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結末の章
画家の名前を呼んでみて
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要真が普段使っているというアトリエを覗き、「あのクラセに、恋人⁉︎」と他の学生に驚かれてから早数時間。真静と要真の二人は、真静の滞在先であるホテルのレストランにいた。真静の滞在先は、要真が予想もしなかったような高級ホテルで、フロントやエントランスの豪華な金装飾が目を引く。セレブ御用達のホテルに違いない。
「その……結構豪華なところに泊まるんだね。来る服装を間違えたなあ」
思わずそんなことを言うと、真静は困ったように笑って事情を語った。
「実はフランスに来る前、倉瀬さんがどこにいるのかをお兄さんに伺いに行ったのです。そしたら、教えてくださったばかりかホテルの確保までしてくださって……。私の兄が死に物狂いで渡航を止めなかったのは、正啓さんが家族を説得してあらゆる安全を保障してくださったからなんです」
「……正啓さん?」
兄が真静の渡航を手伝った事は、まあ驚きはするが不可解なことではない。しかし、このことには、呼び方だけには、据わった目で声を低くせざるを得なかった。
「兄のこと、そう呼んでいるの?」
「はい。『俺にも正啓って名前があるんだよ、真静ちゃん』と言われてしまったので、流れで名前呼びになりました」
「……ふうん。それならさ」
要真が身を乗り出し、グラスに伸ばされた真静の手を取った。その目は楽しげで、心なしか熱っぽい。
「俺のことも、名前で呼べるよね?」
「へっ?」
真静の目が、自分の手と要真の目をしきりに行き来する。突然の接触、そして突然の要求に軽くパニック状態なのだ。
「な、え? 倉瀬さんを、ですか⁉︎」
「そんなに動揺することかなあ? 俺の兄を名前で呼んだのだから、俺のことだって名前で呼んでよ。俺たち、晴れて恋人同士になったわけでしょう? 俺にだって、君に呼ばれるべき名前がある」
「そんっ無理です無理です! 倉瀬さんは倉瀬さんで、名前呼びなんてそんなことできません!」
どんなに倉瀬要真という存在が真静の日常に馴染んでいても、彼が真静の憧れであることに変わりはない。それも、愛称で呼ぶなど恐れ多い、もはや崇拝ともいえるほどだ。故に、如何に恋人といえども、名前で呼ぶなどすんなり受け入れられることではないのである。
「倉瀬さんのままではいけませんか? お願いです」
「こればっかりは譲れないなあ。あ、まさか俺の名前を忘れたとか?」
「そんなわけないでしょう! 自分の名前よりもはっきり覚えています!」
「いや、それは流石に……。でも、それなら尚更名前で呼んでほしい。大切な人に名前で呼ばれたら、とても誇らしくて嬉しいに違いないから」
ね? とお決まりの無邪気な笑みを浮かべた要真には、相も変わらず真静は敵わなかった。視線を多方面に彷徨わせ、要真が決して譲らない目をしているのを認めて肩を落とす。
「ええと…………」
どんなに頼まれても、できないものはできない。もうこうなったら、名前を忘れたことにした方がずっと楽なのでは、
「真静、誰よりもなによりも君を愛してる。だから、兄だけが君に親しげに呼ばれているのが嫌なんだ。……頼むよ」
「っ」
真静の手を握る力を少しだけ強めた彼の真剣な瞳に束の間息を飲んだ真静は、しかし彼の瞳に誘われるように、ぽろりとそれを口にしていた。
「…………いるま、さん」
擦れる声で呟いたそれを聞いた時の彼の顔は、真静の一生の記憶となるだろう。それほどに、彼は最上の幸福と言わんばかりに輝く笑みを浮かべ、真静を見つめた。そしてその瞳は真静のみを映し、そこには純粋で底無しの愛情が溢れていた。
「ありがとう、すごく嬉しい。やっぱり君は、俺の天使だ」
「お、大袈裟です……」
「大袈裟なものか。こんなに幸せな気持ちになったのは久しぶりだよ。今すぐ君をここから連れ出したいくらいだ。もう夕食もいらない」
早く二人になりたい、と熱っぽく言い、握っていた真静の手に軽く口付ける。それでも彼は、真静のためにと結局食事は摂った。もっとも、食事が運ばれてから食べ終わるまで彼の愛に満ちた視線に晒された真静は、高級ディナーの味も良くわからぬままに食事を終えたのだが。
その夜、真静の部屋を要真が訪れ一夜を過ごしたのだが……
「ねえ真静、もう一回呼んでよ、名前」
