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4.水中の揺りかご
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「お礼?」
不思議そうに問う智奈に、そうだよ、と応じながら、シンジはコージを振り向いた。
「ここはもう大丈夫だ。小坂《こさか》にノンアルのカシスオレンジを頼んでくれないか」
「わかりました」
コージがうなずくと、シンジは智奈に目を戻した。
「そろそろ帰る時間だろう。締めはいつものでいい?」
智奈の帰る時間はおよそ決まっていて、最初のほうこそシンジは引きとめたけれど、いまは智奈の意思を尊重して無理強いするようなことは云わない。それどころか配慮して、席を外していても頃合いを見計らって、その日最後の時間をきちんと接待して、そつが無い。
「もう頼んでるし」
智奈が突っこむと、シンジは可笑しそうにしたかと思うと。
「なぁんだ。まだ帰らないって言葉を期待してたのに」
と、がっかりとした様を装ってシンジはため息をついた。
「また明日も来るから」
「その『明日』って土曜日だし、休みだろう。どうせなら、昼間デートして同伴なんてどう?」
智奈は目を丸くした。
口を開きかけると、ボーイがやって来て、智奈にグラスを差しだした。さっきシンジが頼んだ、智奈お気に入りのカシスオレンジだ。礼を云いながら受けとって、シンジに向き直った。
「デートとか同伴て?」
智奈はグラスに口を付けるとカシスオレンジを含んだ。甘いのにすっきりして、アルコールの名残を洗い流すように、さっぱりとした感覚が口の中に広がる。
「べつに、デートでは智奈に驕ってもらうつもりはないよ。そこは僕がリードする。いつものお礼に、智奈に楽しんでもらいたいんだ」
「お礼なんて……わたしはここでちゃんと楽しませてもらってるよ」
「正直に云えばそうじゃなくて、智奈の普通が見たいってのもある」
「わたしの普通って?」
「だから。客じゃなく、智奈と一緒にすごしてみたいってこと。それとも、実はカレシがいるのに会えないとかで、退屈しのぎで来てる?」
「そんなことない」
カレシがいてもここに独りで来る人がいるのだ、と智奈は逆にびっくりするけれど、よくよく考えれば、男女問わず、伴侶や恋人がいても夜の街で遊ぶ人は普通にいる。
「まあ、行く行かないは別にして、遊びに行きたいところない? 例えば、遊園地とか」
「そういえば、遊園地はしばらく行ってないかも。水族館も好き。魚が泳ぐのは永遠に見ていられる感じがする」
「永遠に?」
シンジは興じつつ、関心を持った様子で首をかしげた。
「優雅で、気持ちよさそうでしょ」
「わかった、水族館に決まりだ」
シンジは指を鳴らして云い、どこがいいかな、とすぐさま具体的に都内の水族館の名をリストアップし始める。
好きだからといって智奈はそう水族館を訪れているわけではない。両親は早くから別居していて、智奈は父親と暮らした。父は仕事に追われ、あまり出かけることもなかったのだ。父と行ったのは小学生のとき、それから中学高校を飛ばして大学二年のときに一度、それが最後だ。
デートは決定事項になったのか、シンジは水族館の特徴を熱心に話す。その声に耳を傾けているうちに、智奈はぼんやりしてきた。
「ショーは好き? アシカとかイルカとか」
「んー……と、ショー……よりも、自然に、泳いで……るの、見るほ……が好き……」
智奈の答える声は間延びしている。目を瞬いたけれど少しも解消されない。眠気とは違う感覚だ。音も水中から聞いているように、こもって反響する。
智奈は軽く頭を振った。すると、俄に、はしゃぐ声でも囃し立てる声でもない、ざわつきが大きくなった。智奈は座っているのも難しく、ソファに倒れそうになったとき。
「おまえ、地獄に行きたくなければ悪さは大概にしておけ。彼女はもらっていく」
視界も音もぼやけているのに、それは妙にくっきりと智奈の耳に入った。直後、ふわりと躰が浮く。
「隙がありすぎる」
責めた口調の声がだんだんと遠くなるなか、深いため息が聞こえた。
――安心していい。とりあえず。
一定のリズムで躰が揺れて、揺りかごに寝かされたみたいな、もしくは水中を漂っているみたいな心地よさは、酔いがまわるように智奈の意識を絡めとった。
