上 下
5 / 100

5.運のいいお嬢さま

しおりを挟む
――……反応があるのなら心配ないと思うよ。そろそろ起こしたらいい。万が一、目が覚めきらないようだったら連絡してほしい。すぐ向かう。
――わかりました。ありがとうございます。
――きみがここまで心配するのもめずらしいな。
――いろいろ頼まれてますから。
 それらの会話は理解するには及ばなかったが、ただ音としてだんだんとクリアに聞こえてきた。ひとつの声はすぐ傍に聞こえ、もうひとつは生の声ではなく何かを通しているように感じだ。そして、聞き慣れない声とともに、食器がぶつかるような音が立っている。
 智奈は薄らと目を瞬いて、それから瞼を上げた。
 空の見える大きな窓を背景に、そこには見知らぬ男がいて、テーブルにプレートを置いている。智奈がハッと息を呑んだのと、男がかがんだ姿勢のまま振り向いたのはどちらが早かったのか。
『なるほど、事情は聞かないほうがよさそうだ。ところで、危ないことをやっている輩がいるようだな』
 生ではない声が喋っているうちに男は智奈に笑いかけ、安心させるためかうなずいた。
 智奈は慌てて起きあがる。少しくらっとしたなか、自分がなじみのない部屋にいること、その室内にある二つのうち一つのベッドで眠っていたこと、そして生ではない声はハンズフリー通話で話している相手であることを把握できた。
「そのうち対処しますよ。彼女、目が覚めたようです。ありがとうございました」
『それはよかった。何か後遺症のような問題があれば連絡してくれていい』
「はい、失礼します」
 男はテーブルに置いたスマホに触れてなんらかの操作をすると、背中を起こして智奈の正面に向き直り、あらためて目を向けた。
 声が聞き慣れないどころか、まったく知らない男だ。顔のパーツがそれぞれにすっとした印象で整いすぎている。それでいて男性らしい力強さを感じるのは骨格のせいか。思わず智奈は見入ってしまい、見知らぬ他人といる危うさに気がまわらず、男がベッドひとつ隔てた場所から近づいてくるのを目で追った。
「気分は?」
 もう片方のベッドにどさりと腰をおろして、男は首をかしげた。
『気分』がどいういう気分をさしているのか、どうしてそんなことを訊ねられるのか、智奈はさっぱり思いつかない。
「特に……」
「昨日のことを憶えてないのか」
 曖昧に云いだした智奈をさえぎって、男はからかった面持ちで重ねて問う。
「昨日のこと……」
 無意識に男が云った言葉をつぶやき、昨日のことに思考を馳せるとまもなく、智奈はロマンチックナイトにいた途中からの記憶が途絶えていることに気がついた。記憶にある確かなことは、帰る間際、シンジがやって来て水族館の話をしていたこと。
「あの、途中までは憶えてるんですけど……」
「説明してほしい?」
 戸惑ったように口を開いた智奈のかわりに男が先回りして云った。
 昨日のことを思いだすと同時に、どう見てもホテルのツインルームに知らない男とふたりきりで、自分が危険な立場に置かれていることをあらためて認識した。けれど、やわらかい口調と、その口調そのままの麗らかな雰囲気が、智奈の警戒心を緩めている。
「もちろんです。お願いします」
 智奈は二つ返事で応じた。男は笑ってはいないけれど、そんな気配でうなずく。
「きみがロマンチックナイトで最後に飲んだものは憶えてる?」
「えっと……カシスオレンジです」
「カクテル?」
「ノンアルコールです。いつも帰るときに頼んでて……」
「あれはカシスリキュールの、れっきとしたカクテルだった。きみは習慣に付け込まれたんだ。たぶん、カクテルには睡眠薬が混入されていた。犯罪だ。ホスト界隈には、そのやり方があいつ――シンジの、落とせない女にやる常套手段だっていう噂がある」
「……どういうこと?」
性的脅迫セクストーションだ。眠っている間に裸の写真を撮るとか、最悪は性的暴行までやる。その写真をネタに、夜の仕事やら躰を売らせて自分に貢がせる。ロマンチックナイトでのあいつの実績はそういう上に成り立っている」
「……ほんとに?」
 男が云ったことは、ニュースとか週刊誌とか、どこかで聞いた話ではある。世の中、いい人ばかりとは限らない。そのことは身を以て知っている。けれど、俄には信じられず、智奈が半信半疑で問うと、男はため息をついて、呆れたようにゆっくり首を横に振った。
「どこのお嬢さまだ」
『お嬢さま』というキーワードは、智奈が否定したにもかかわらずシンジがそう思いこんでいたことを思いだした。すると、男の話と符合しなくはないと気づいた。智奈が金持ちだとしたら、夜の仕事などさせなくても、世間に晒されたくない写真をもとにお金を引きだせると考えたかもしれない。記憶をなくす寸前の感覚は異様すぎた。
「お嬢さまじゃありません。でも……昨日は、眠たくないのに眠りに引きずられる感じでした」
「そういうことだ。同じホスト業をやってるおれとしては言語道断、客層に知れ渡れば営業妨害だ。今度やらかしたら、あいつこそ落とされる」
「ホスト? あなたもロマンチックナイトにいた?」
 智奈は驚きながら不思議そうに訊ねた。ロマンチックナイトでこの男を見かけていたら忘れるはずがない。タイミングがいいのか悪いのか、ただすれ違っていただけだろうか――と思っていると、男は、いや、と首を横に振った。
「おれは“ヘラート”っていうクラブにいる。キョウゴ、だ。ある人に頼まれてシンジを張っていた。コージは知ってるだろう。監視させるために潜らせた。運よく、きみは助かったってわけだ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷徹秘書は生贄の恋人を溺愛する

