画家と天使の溺愛生活

秋草

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攻防の章

天使は惑う

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「名前、覚えていてくれたんですね。感動しました」
 以前と変わらぬ口調の伊澄悠貴だが、格好は以前と少しだけ異なっていた。
「は、袴、ですか」
 目に入るなり思わず口に出すと、彼との距離が離れた。
「はい。普段は着物なのですが、今日は用事があるので袴なんです」
 どうでしょう、と悠貴に意見を求められた真静の口元には、少しの間があってから笑みが浮かんだ。
「よくお似合いです。流石ですね」
「……そうですか、よかった。実はこの袴と着物は、昨日仕立て終わった物でして。いまいち自分に合うか分からなかったのです」
「そうでしたか。でも……伊澄さんはグレー系がよく似合うと思います。以前お見かけした折にもねずみ色の着物をお召しでしたけれど、もしかしてそういった色がお好きなのですか?」
 何気ない会話のつもりで、少し気になったことを訊いてみると、彼は意外そうに目を丸くしていた。
「僕の格好なんか覚えていたのですか? 今までの二回とも?」
「え、はい。それはもう、珍しい方だと思っていたので……」
「だからって色まで覚えているものでしょうか。ふうん……やっぱり面白い」
 瞳の奥に妖しい光を宿した彼をそれ以上直視できず、ふいっ、と顔をそらす。と、その時鳴動したスマホに目を落とすと、彼からのメッセージが届いていた。
『電車が事故で止まってしてしまっているから、どれくらいか分からないけど遅れます。本当にごめん。どこか暖かいところで待っていてくれるかな?』
「事故……」
 早めの行動を常に心がける彼が遅れるとは、余程の大事故なのだろう。
「どうかしましたか、真静さん?」
 真静がスマホに気を取られている間に真静の隣に腰掛けていた悠貴が、彼女の表情から連絡内容を察したのか、少し期待するような目を真静に向けた。
「あ、事故があったみたいで、その、今日待ち合わせていた人が遅れるらしいのです……」
「待ち合わせていた人? もしかして、それは倉瀬要真のこと?」
「は、はい」
 なぜ分かるのか、と真静が目を丸くすれば、彼はニヤリと口元を歪めた。
「今の落胆ぶりを見れば分かりますよ。それに、メッセージを読んだだけで頰が赤くなっていますし」
「えっ、そ、そうですか?」
 しまった、浮かれぶりが無意識に顔に出ていたらしい。そう思い至ると、今朝の怪奇現象にも納得がいった。もしかしたら、昨日兄と姉の前で無意識に浮かれていたが故に二人に勘付かれたのかもしれない。
 悠貴から目を逸らし、思わぬ失態に頰の熱を高めていると、彼に顔を覗き込まれた。
「ねえ真静さん、まだ待ち合わせまで時間があるなら、少し暇つぶしに付き合ってもらえますか?」
「暇つぶし、ですか?」
 そういえば、彼は用事があると言っていたはずだ。それなのにこんなところで真静と話し込んでいるということは、彼も何か予定がずれる事態に陥っているのだろうか。
「実は、今日入っている予定が一時間ずれてしまいまして。今まさにとても暇な状況なんです。だから、三十分でも一緒にお茶を飲んでくれるとありがたいなと」
「え、えっと……」
 真静の心を見透かしたような台詞に言葉が出ない。
 彼は真静の返事を期待していないらしく、腰をあげるなり手を差し出した。
「どのみち、外だと冷えます。カフェで温まりましょう」
 そう言われては、誘いを無下にはできない。
 真静は少し躊躇ったものの、結局悠貴の手を取り立ち上がった。寒空の下で冷え気味だった手に悠貴の手の温かさが沁みる。
 彼は真静をエスコートし、駅前の喫茶店に入店した。
 袴を着こなす美青年はやはり目立つらしく方々から好奇の目を向けられるが、彼は気にしていないようだ。
「さて、飲み物はどれがいいですか?」
 開いたメニューを真静の方に向け、彼女に微笑みかける。真静はその視線から逃れるようにメニューに目を落とし、しばらく悩んでから無難なものに決めた。
「アールグレイにします」
「ホットでいいですか?」
「はい」
 真静の希望を聴き終わり、店員を呼んだ悠貴は、真静のために紅茶を、自分のためにはカフェラテを頼んだ。
「すみません、ありがとうございます」
 注文を代行してもらったお礼を真静が言えば、彼は笑みを深めて頭を振った。
「そんな、お礼をされるようなことはしていませんよ。……ところで」
 そう切り出した悠貴の目が、スッと鋭く光った。口元には相変わらずの微笑みが浮かんでいるのだが。
「真静さんと倉瀬要真は、どのような関係なんです?」
「ど、どのようなって、それはもちろん……」
 画家とファンの関係、と言いかけ口を噤む。
 要真が暮坂颯人であることは秘密、ならば画家とファンの……と言うのは避けるべきだろう。
「ええと、恐れ多いのですが、友人、です」
 つい「恐れ多い」と一言余計についてしまった。これではあまりに不自然だったかもしれない。
 案の定彼は怪訝な顔でこちらを見つめている。
「恐れ多いって……友人には持たない感情ですよね、普通」
「ええと……以前倉瀬さんの絵を高校の美術展で拝見したとき、絵に一目惚れしてしまって……それからファンとして、お側に置いていただいています」
 これならば嘘ではない。そしてフォローもできたはずだ。
 どうだ、と悠貴の様子を伺うと、彼は意味深な笑みを浮かべていた。
「ファン、ねえ」
「な、なんですか」
「いえ、それにしては……と思っただけです」
 それにしては何だ、と問い質そうとしたが、そのタイミングで注文の品が運ばれ、結局その流れで話は悠貴のペースで進んでしまった。自分の家のことや気候の話、そして、真静への猛アプローチ。さらには真静のことについてもあれこれと訊かれ、真静から話を進めることは最後まで一度もなかった。悠貴の話術が巧みなため、真静は少しも飽きず会話ができており不満は何もなかったが。
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