記憶の先に復讐を

秋草

文字の大きさ
上 下
9 / 28
第一章

王子の心

しおりを挟む
 定時間近のアドレイを引き留め戯れることも忘れて執務に集中した結果、日が完全には沈まないうちに私は執務室を出ることとなった。そしてその足は、迷いなく彼女の元へと向かっている。

「……フィリア、起きているか?」

 扉を叩き返事を待つも、何も言葉が返ってこない。寝ている、のだろうか。

「入るぞ」

 一応もう一度声をかけてからゆっくりと開ける。その瞬間、部屋の奥から涼しい風が流れてきた。
 部屋の、バルコニーに通じるガラス扉が開いている。ベッドには……彼女はいない。

「っ、フィリア!」

 嘘だろう、まさかバルコニーから……!
 何かを考える前にガラス扉に駆け寄る。そうして見つけたのは、バルコニーの手すりの上に立ち空を見上げる少女の姿だった。

「フィリア、何をしている!」
「——殿下」

 緩慢な動きでこちらに目を移した彼女の目にあったものは、空に輝き始めた星を愛でていた者の安らぎではない。記憶をなくした者の憂いでもない。ただただ暗い激情の色だ。

「どうしかした、のか?」
「……私は」

 私から離れた視線が再び空に向く。そして紡がれた言葉は、心なしか震えていた。

「私は、何を忘れたのでしょうか。貴方は私のことを恋人だと、忘れているのは幸せな日々だと仰る。でも……この空を、紅く燃える空を見ているだけで胸が苦しくなるのです。消えた記憶は明るいものではなく、何かとても大切で暗いものなのではないかと、そう思えてならないのです」

 空に向いた目が私に戻り、羽のような軽さで手すりから飛び降りる。私の前に立ち私を見上げる彼女の姿は、フィリアの生き写しのようでたしかに別人だった。

「殿下、私は本当にフィリアという名なのですか? 貴方の、恋人なのでしょうか?」
「それ、は」

 やはり、偽りきれるものではない。フィリアが還ってくるなど、ありえないのだ。

「ああ……君が察している通り、君はフィリアではない。君のことは偶然見つけてね、あまりに私の恋人に似ていたから思わず連れ帰ってしまったのだ。……嘘をついてすまなかった」
「そうでしたか」

 そう言った彼女は目を伏せ、流れるような動きでカーテシーをした。

「命を救ってくださったこと、改めて感謝いたします。そして、貴方様の想いの深さに敬意を」
「怒らないのか? 君を騙したというのに」
「貴方様の嘘は、フィリア様への深い愛情から来たものなのでしょう? 愛する者の姿を他に重ね、喪失感を紛らわそうとする……そのことに、なぜかとても共感してしまうのです。ですから、私には『騙された』などと憤ることはできません。もしかしたら私も、喪った人がいたら同じことをしてしまうかもしれませんから」

 記憶はない。彼女はそう言っていたが、片隅には記憶の欠片があるのかもしれない。その証拠に、今の彼女は何かに想いを馳せるように優しい微笑みを浮かべている。それは、そう、フィリアが私に向けてくれたような、愛する者を想う笑顔だった。

「君にも、かけがえのない存在がいるのか」
「ええ、きっと。何も思い出せませんが、いつかは必ず取り戻します」
「そうか。ならば私は、君の記憶が戻るまで見守るとしよう。行くあてがなければここにいればいいし、君のことは仮の名で呼ぼう。どうだ?」
「大変恐れ多いとは存じますが、お言葉に甘えさせていただきます。記憶が戻るまでの暫しの間、お世話になります」

 ここにいない「誰か」に向けられていた笑みは消え、代わりに自然な微笑みが口元に浮かぶ。
 ああ、なんて美しい人だろう。もし、もしもだが、彼女が記憶を取り戻すことなく時が過ぎていけば、そのうちに私に振り向いてはくれないだろうか。そうすれば私は、ずっとフィリアの幻想に浸っていられるのではないか。
 彼女とフィリアは別人だと認識した頭でも浮かぶ邪な考えに、相も変わらず私は惹かれてしまった。彼女の記憶が戻る手伝いはするとも、約束だからね。だが、それでも私は願い続けるだろう。

 君の記憶は、永遠に消え去ればいい。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

(完結)離婚された侯爵夫人ですが、一体悪かったのは誰なんでしょう?

江戸川ばた散歩
恋愛
セブンス侯爵夫人マゼンタは夫から離婚を哀願され、そのまま別居となる。 どうしてこうなってしまったのだろうか。彼女は自分の過去を振り返り、そこに至った経緯を思う。 没落貴族として家庭教師だった過去、義理の家族の暖かさ、そして義妹の可愛らしすぎる双子の子供に自分を見失ってしまう中で、何が悪かったのか別邸で考えることとなる。 視点を他のキャラから見たものも続きます。

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

殿下の婚約者は、記憶喪失です。

有沢真尋
恋愛
 王太子の婚約者である公爵令嬢アメリアは、いつも微笑みの影に疲労を蓄えているように見えた。  王太子リチャードは、アメリアがその献身を止めたら烈火の如く怒り狂うのは想像に難くない。自分の行動にアメリアが口を出すのも絶対に許さない。たとえば結婚前に派手な女遊びはやめて欲しい、という願いでさえも。  たとえ王太子妃になれるとしても、幸せとは無縁そうに見えたアメリア。  彼女は高熱にうなされた後、すべてを忘れてしまっていた。 ※ざまあ要素はありません。 ※表紙はかんたん表紙メーカーさま

義母様から「あなたは婚約相手として相応しくない」と言われたので、家出してあげました。

新野乃花(大舟)
恋愛
婚約関係にあったカーテル伯爵とアリスは、相思相愛の理想的な関係にあった。しかし、それを快く思わない伯爵の母が、アリスの事を執拗に口で攻撃する…。その行いがしばらく繰り返されたのち、アリスは自らその姿を消してしまうこととなる。それを知った伯爵は自らの母に対して怒りをあらわにし…。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

処理中です...