砂原雑音
恋愛
旧題:正しい媚薬の使用法 ……先輩。 なんて人に、なんてものを盛ってくれたんですか……! グラスに盛られた「天使の媚薬」 それを綺麗に飲み干したのは、わが社で「悪魔」と呼ばれる超エリートの社長秘書。 果たして悪魔に媚薬は効果があるのか。 確かめる前に逃げ出そうとしたら、がっつり捕まり。気づいたら、悪魔の微笑が私を見下ろしていたのでした。 ※多少無理やり表現あります※多少……?

【R18】嫌いな同期をおっぱい堕ちさせますっ!

なとみ
恋愛
山田夏生は同期の瀬崎恭悟が嫌いだ。逆恨みだと分かっている。でも、会社でもプライベートでも要領の良い所が気に入らない!ある日の同期会でベロベロに酔った夏生は、実は小さくはない自分の胸で瀬崎を堕としてやろうと目論む。隠れDカップのヒロインが、嫌いな同期をおっぱい堕ちさせる話。(全5話+番外小話) ・無欲様主催の、「秋のぱい祭り企画」参加作品です(こちらはムーンライトノベルズにも掲載しています。) ※全編背後注意

ミックスド★バス~湯けむりマッサージは至福のとき

taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。 温子の疲れを癒そうと、水川が温泉旅行を提案。温泉地での水川からのマッサージに、温子は身も心も蕩けて……❤︎ ミックスド★バスの第4弾です。

友情結婚してみたら溺愛されてる件

鳴宮鶉子
恋愛
幼馴染で元カレの彼と友情結婚したら、溺愛されてる?

やさしい幼馴染は豹変する。

春密まつり
恋愛
マンションの隣の部屋の喘ぎ声に悩まされている紗江。 そのせいで転職1日目なのに眠くてたまらない。 なんとか遅刻せず会社に着いて挨拶を済ませると、なんと昔大好きだった幼馴染と再会した。 けれど、王子様みたいだった彼は昔の彼とは違っていてーー ▼全6話 ▼ムーンライト、pixiv、エブリスタにも投稿しています

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

鬼畜外科医から溺愛求愛されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
鬼畜外科医から溺愛求愛されちゃいました

突然ですが、偽装溺愛婚はじめました

紺乃 藍
恋愛
結婚式当日、花嫁である柏木七海(かしわぎななみ)をバージンロードの先で待ち受けていたのは『見知らぬ女性の挙式乱入』と『花婿の逃亡』という衝撃的な展開だった。 チャペルに一人置き去りにされみじめな思いで立ち尽くしていると、参列者の中から一人の男性が駆け寄ってきて、七海の手を取る。 「君が結婚すると聞いて諦めていた。でも破談になるなら、代わりに俺と結婚してほしい」 そう言って突然求婚してきたのは、七海が日々社長秘書として付き従っている上司・支倉将斗(はせくらまさと)だった。 最初は拒否する七海だったが、会社の外聞と父の体裁を盾に押し切られ、結局は期限付きの〝偽装溺愛婚〟に応じることに。 しかし長年ビジネスパートナーとして苦楽を共にしてきた二人は、アッチもコッチも偽装とは思えないほどに相性抜群で…!? ◇ R18表現のあるお話には「◆」マークがついています ◇ 設定はすべてフィクションです。実際の人物・企業・団体には一切関係ございません ◇ エブリスタ・ムーンライトノベルズにも掲載しています

処理中です...