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第一章
王子の心
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定時間近のアドレイを引き留め戯れることも忘れて執務に集中した結果、日が完全には沈まないうちに私は執務室を出ることとなった。そしてその足は、迷いなく彼女の元へと向かっている。
「……フィリア、起きているか?」
扉を叩き返事を待つも、何も言葉が返ってこない。寝ている、のだろうか。
「入るぞ」
一応もう一度声をかけてからゆっくりと開ける。その瞬間、部屋の奥から涼しい風が流れてきた。
部屋の、バルコニーに通じるガラス扉が開いている。ベッドには……彼女はいない。
「っ、フィリア!」
嘘だろう、まさかバルコニーから……!
何かを考える前にガラス扉に駆け寄る。そうして見つけたのは、バルコニーの手すりの上に立ち空を見上げる少女の姿だった。
「フィリア、何をしている!」
「——殿下」
緩慢な動きでこちらに目を移した彼女の目にあったものは、空に輝き始めた星を愛でていた者の安らぎではない。記憶をなくした者の憂いでもない。ただただ暗い激情の色だ。
「どうしかした、のか?」
「……私は」
私から離れた視線が再び空に向く。そして紡がれた言葉は、心なしか震えていた。
「私は、何を忘れたのでしょうか。貴方は私のことを恋人だと、忘れているのは幸せな日々だと仰る。でも……この空を、紅く燃える空を見ているだけで胸が苦しくなるのです。消えた記憶は明るいものではなく、何かとても大切で暗いものなのではないかと、そう思えてならないのです」
空に向いた目が私に戻り、羽のような軽さで手すりから飛び降りる。私の前に立ち私を見上げる彼女の姿は、フィリアの生き写しのようでたしかに別人だった。
「殿下、私は本当にフィリアという名なのですか? 貴方の、恋人なのでしょうか?」
「それ、は」
やはり、偽りきれるものではない。フィリアが還ってくるなど、ありえないのだ。
「ああ……君が察している通り、君はフィリアではない。君のことは偶然見つけてね、あまりに私の恋人に似ていたから思わず連れ帰ってしまったのだ。……嘘をついてすまなかった」
「そうでしたか」
そう言った彼女は目を伏せ、流れるような動きでカーテシーをした。
「命を救ってくださったこと、改めて感謝いたします。そして、貴方様の想いの深さに敬意を」
「怒らないのか? 君を騙したというのに」
「貴方様の嘘は、フィリア様への深い愛情から来たものなのでしょう? 愛する者の姿を他に重ね、喪失感を紛らわそうとする……そのことに、なぜかとても共感してしまうのです。ですから、私には『騙された』などと憤ることはできません。もしかしたら私も、喪った人がいたら同じことをしてしまうかもしれませんから」
記憶はない。彼女はそう言っていたが、片隅には記憶の欠片があるのかもしれない。その証拠に、今の彼女は何かに想いを馳せるように優しい微笑みを浮かべている。それは、そう、フィリアが私に向けてくれたような、愛する者を想う笑顔だった。
「君にも、かけがえのない存在がいるのか」
「ええ、きっと。何も思い出せませんが、いつかは必ず取り戻します」
「そうか。ならば私は、君の記憶が戻るまで見守るとしよう。行くあてがなければここにいればいいし、君のことは仮の名で呼ぼう。どうだ?」
「大変恐れ多いとは存じますが、お言葉に甘えさせていただきます。記憶が戻るまでの暫しの間、お世話になります」
ここにいない「誰か」に向けられていた笑みは消え、代わりに自然な微笑みが口元に浮かぶ。
ああ、なんて美しい人だろう。もし、もしもだが、彼女が記憶を取り戻すことなく時が過ぎていけば、そのうちに私に振り向いてはくれないだろうか。そうすれば私は、ずっとフィリアの幻想に浸っていられるのではないか。
彼女とフィリアは別人だと認識した頭でも浮かぶ邪な考えに、相も変わらず私は惹かれてしまった。彼女の記憶が戻る手伝いはするとも、約束だからね。だが、それでも私は願い続けるだろう。
君の記憶は、永遠に消え去ればいい。
「……フィリア、起きているか?」
扉を叩き返事を待つも、何も言葉が返ってこない。寝ている、のだろうか。
「入るぞ」
一応もう一度声をかけてからゆっくりと開ける。その瞬間、部屋の奥から涼しい風が流れてきた。
部屋の、バルコニーに通じるガラス扉が開いている。ベッドには……彼女はいない。
「っ、フィリア!」
嘘だろう、まさかバルコニーから……!
