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誓約の章
画家の兄は共鳴する
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「はあぁ……」
人生に絶望したかのような深いため息が、日中の暖かな日差しの下に放たれた。駅前にある洒落たカフェのテラス席で項垂れているのは、妹を男に盗られ、兄に色々と釘を刺された美女だ。
「真静~」
名前を呼んだところで、妹が現れることはない。今この瞬間も、彼女は男の家で遊んでいるからだ。いや、この言い方だと妹の名誉に傷がつくか。
兄からは「今後は下手に二人の邪魔をするな」と、先刻絶対零度の眼差しで言われた。あの兄に逆らえない程度には、柚依は自分がかわいい。
「もうっもうっ!」
やりどころのない苛立ちで、ケーキにフォークを突き刺す。もうこれで三個目だ。流石に食べ過ぎな気がするが、やけになっている柚依は、食べることをやめようとはしなかった。
ケーキを口に入れ、今一度深くため息をついた、その時だった。
「大丈夫ですか?」
席の正面に立った男性に声をかけられ、柚依は危うくケーキを喉に詰まらせそうになった。
「んんっ」
男性は胸を叩き悶える柚依の背中を、優しくさすってくれた。
しばらくの後、柚依が落ち着いたのを見計らい、男性が柚依の脇にしゃがんだ。
「大丈夫ですか?」
「は、はい、ありがとうござい、」
男性に目を向けた柚依が言葉を失ったのは、柔らかな微笑みを浮かべる男性が、あまりに綺麗な顔立ちだったからだ。どこかで見たような顔だが。
男性も柚依と目があった途端、驚いた表情をした。
「あ、あの、ありがとうございました」
「ああ、いや、大したことではありません。……何かに悩んでいるようでしたが、どうしました?」
「……実は、少し落ち込むことがあったので……」
「少しではなさそうでしたよ? よければ、私に話してみてください」
「そんなことできません。お忙しいでしょうし……」
彼が着ているのは上等なスーツだ。きっと大手企業に勤める社会人に違いない。と、忘れていたが、柚依は来年度には就活をしなければならないのだった。嫌なことを思い出してしまったものだ。
「今日は少し仕事に駆り出されただけで、本来は休日ですから、何もありませんよ。もう暇です」
「そうなんですか?」
「ええ。ですから、話を聞かせてくださ
い」
ぎこちなく再開したやりとりは、完全に男性のペースで進み、柚依は自然と今日の出来事を語っていた。もちろん、詳細はだいぶぼかしたが。
「なるほど、それは悩みますね」
向かいの席に収まり、頷きながら耳を傾けていた男性は、柚依の話に予想外の共感を示した。自分のことのように表情を暗くしている。
「実は私にも弟がいまして、あの子が最近女性との交際に熱心なんです。そうなると、兄としては心配やら喪失感やらが湧いてきて……」
「わかりますっ。心配で心配で仕方なくて、こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、相手をしてくれなくなる感じがして、とても寂しいんですよね」
「まさにその通りです! でも弟は兄の心境に気がついているのかいないのか、少しもこちらを見ようとしないのです」
「それは本当に寂しいですね……」
思いがけず出会った共鳴者達は、その後数時間、カフェで延々と語り合ったとか。
結局二人が別れたのは、日がもう少しで沈もうとしているような時間だった。
「そろそろ帰らないと」
思いがけず長話をした、と柚依が慌てて荷物をまとめ始めると、男性が「少し失礼」とだけ言って席を立ち、店内に消えてからすぐに戻ってきた。彼の手にはケーキの箱……大方弟のために買ったのだろう。いい兄だ。
「お待たせ。せっかくですし、駅まで送ります」
「そんな、駅は近いですから、わざわざそこまでしていただかなくても……」
「私が送りたいだけです。さあ、行きましょう」
「あ、あの、でもまだお会計が」
そう言ってテーブルに目を移すが、どこにも伝票がない。先程までは確かにあったのだが。
もしやと思い、彼を見上げれば、彼はいたずらっぽく笑った。
「割り勘で、と言われても聞きませんからね」
「今日知り合った方に奢っていただくなんてできません! 自分の分は自分で、」
「あ、混んできたみたいですし、早く行きましょう」
「話を逸らさないでくださいます!?」
柚依が声を張っても、彼は全く意に介さず、「早く早く」と強引に柚依を連れ出した。彼女の手を取って。
「あ、そういえばまだ名前を聞いていませんでしたね」
「ええ、たしかに。それよりもまず手を」
「名前を教えてもらってもいいですか?」
「佐成柚依です。あの、早く手を」
「佐成?」
名前を聞くなり、男性の目が柚依をじっと見つめた。何かを探るような目に、柚依は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「……いや、どうりで美人な訳だと、納得しただけです。私は正啓(まさひら)です。次に会う時まで、覚えていてくださいね」
「次……?」
「必ず、また会いますから。どんな形でも、ね」
「それは一体……」
答えが欲しい柚依だったが、気がつけばはやくも駅に着き、そのまま男性——正啓に見送られてしまった。
流されるまま改札を通り、改札越しに正啓を見つめる。
「また、会いましょう」
彼が言ったことを自分も口にしてみると、彼は嬉しそうに目を細めた。その表情に胸が高鳴る。