不思議そうに問う智奈に、そうだよ、と応じながら、シンジはコージを振り向いた。
「ここはもう大丈夫だ。小坂《こさか》にノンアルのカシスオレンジを頼んでくれないか」
「わかりました」
コージがうなずくと、シンジは智奈に目を戻した。
「そろそろ帰る時間だろう。締めはいつものでいい?」
智奈の帰る時間はおよそ決まっていて、最初のほうこそシンジは引きとめたけれど、いまは智奈の意思を尊重して無理強いするようなことは云わない。それどころか配慮して、席を外していても頃合いを見計らって、その日最後の時間をきちんと接待して、そつが無い。
「もう頼んでるし」
智奈が突っこむと、シンジは可笑しそうにしたかと思うと。
「なぁんだ。まだ帰らないって言葉を期待してたのに」
と、がっかりとした様を装ってシンジはため息をついた。
「また明日も来るから」
「その『明日』って土曜日だし、休みだろう。どうせなら、昼間デートして同伴なんてどう?」
智奈は目を丸くした。
口を開きかけると、ボーイがやって来て、智奈にグラスを差しだした。さっきシンジが頼んだ、智奈お気に入りのカシスオレンジだ。礼を云いながら受けとって、シンジに向き直った。
「デートとか同伴て?」
智奈はグラスに口を付けるとカシスオレンジを含んだ。甘いのにすっきりして、アルコールの名残を洗い流すように、さっぱりとした感覚が口の中に広がる。
「べつに、デートでは智奈に驕ってもらうつもりはないよ。そこは僕がリードする。いつものお礼に、智奈に楽しんでもらいたいんだ」
「お礼なんて……わたしはここでちゃんと楽しませてもらってるよ」
「正直に云えばそうじゃなくて、智奈の普通が見たいってのもある」
「わたしの普通って?」
「だから。客じゃなく、智奈と一緒にすごしてみたいってこと。それとも、実はカレシがいるのに会えないとかで、退屈しのぎで来てる?」
「そんなことない」
カレシがいてもここに独りで来る人がいるのだ、と智奈は逆にびっくりするけれど、よくよく考えれば、男女問わず、伴侶や恋人がいても夜の街で遊ぶ人は普通にいる。
「まあ、行く行かないは別にして、遊びに行きたいところない? 例えば、遊園地とか」
「そういえば、遊園地はしばらく行ってないかも。水族館も好き。魚が泳ぐのは永遠に見ていられる感じがする」
「永遠に?」
シンジは興じつつ、関心を持った様子で首をかしげた。
「優雅で、気持ちよさそうでしょ」
「わかった、水族館に決まりだ」
シンジは指を鳴らして云い、どこがいいかな、とすぐさま具体的に都内の水族館の名をリストアップし始める。
好きだからといって智奈はそう水族館を訪れているわけではない。両親は早くから別居していて、智奈は父親と暮らした。父は仕事に追われ、あまり出かけることもなかったのだ。父と行ったのは小学生のとき、それから中学高校を飛ばして大学二年のときに一度、それが最後だ。
デートは決定事項になったのか、シンジは水族館の特徴を熱心に話す。その声に耳を傾けているうちに、智奈はぼんやりしてきた。
「ショーは好き? アシカとかイルカとか」
「んー……と、ショー……よりも、自然に、泳いで……るの、見るほ……が好き……」
智奈の答える声は間延びしている。目を瞬いたけれど少しも解消されない。眠気とは違う感覚だ。音も水中から聞いているように、こもって反響する。
智奈は軽く頭を振った。すると、俄に、はしゃぐ声でも囃し立てる声でもない、ざわつきが大きくなった。智奈は座っているのも難しく、ソファに倒れそうになったとき。
「おまえ、地獄に行きたくなければ悪さは大概にしておけ。彼女はもらっていく」
視界も音もぼやけているのに、それは妙にくっきりと智奈の耳に入った。直後、ふわりと躰が浮く。
「隙がありすぎる」
責めた口調の声がだんだんと遠くなるなか、深いため息が聞こえた。
――安心していい。とりあえず。
一定のリズムで躰が揺れて、揺りかごに寝かされたみたいな、もしくは水中を漂っているみたいな心地よさは、酔いがまわるように智奈の意識を絡めとった。
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