何かを考える前にガラス扉に駆け寄る。そうして見つけたのは、バルコニーの手すりの上に立ち空を見上げる少女の姿だった。
「フィリア、何をしている!」
「——殿下」
緩慢な動きでこちらに目を移した彼女の目にあったものは、空に輝き始めた星を愛でていた者の安らぎではない。記憶をなくした者の憂いでもない。ただただ暗い激情の色だ。
「どうしかした、のか?」
「……私は」
私から離れた視線が再び空に向く。そして紡がれた言葉は、心なしか震えていた。
「私は、何を忘れたのでしょうか。貴方は私のことを恋人だと、忘れているのは幸せな日々だと仰る。でも……この空を、紅く燃える空を見ているだけで胸が苦しくなるのです。消えた記憶は明るいものではなく、何かとても大切で暗いものなのではないかと、そう思えてならないのです」
空に向いた目が私に戻り、羽のような軽さで手すりから飛び降りる。私の前に立ち私を見上げる彼女の姿は、フィリアの生き写しのようでたしかに別人だった。
「殿下、私は本当にフィリアという名なのですか? 貴方の、恋人なのでしょうか?」
「それ、は」
やはり、偽りきれるものではない。フィリアが還ってくるなど、ありえないのだ。
「ああ……君が察している通り、君はフィリアではない。君のことは偶然見つけてね、あまりに私の恋人に似ていたから思わず連れ帰ってしまったのだ。……嘘をついてすまなかった」
「そうでしたか」
そう言った彼女は目を伏せ、流れるような動きでカーテシーをした。
「命を救ってくださったこと、改めて感謝いたします。そして、貴方様の想いの深さに敬意を」
「怒らないのか? 君を騙したというのに」
「貴方様の嘘は、フィリア様への深い愛情から来たものなのでしょう? 愛する者の姿を他に重ね、喪失感を紛らわそうとする……そのことに、なぜかとても共感してしまうのです。ですから、私には『騙された』などと憤ることはできません。もしかしたら私も、喪った人がいたら同じことをしてしまうかもしれませんから」
記憶はない。彼女はそう言っていたが、片隅には記憶の欠片があるのかもしれない。その証拠に、今の彼女は何かに想いを馳せるように優しい微笑みを浮かべている。それは、そう、フィリアが私に向けてくれたような、愛する者を想う笑顔だった。
「君にも、かけがえのない存在がいるのか」
「ええ、きっと。何も思い出せませんが、いつかは必ず取り戻します」
「そうか。ならば私は、君の記憶が戻るまで見守るとしよう。行くあてがなければここにいればいいし、君のことは仮の名で呼ぼう。どうだ?」
「大変恐れ多いとは存じますが、お言葉に甘えさせていただきます。記憶が戻るまでの暫しの間、お世話になります」
ここにいない「誰か」に向けられていた笑みは消え、代わりに自然な微笑みが口元に浮かぶ。
ああ、なんて美しい人だろう。もし、もしもだが、彼女が記憶を取り戻すことなく時が過ぎていけば、そのうちに私に振り向いてはくれないだろうか。そうすれば私は、ずっとフィリアの幻想に浸っていられるのではないか。
彼女とフィリアは別人だと認識した頭でも浮かぶ邪な考えに、相も変わらず私は惹かれてしまった。彼女の記憶が戻る手伝いはするとも、約束だからね。だが、それでも私は願い続けるだろう。
君の記憶は、永遠に消え去ればいい。
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