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序章
王子の朝
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広大にして資源潤沢な土地を有する、かの王国。その中心には、贅の限りを尽くした見事な宮殿がそびえ立っている。国中から選りすぐりの職人を集め、幾年かをかけて造られたそのシンボルは、国民であれば誰もが一度は拝みたいと思うものだった。もっとも、それは宮殿の見事さゆえばかりでは無い。大国イグリアスを率いる至高の名君に少しでも近寄りたい。ぜひその姿を拝みたい。そんな想いも、国民の愛を一身に受ける理由だ。
ところが、誰もが憧れる名君がただ一つ負い目として抱える問題もまた、その宮殿の中にあった。
**********
意識が薄く覚醒したのは、仄かな明かりの中、小鳥のさえずりを聞いてからだった。
ぼやけた視界の中で見慣れた白い天井が見えると同時に、腕にかかる微かな重みを認識する。
首を巡らせて重みの正体を知れば、口からは朝から漏らすにはあまりに憂鬱な溜息が漏れた。
またやったか。
横にあったのは、一糸纏わぬ姿で気持ちよさそうに眠る女。自身の恰好と照らし合わせれば、昨夜二人に何があったかは他の者から見ても、火を見るより明らかだった。
とりあえず起こすか。
そう考え女の肩に手を伸ばす。と、部屋の扉が二回鳴った。
『グレイン様、おはようございます』
「……フィスか。何の用だ」
扉の向こうから聞こえた平坦な声の主、フィス・クレイスは私の侍従だ。何の用だと訊きはしたが、単に起こしに来ただけなのはわかっている。そして、彼が少しばかり無礼なことも。
特に入れと言ったわけでもないのに、フィスはさも当然のように扉を開け、表情筋が死んだ顔を覗かせた。そして私の顔、恰好、腕に乗っているものを全て変わらぬ表情で見やり、平然と一礼をしてみせた。
「おはようございます、王太子殿下」
「その呼び方はやめろと言っている」
……大変不本意だが、私、グレイン・イグリアスはこの大国の王太子という地位にある。が、決して評判は良くなく、名君の悩みの種とよく嘆かれる。そんな私を心ばかりに諫める時、この侍従は決まって主人が最も嫌がる呼び方をする。
「これで今月に入り四人目、でしょうか。さすが殿下は人気がおありですね」
「嫌味も大概にしろ、フィス。それより、この女は誰だ」
「誰って、それも分からず女性を……ああ、そういえばそうでしたね」
多くの女性と一夜限りの関係を持ち浮名を流している我が身ではあるが、さすがに相手の身分や名前を知らずに、ということはない。ただ、年に一度、ある日だけは極端な泥酔状態に陥りやすく、誰彼構わず襲うことがある。
「昨日は、フィリア様の命日でしたか」
「……ああ」
私の恋人、フィリア・ハーレス。同じ貴族の間でも才色兼備で有名な彼女はしかし病弱でもあり、三年前、心臓を患い十八年の人生に幕を下ろした。私が女達と見境なく関係を持つようになったのは、ちょうどこの頃からだ。
「まあ、流石に来年からは自重してください。貴方も今夏で二十一歳、とっくに結婚適齢期です。このままでは行き遅れますよ」
「……」
無表情で言い放ったフィスから逸らした目はそのまま虚空を見つめ、口元には嘲の色が浮かんだ。
「女でもあるまいし、結婚など何歳でも良いだろう。俺にはフィリア以外を愛せる自信などない。適当な時期に、適当な貴族の娘と政略結婚でもするさ」
彼女以上の女性など、いるはずがない。どうせいないのならば、せめて国のためになるような結婚をする。
フィスは少しの間私を見つめ、そうですかと平坦に言った。
「貴方が良いなら別に煩くは申しません。……しかし、この娘は中々起きませんね。こら、さっさと起きなさい」
フィスの入室時咄嗟に布団をかけたとはいえ、生まれたままの姿で眠ることに変わりない女の頬を、フィスは無関心な顔で軽く叩く。と、ようやく女が目を覚まし、自身の状況を理解すると一瞬で顔をこわばらせた。
「ひっ……!」
悲鳴をあげそうになった女性の口が手で塞がれ、フィスの囁きが耳元に落とされた。温度のない声で、言い聞かせるような囁きが。
「昨日今日で、あなたに起こったことは全て夢です。他言無用……そう申し上げれば、察していただけますね、王宮付メイドのルナ・ハウル殿?」
「んぐっ!?」
恐怖、羞恥、不安、と様々な感情が入り混じった顔で、彼女はカラクリのように首を何度も振った。
可哀想に、フィスの囁きはトラウマになるともっぱらの噂だ。きっと彼女も、今後は私にもフィスにも近づけなくなるだろう。
「フィス、そのくらいにしておけ。……ルナ・ハウル、この部屋の浴室を使うといい。さっぱりしてから出たいだろう?」
女に目を向けることなく、なるべく穏やかな声音を意識して告げる。すると女は頬を赤く染め、か細い声で「はい」と答えた。
「フィス、彼女の分のバスタオルを用意したら部屋から出て行け」
「かしこまりました」
主人の命に一礼し雑務を終わらせた彼の退室を見計らい、ルナにバスローブを着させる。昨日の夜私が着ていたものだが……この際文句は言わないだろう。
「急ぐ必要はない。ゆっくり入っておいで」
「はっはい……!」
メイドは自分の衣服を床から拾い、時計を見るなりあたふたとバスルームに駆け込んでいった。彼女達メイドの朝は早い。今の時間から仕事場に行ったとしても、メイド長に叱られるのは必至だ。襲った挙句遅刻までさせてしまうとは、情けないものだと我ながら呆れる。
