった。
キョウゴは隣の女性にぴたりと寄り添い、おそらく腰を抱いてエスコートしている。運転手が後部座席のドアを開けると、キョウゴはさきに乗るよう女性を促し、ありがとう、とそれに応じる艶やかな女性の声がしたあと。
「ボンシャンホテルに行ってくれ」
聞き間違えようのないキョウゴの声が夜の街中に響いた。いや、智奈が耳を澄ましていたから聞こえたのか。しかも、そのホテルの名にも聞き覚えがある。先週、キョウゴに連れられて智奈が泊まったホテルだ。
まるで手順があるかのように、キョウゴのエスコートも女性とのコミュニケーションもすべてが自然だった。ホストだからあたりまえだ。けれど。
車に乗るのは女性だけではなかった。車内で女性は運転席の後ろに移動し、続いてキョウゴが乗ろうとして身をかがめている。
その途中、ふとキョウゴの顔がこちらを向き、直後、かがめかけていた背を伸ばした。
智奈は身動きひとつせず、呼吸さえも止まっているのに、何が目を引いたのか、キョウゴはまっすぐ智奈を捕らえた。
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