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5.運のいいお嬢さま
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――……反応があるのなら心配ないと思うよ。そろそろ起こしたらいい。万が一、目が覚めきらないようだったら連絡してほしい。すぐ向かう。
――わかりました。ありがとうございます。
――きみがここまで心配するのもめずらしいな。
――いろいろ頼まれてますから。
それらの会話は理解するには及ばなかったが、ただ音としてだんだんとクリアに聞こえてきた。ひとつの声はすぐ傍に聞こえ、もうひとつは生の声ではなく何かを通しているように感じだ。そして、聞き慣れない声とともに、食器がぶつかるような音が立っている。
智奈は薄らと目を瞬いて、それから瞼を上げた。
空の見える大きな窓を背景に、そこには見知らぬ男がいて、テーブルにプレートを置いている。智奈がハッと息を呑んだのと、男がかがんだ姿勢のまま振り向いたのはどちらが早かったのか。
『なるほど、事情は聞かないほうがよさそうだ。ところで、危ないことをやっている輩がいるようだな』
生ではない声が喋っているうちに男は智奈に笑いかけ、安心させるためかうなずいた。
智奈は慌てて起きあがる。少しくらっとしたなか、自分がなじみのない部屋にいること、その室内にある二つのうち一つのベッドで眠っていたこと、そして生ではない声はハンズフリー通話で話している相手であることを把握できた。
「そのうち対処しますよ。彼女、目が覚めたようです。ありがとうございました」
『それはよかった。何か後遺症のような問題があれば連絡してくれていい』
「はい、失礼します」
男はテーブルに置いたスマホに触れてなんらかの操作をすると、背中を起こして智奈の正面に向き直り、あらためて目を向けた。
声が聞き慣れないどころか、まったく知らない男だ。顔のパーツがそれぞれにすっとした印象で整いすぎている。それでいて男性らしい力強さを感じるのは骨格のせいか。思わず智奈は見入ってしまい、見知らぬ他人といる危うさに気がまわらず、男がベッドひとつ隔てた場所から近づいてくるのを目で追った。
「気分は?」
もう片方のベッドにどさりと腰をおろして、男は首をかしげた。
『気分』がどいういう気分をさしているのか、どうしてそんなことを訊ねられるのか、智奈はさっぱり思いつかない。
「特に……」
「昨日のことを憶えてないのか」
曖昧に云いだした智奈をさえぎって、男はからかった面持ちで重ねて問う。
「昨日のこと……」
無意識に男が云った言葉をつぶやき、昨日のことに思考を馳せるとまもなく、智奈はロマンチックナイトにいた途中からの記憶が途絶えていることに気がついた。記憶にある確かなことは、帰る間際、シンジがやって来て水族館の話をしていたこと。
「あの、途中までは憶えてるんですけど……」
「説明してほしい?」
戸惑ったように口を開いた智奈のかわりに男が先回りして云った。
昨日のことを思いだすと同時に、どう見てもホテルのツインルームに知らない男とふたりきりで、自分が危険な立場に置かれていることをあらためて認識した。けれど、やわらかい口調と、その口調そのままの麗らかな雰囲気が、智奈の警戒心を緩めている。
「もちろんです。お願いします」
智奈は二つ返事で応じた。男は笑ってはいないけれど、そんな気配でうなずく。
「きみがロマンチックナイトで最後に飲んだものは憶えてる?」
「えっと……カシスオレンジです」
「カクテル?」
「ノンアルコールです。いつも帰るときに頼んでて……」
「あれはカシスリキュールの、れっきとしたカクテルだった。きみは習慣に付け込まれたんだ。たぶん、カクテルには睡眠薬が混入されていた。犯罪だ。ホスト界隈には、そのやり方があいつ――シンジの、落とせない女にやる常套手段だっていう噂がある」
「……どういうこと?」
「性的脅迫だ。眠っている間に裸の写真を撮るとか、最悪は性的暴行までやる。その写真をネタに、夜の仕事やら躰を売らせて自分に貢がせる。ロマンチックナイトでのあいつの実績はそういう上に成り立っている」
「……ほんとに?」
男が云ったことは、ニュースとか週刊誌とか、どこかで聞いた話ではある。世の中、いい人ばかりとは限らない。そのことは身を以て知っている。けれど、俄には信じられず、智奈が半信半疑で問うと、男はため息をついて、呆れたようにゆっくり首を横に振った。
「どこのお嬢さまだ」
『お嬢さま』というキーワードは、智奈が否定したにもかかわらずシンジがそう思いこんでいたことを思いだした。すると、男の話と符合しなくはないと気づいた。智奈が金持ちだとしたら、夜の仕事などさせなくても、世間に晒されたくない写真をもとにお金を引きだせると考えたかもしれない。記憶をなくす寸前の感覚は異様すぎた。
「お嬢さまじゃありません。でも……昨日は、眠たくないのに眠りに引きずられる感じでした」
「そういうことだ。同じホスト業をやってるおれとしては言語道断、客層に知れ渡れば営業妨害だ。今度やらかしたら、あいつこそ落とされる」
「ホスト? あなたもロマンチックナイトにいた?」
智奈は驚きながら不思議そうに訊ねた。ロマンチックナイトでこの男を見かけていたら忘れるはずがない。タイミングがいいのか悪いのか、ただすれ違っていただけだろうか――と思っていると、男は、いや、と首を横に振った。