まさかね、と自分の感情を見ないふりをしながら、柚依は階段を下っていった。
二人の再会は、思いがけずやってくる。
人生に絶望したかのような深いため息が、日中の暖かな日差しの下に放たれた。駅前にある洒落たカフェのテラス席で項垂れているのは、妹を男に盗られ、兄に色々と釘を刺された美女だ。
「真静~」
名前を呼んだところで、妹が現れることはない。今この瞬間も、彼女は男の家で遊んでいるからだ。いや、この言い方だと妹の名誉に傷がつくか。
兄からは「今後は下手に二人の邪魔をするな」と、先刻絶対零度の眼差しで言われた。あの兄に逆らえない程度には、柚依は自分がかわいい。
「もうっもうっ!」
やりどころのない苛立ちで、ケーキにフォークを突き刺す。もうこれで三個目だ。流石に食べ過ぎな気がするが、やけになっている柚依は、食べることをやめようとはしなかった。
ケーキを口に入れ、今一度深くため息をついた、その時だった。
「大丈夫ですか?」
席の正面に立った男性に声をかけられ、柚依は危うくケーキを喉に詰まらせそうになった。
「んんっ」
男性は胸を叩き悶える柚依の背中を、優しくさすってくれた。
しばらくの後、柚依が落ち着いたのを見計らい、男性が柚依の脇にしゃがんだ。
「大丈夫ですか?」
「は、はい、ありがとうござい、」
男性に目を向けた柚依が言葉を失ったのは、柔らかな微笑みを浮かべる男性が、あまりに綺麗な顔立ちだったからだ。どこかで見たような顔だが。
男性も柚依と目があった途端、驚いた表情をした。
「あ、あの、ありがとうございました」
「ああ、いや、大したことではありません。……何かに悩んでいるようでしたが、どうしました?」
「……実は、少し落ち込むことがあったので……」
「少しではなさそうでしたよ? よければ、私に話してみてください」
「そんなことできません。お忙しいでしょうし……」
彼が着ているのは上等なスーツだ。きっと大手企業に勤める社会人に違いない。と、忘れていたが、柚依は来年度には就活をしなければならないのだった。嫌なことを思い出してしまったものだ。
「今日は少し仕事に駆り出されただけで、本来は休日ですから、何もありませんよ。もう暇です」
「そうなんですか?」
「ええ。ですから、話を聞かせてくださ
い」
ぎこちなく再開したやりとりは、完全に男性のペースで進み、柚依は自然と今日の出来事を語っていた。もちろん、詳細はだいぶぼかしたが。
「なるほど、それは悩みますね」
向かいの席に収まり、頷きながら耳を傾けていた男性は、柚依の話に予想外の共感を示した。自分のことのように表情を暗くしている。
「実は私にも弟がいまして、あの子が最近女性との交際に熱心なんです。そうなると、兄としては心配やら喪失感やらが湧いてきて……」
「わかりますっ。心配で心配で仕方なくて、こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、相手をしてくれなくなる感じがして、とても寂しいんですよね」
「まさにその通りです! でも弟は兄の心境に気がついているのかいないのか、少しもこちらを見ようとしないのです」
「それは本当に寂しいですね……」
思いがけず出会った共鳴者達は、その後数時間、カフェで延々と語り合ったとか。
結局二人が別れたのは、日がもう少しで沈もうとしているような時間だった。
「そろそろ帰らないと」
思いがけず長話をした、と柚依が慌てて荷物をまとめ始めると、男性が「少し失礼」とだけ言って席を立ち、店内に消えてからすぐに戻ってきた。彼の手にはケーキの箱……大方弟のために買ったのだろう。いい兄だ。
「お待たせ。せっかくですし、駅まで送ります」
「そんな、駅は近いですから、わざわざそこまでしていただかなくても……」
「私が送りたいだけです。さあ、行きましょう」
「あ、あの、でもまだお会計が」
そう言ってテーブルに目を移すが、どこにも伝票がない。先程までは確かにあったのだが。
もしやと思い、彼を見上げれば、彼はいたずらっぽく笑った。
「割り勘で、と言われても聞きませんからね」
「今日知り合った方に奢っていただくなんてできません! 自分の分は自分で、」
「あ、混んできたみたいですし、早く行きましょう」
「話を逸らさないでくださいます!?」
柚依が声を張っても、彼は全く意に介さず、「早く早く」と強引に柚依を連れ出した。彼女の手を取って。
「あ、そういえばまだ名前を聞いていませんでしたね」
「ええ、たしかに。それよりもまず手を」
「名前を教えてもらってもいいですか?」
「佐成柚依です。あの、早く手を」
「佐成?」
名前を聞くなり、男性の目が柚依をじっと見つめた。何かを探るような目に、柚依は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「……いや、どうりで美人な訳だと、納得しただけです。私は正啓(まさひら)です。次に会う時まで、覚えていてくださいね」
「次……?」
「必ず、また会いますから。どんな形でも、ね」
「それは一体……」
答えが欲しい柚依だったが、気がつけばはやくも駅に着き、そのまま男性——正啓に見送られてしまった。
流されるまま改札を通り、改札越しに正啓を見つめる。
「また、会いましょう」
彼が言ったことを自分も口にしてみると、彼は嬉しそうに目を細めた。その表情に胸が高鳴る。
まさかね、と自分の感情を見ないふりをしながら、柚依は階段を下っていった。
二人の再会は、思いがけずやってくる。
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