「もう無理です! 明日もあるのですから、早く寝てください!」
「君がもう一回、俺の名前を読んでくれたらね。それまでは寝かせないよ?」
このようなやりとりをベッドの端に座って延々と繰り返し、翌日は揃って寝不足だったとか。
「その……結構豪華なところに泊まるんだね。来る服装を間違えたなあ」
思わずそんなことを言うと、真静は困ったように笑って事情を語った。
「実はフランスに来る前、倉瀬さんがどこにいるのかをお兄さんに伺いに行ったのです。そしたら、教えてくださったばかりかホテルの確保までしてくださって……。私の兄が死に物狂いで渡航を止めなかったのは、正啓さんが家族を説得してあらゆる安全を保障してくださったからなんです」
「……正啓さん?」
兄が真静の渡航を手伝った事は、まあ驚きはするが不可解なことではない。しかし、このことには、呼び方だけには、据わった目で声を低くせざるを得なかった。
「兄のこと、そう呼んでいるの?」
「はい。『俺にも正啓って名前があるんだよ、真静ちゃん』と言われてしまったので、流れで名前呼びになりました」
「……ふうん。それならさ」
要真が身を乗り出し、グラスに伸ばされた真静の手を取った。その目は楽しげで、心なしか熱っぽい。
「俺のことも、名前で呼べるよね?」
「へっ?」
真静の目が、自分の手と要真の目をしきりに行き来する。突然の接触、そして突然の要求に軽くパニック状態なのだ。
「な、え? 倉瀬さんを、ですか⁉︎」
「そんなに動揺することかなあ? 俺の兄を名前で呼んだのだから、俺のことだって名前で呼んでよ。俺たち、晴れて恋人同士になったわけでしょう? 俺にだって、君に呼ばれるべき名前がある」
「そんっ無理です無理です! 倉瀬さんは倉瀬さんで、名前呼びなんてそんなことできません!」
どんなに倉瀬要真という存在が真静の日常に馴染んでいても、彼が真静の憧れであることに変わりはない。それも、愛称で呼ぶなど恐れ多い、もはや崇拝ともいえるほどだ。故に、如何に恋人といえども、名前で呼ぶなどすんなり受け入れられることではないのである。
「倉瀬さんのままではいけませんか? お願いです」
「こればっかりは譲れないなあ。あ、まさか俺の名前を忘れたとか?」
「そんなわけないでしょう! 自分の名前よりもはっきり覚えています!」
「いや、それは流石に……。でも、それなら尚更名前で呼んでほしい。大切な人に名前で呼ばれたら、とても誇らしくて嬉しいに違いないから」
ね? とお決まりの無邪気な笑みを浮かべた要真には、相も変わらず真静は敵わなかった。視線を多方面に彷徨わせ、要真が決して譲らない目をしているのを認めて肩を落とす。
「ええと…………」
どんなに頼まれても、できないものはできない。もうこうなったら、名前を忘れたことにした方がずっと楽なのでは、
「真静、誰よりもなによりも君を愛してる。だから、兄だけが君に親しげに呼ばれているのが嫌なんだ。……頼むよ」
「っ」
真静の手を握る力を少しだけ強めた彼の真剣な瞳に束の間息を飲んだ真静は、しかし彼の瞳に誘われるように、ぽろりとそれを口にしていた。
「…………いるま、さん」
擦れる声で呟いたそれを聞いた時の彼の顔は、真静の一生の記憶となるだろう。それほどに、彼は最上の幸福と言わんばかりに輝く笑みを浮かべ、真静を見つめた。そしてその瞳は真静のみを映し、そこには純粋で底無しの愛情が溢れていた。
「ありがとう、すごく嬉しい。やっぱり君は、俺の天使だ」
「お、大袈裟です……」
「大袈裟なものか。こんなに幸せな気持ちになったのは久しぶりだよ。今すぐ君をここから連れ出したいくらいだ。もう夕食もいらない」
早く二人になりたい、と熱っぽく言い、握っていた真静の手に軽く口付ける。それでも彼は、真静のためにと結局食事は摂った。もっとも、食事が運ばれてから食べ終わるまで彼の愛に満ちた視線に晒された真静は、高級ディナーの味も良くわからぬままに食事を終えたのだが。
その夜、真静の部屋を要真が訪れ一夜を過ごしたのだが……
「ねえ真静、もう一回呼んでよ、名前」
「もう無理です! 明日もあるのですから、早く寝てください!」
「君がもう一回、俺の名前を読んでくれたらね。それまでは寝かせないよ?」
このようなやりとりをベッドの端に座って延々と繰り返し、翌日は揃って寝不足だったとか。
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