「おれは“ヘラート”っていうクラブにいる。キョウゴ、だ。ある人に頼まれてシンジを張っていた。コージは知ってるだろう。監視させるために潜らせた。運よく、きみは助かったってわけだ」
――わかりました。ありがとうございます。
――きみがここまで心配するのもめずらしいな。
――いろいろ頼まれてますから。
それらの会話は理解するには及ばなかったが、ただ音としてだんだんとクリアに聞こえてきた。ひとつの声はすぐ傍に聞こえ、もうひとつは生の声ではなく何かを通しているように感じだ。そして、聞き慣れない声とともに、食器がぶつかるような音が立っている。
智奈は薄らと目を瞬いて、それから瞼を上げた。
空の見える大きな窓を背景に、そこには見知らぬ男がいて、テーブルにプレートを置いている。智奈がハッと息を呑んだのと、男がかがんだ姿勢のまま振り向いたのはどちらが早かったのか。
『なるほど、事情は聞かないほうがよさそうだ。ところで、危ないことをやっている輩がいるようだな』
生ではない声が喋っているうちに男は智奈に笑いかけ、安心させるためかうなずいた。
智奈は慌てて起きあがる。少しくらっとしたなか、自分がなじみのない部屋にいること、その室内にある二つのうち一つのベッドで眠っていたこと、そして生ではない声はハンズフリー通話で話している相手であることを把握できた。
「そのうち対処しますよ。彼女、目が覚めたようです。ありがとうございました」
『それはよかった。何か後遺症のような問題があれば連絡してくれていい』
「はい、失礼します」
男はテーブルに置いたスマホに触れてなんらかの操作をすると、背中を起こして智奈の正面に向き直り、あらためて目を向けた。
声が聞き慣れないどころか、まったく知らない男だ。顔のパーツがそれぞれにすっとした印象で整いすぎている。それでいて男性らしい力強さを感じるのは骨格のせいか。思わず智奈は見入ってしまい、見知らぬ他人といる危うさに気がまわらず、男がベッドひとつ隔てた場所から近づいてくるのを目で追った。
「気分は?」
もう片方のベッドにどさりと腰をおろして、男は首をかしげた。
『気分』がどいういう気分をさしているのか、どうしてそんなことを訊ねられるのか、智奈はさっぱり思いつかない。
「特に……」
「昨日のことを憶えてないのか」
曖昧に云いだした智奈をさえぎって、男はからかった面持ちで重ねて問う。
「昨日のこと……」
無意識に男が云った言葉をつぶやき、昨日のことに思考を馳せるとまもなく、智奈はロマンチックナイトにいた途中からの記憶が途絶えていることに気がついた。記憶にある確かなことは、帰る間際、シンジがやって来て水族館の話をしていたこと。
「あの、途中までは憶えてるんですけど……」
「説明してほしい?」
戸惑ったように口を開いた智奈のかわりに男が先回りして云った。
昨日のことを思いだすと同時に、どう見てもホテルのツインルームに知らない男とふたりきりで、自分が危険な立場に置かれていることをあらためて認識した。けれど、やわらかい口調と、その口調そのままの麗らかな雰囲気が、智奈の警戒心を緩めている。
「もちろんです。お願いします」
智奈は二つ返事で応じた。男は笑ってはいないけれど、そんな気配でうなずく。
「きみがロマンチックナイトで最後に飲んだものは憶えてる?」
「えっと……カシスオレンジです」
「カクテル?」
「ノンアルコールです。いつも帰るときに頼んでて……」
「あれはカシスリキュールの、れっきとしたカクテルだった。きみは習慣に付け込まれたんだ。たぶん、カクテルには睡眠薬が混入されていた。犯罪だ。ホスト界隈には、そのやり方があいつ――シンジの、落とせない女にやる常套手段だっていう噂がある」
「……どういうこと?」
「性的脅迫だ。眠っている間に裸の写真を撮るとか、最悪は性的暴行までやる。その写真をネタに、夜の仕事やら躰を売らせて自分に貢がせる。ロマンチックナイトでのあいつの実績はそういう上に成り立っている」
「……ほんとに?」
男が云ったことは、ニュースとか週刊誌とか、どこかで聞いた話ではある。世の中、いい人ばかりとは限らない。そのことは身を以て知っている。けれど、俄には信じられず、智奈が半信半疑で問うと、男はため息をついて、呆れたようにゆっくり首を横に振った。
「どこのお嬢さまだ」
『お嬢さま』というキーワードは、智奈が否定したにもかかわらずシンジがそう思いこんでいたことを思いだした。すると、男の話と符合しなくはないと気づいた。智奈が金持ちだとしたら、夜の仕事などさせなくても、世間に晒されたくない写真をもとにお金を引きだせると考えたかもしれない。記憶をなくす寸前の感覚は異様すぎた。
「お嬢さまじゃありません。でも……昨日は、眠たくないのに眠りに引きずられる感じでした」
「そういうことだ。同じホスト業をやってるおれとしては言語道断、客層に知れ渡れば営業妨害だ。今度やらかしたら、あいつこそ落とされる」
「ホスト? あなたもロマンチックナイトにいた?」
智奈は驚きながら不思議そうに訊ねた。ロマンチックナイトでこの男を見かけていたら忘れるはずがない。タイミングがいいのか悪いのか、ただすれ違っていただけだろうか――と思っていると、男は、いや、と首を横に振った。
「おれは“ヘラート”っていうクラブにいる。キョウゴ、だ。ある人に頼まれてシンジを張っていた。コージは知ってるだろう。監視させるために潜らせた。運よく、きみは助かったってわけだ」
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