画家と天使の溺愛生活

秋草

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攻防の章

天使は誘われる

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 部屋が明るく照らされた瞬間、真静の目に飛び込んできたのは、他の何者でもない、暮坂颯人の作品たちだった。
 所狭しと並べられ、外に出る時を待ちわびた絵画達は、真静と目が会うなり自分の世界への扉を全開にする。
 展示会のように整然と並べられているわけではないせいか、意識が多方面に飛び、最初に観る一枚が定まらない。
「こ、これは、全て暮坂颯人さんとしての作品ですか……?」
 胸の前で右手を握り、絵に目を奪われたまま要真に問う。そうして返ってきたのは、要真の穏やかな声だ。
「そうだよ。ここに暮坂以外のものはない。……どうぞ、自由に見て」
 その言葉を無意識に欲していたのだろう。「自由に見て」と言われるや否や、真静はお礼も忘れて絵に歩み寄った。まずはその時点で目が合っていた絵からだ。その次はその隣、それを見終えればまたその隣……と観ていくうちに、布がかけられた絵の存在に気がついた。布で隠された数枚の絵は、他の絵の後ろにひっそりと並べられている。誰にも見せたくない、というように。
「暮坂さん、あの絵は一体……?」
「ああ、あれは……」
 突如口ごもった要真——いや、暮坂颯人に、真静の期待に満ちた目が向けられる。あわよくば見せてもらえないかと思うのが図々しいことは、もちろん真静も承知の上だが。
 真静の視線を受けた彼はバツが悪そうにため息をつき、苦笑いを浮かべた。
「ごめん。さっきの言葉は嘘でね、ここには数枚、暮坂颯人のものでない絵も置いてあるんだ。布がかかっているのがそれだよ」
「どのような絵なのですか?」
「俺の趣味の塊、ってところかな。あれはちょっと、見せられない。ごめんね」
「そう、ですか……」
 落ち込んでは彼に面倒だと思われてしまう。そう思いながらも、真静は落胆の色を隠せなかった。
「……でも」
 あからさまにしょんぼりしてしまった真静を前に、彼は少しの間をおいてから切り出した。彼を見上げた真静の目を、真剣な眼差しで見つめながら。
「いつかは、佐成さんにも見せるよ」
「いつか……」
「うん。佐成さんがもし……」
 そこまで言い、彼ははっとした顔で言葉を飲み込んでしまう。自分が言おうとしていたことが、自分でも信じられないような顔だ。
「もし……?」
 真静が先を尋ねても、彼は戸惑いを隠せない微笑みを浮かべて首を振った。
「なんでもない。それよりも、佐成さん」
 くるりと踵を返し、あるイーゼルまで歩み寄る。そして、そこに置かれた書きかけの絵の縁に手を乗せた。
「これの制作を手伝ってくれるかな?」
「制作を?」
 はて、と言葉の真意を掴みかねた真静が首を傾げた。モデルになる必要がありそうな絵ではないし、手伝う要素は皆無のように真静には見えるのだ。
 真静が答えを見出せないでいると、彼はいつものように愉しげな微笑みを浮かべた。
「そんな悩むことはないよ。手伝いといっても、佐成さんには座っていてもらえればいいから」
「座っているだけ、ですか? モデルが必要な絵には見えないような……」
「モデルではなくて、単に俺が絵を描くのを見守っていてほしいんだ」
「み、見守る?」
 制作協力、と言われて、その内容が「見守る役」というのは聞いたことがない。
「最近何故か集中できなくてね。だから佐成さんには、俺が集中できるようそばにいてほしい」
「……」
 それは恋人に頼む類のものではないだろうか。
「退屈になったらリビングに行ってもいいから、とにかく家にいてくれないかな?」
 ね、と眩しいくらいの笑顔で願われては、真静には拒否することなどできない。いつものことだ。
「分かりました、側で拝見します」
 突然のことに戸惑いはしたが、改めて考えればこれほど名誉……ありがたいことはない。暮坂颯人の絵が出来上がるまでを、隣で見られるのだから。
 そうと決まれば、自然気分は高揚した。彼の隣に用意された椅子に腰掛け、彼が道具の準備をするのをしばし見守る。そして、彼がキャンバスと向き合い筆を取ってからは、真静の全ては絵の世界に吸い込まれていった。


*****


 絵の世界に没頭し、ふと気が付いた時には、腕時計は一時過ぎを指していた。
 昼食の存在が頭をよぎり、お腹が鳴りそうになる。
 絵と向き合っている暮坂颯人は、描き始めに言っていたことが嘘ではないのかと思うほどに集中している。声をかけるのはやめた方が良いだろう。
 何か買ってこようとそっと席を立ち、アトリエの扉に手をかける。と、夢から覚めた直後のようなぼんやりした声が真静を呼び止めた。
「どこか行くの?」
「あっ、お昼も過ぎたので、お昼ご飯を買いに。すみません、せっかく集中していらしたのに」
「いや、少し肩が凝ってきていたから、ちょうどいいよ。俺も一緒に買いに行っていい?」
 軽く肩を回し、気だるそうに腰を上げた彼は、まだどこか呆けた顔だ。
「暮さ、倉瀬さんの分も買ってきますから、休んでいてください」
「佐成さんと買い物をしたいんだ」
 さ、行こう行こう。そう言って真静の手を取る。そしてそのまま玄関に向かおうとした彼を、真静は慌てて呼び止めた。
「ああの、倉瀬さん! バッグを取りたいのですが」
「バッグ?」
 足を止めた要真が不思議そうに真静を見つめた。
「何か必要だっけ?」
「お財布を持たないとお買い物もできません」
「ああ、そんなことか」
 それだけ行って再び玄関に向かう。
「え、あの、倉瀬さん?」
「何食べようか」
「えと、希望は特にありません」
「それじゃあ……」
 家で食べるか、外で食べるか、という選択肢を投げてきた要真のペースに、真静はすっかり乗せられてしまう。
 毎回流されるなあ、と思いながら、今後も抗えないだろうと薄々感じた真静だった。


*****


 結局、お昼をイタリアンレストランで済ませた二人は、スーパーで買い物をしてから帰宅した。
「すみません、いつもご馳走になってしまって」
「いつも俺に付き合ってもらってるんだから当然だよ。それに、今日は俺のお願いを聞いてもらうしね」
 要真のお願い、とは、夕飯を真静が作ること、である。真静と一緒に真静お手製の夕食を食べたい、とレストランで要真が意気込んで言ったのだ。
 真静の帰宅は、母の好意で十一時までにすれば良いこととなっている。要真が真静を安心して送れるよう、姉と兄を連れて夢の国に行ってくれているらしい。先程連絡した時には、姉も兄も妹の心配を忘れてはしゃいでいると話していた。
「倉瀬さんと夜ご飯もご一緒できるのですから、私の方が有難いくらいです」
「そう言ってもらえるのは光栄だな。あとは……」
 不安そうに、というより面倒そうに、彼は何かを言いかけ「まあ、大丈夫か」と自己完結させた。あまり表情が晴れないあたり、もしかしたら何かを予感しているのかもしれない。

 そしてそんな、なければ良いと思うような予感は、不幸にも的中するものだ。


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