烏の行水並みの早さでバスルームから出てきた彼女はメイド服の姿で一礼し、ドアノブを握った。そして、彼女が部屋を出る瞬間、私は一言だけ声をかけた。
「すまなかった」
その声にメイドが振り向いたようだが、私の意識は既に外の景色にあった。
今日の空は、いやに晴々としている。それはまるで、私に終生訪れるはずのない、幸運の予兆のように。
ところが、誰もが憧れる名君がただ一つ負い目として抱える問題もまた、その宮殿の中にあった。
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意識が薄く覚醒したのは、仄かな明かりの中、小鳥のさえずりを聞いてからだった。
ぼやけた視界の中で見慣れた白い天井が見えると同時に、腕にかかる微かな重みを認識する。
首を巡らせて重みの正体を知れば、口からは朝から漏らすにはあまりに憂鬱な溜息が漏れた。
またやったか。
横にあったのは、一糸纏わぬ姿で気持ちよさそうに眠る女。自身の恰好と照らし合わせれば、昨夜二人に何があったかは他の者から見ても、火を見るより明らかだった。
とりあえず起こすか。
そう考え女の肩に手を伸ばす。と、部屋の扉が二回鳴った。
『グレイン様、おはようございます』
「……フィスか。何の用だ」
扉の向こうから聞こえた平坦な声の主、フィス・クレイスは私の侍従だ。何の用だと訊きはしたが、単に起こしに来ただけなのはわかっている。そして、彼が少しばかり無礼なことも。
特に入れと言ったわけでもないのに、フィスはさも当然のように扉を開け、表情筋が死んだ顔を覗かせた。そして私の顔、恰好、腕に乗っているものを全て変わらぬ表情で見やり、平然と一礼をしてみせた。
「おはようございます、王太子殿下」
「その呼び方はやめろと言っている」
……大変不本意だが、私、グレイン・イグリアスはこの大国の王太子という地位にある。が、決して評判は良くなく、名君の悩みの種とよく嘆かれる。そんな私を心ばかりに諫める時、この侍従は決まって主人が最も嫌がる呼び方をする。
「これで今月に入り四人目、でしょうか。さすが殿下は人気がおありですね」
「嫌味も大概にしろ、フィス。それより、この女は誰だ」
「誰って、それも分からず女性を……ああ、そういえばそうでしたね」
多くの女性と一夜限りの関係を持ち浮名を流している我が身ではあるが、さすがに相手の身分や名前を知らずに、ということはない。ただ、年に一度、ある日だけは極端な泥酔状態に陥りやすく、誰彼構わず襲うことがある。
「昨日は、フィリア様の命日でしたか」
「……ああ」
私の恋人、フィリア・ハーレス。同じ貴族の間でも才色兼備で有名な彼女はしかし病弱でもあり、三年前、心臓を患い十八年の人生に幕を下ろした。私が女達と見境なく関係を持つようになったのは、ちょうどこの頃からだ。
「まあ、流石に来年からは自重してください。貴方も今夏で二十一歳、とっくに結婚適齢期です。このままでは行き遅れますよ」
「……」
無表情で言い放ったフィスから逸らした目はそのまま虚空を見つめ、口元には嘲の色が浮かんだ。
「女でもあるまいし、結婚など何歳でも良いだろう。俺にはフィリア以外を愛せる自信などない。適当な時期に、適当な貴族の娘と政略結婚でもするさ」
彼女以上の女性など、いるはずがない。どうせいないのならば、せめて国のためになるような結婚をする。
フィスは少しの間私を見つめ、そうですかと平坦に言った。
「貴方が良いなら別に煩くは申しません。……しかし、この娘は中々起きませんね。こら、さっさと起きなさい」
フィスの入室時咄嗟に布団をかけたとはいえ、生まれたままの姿で眠ることに変わりない女の頬を、フィスは無関心な顔で軽く叩く。と、ようやく女が目を覚まし、自身の状況を理解すると一瞬で顔をこわばらせた。
「ひっ……!」
悲鳴をあげそうになった女性の口が手で塞がれ、フィスの囁きが耳元に落とされた。温度のない声で、言い聞かせるような囁きが。
「昨日今日で、あなたに起こったことは全て夢です。他言無用……そう申し上げれば、察していただけますね、王宮付メイドのルナ・ハウル殿?」
「んぐっ!?」
恐怖、羞恥、不安、と様々な感情が入り混じった顔で、彼女はカラクリのように首を何度も振った。
可哀想に、フィスの囁きはトラウマになるともっぱらの噂だ。きっと彼女も、今後は私にもフィスにも近づけなくなるだろう。
「フィス、そのくらいにしておけ。……ルナ・ハウル、この部屋の浴室を使うといい。さっぱりしてから出たいだろう?」
女に目を向けることなく、なるべく穏やかな声音を意識して告げる。すると女は頬を赤く染め、か細い声で「はい」と答えた。
「フィス、彼女の分のバスタオルを用意したら部屋から出て行け」
「かしこまりました」
主人の命に一礼し雑務を終わらせた彼の退室を見計らい、ルナにバスローブを着させる。昨日の夜私が着ていたものだが……この際文句は言わないだろう。
「急ぐ必要はない。ゆっくり入っておいで」
「はっはい……!」
メイドは自分の衣服を床から拾い、時計を見るなりあたふたとバスルームに駆け込んでいった。彼女達メイドの朝は早い。今の時間から仕事場に行ったとしても、メイド長に叱られるのは必至だ。襲った挙句遅刻までさせてしまうとは、情けないものだと我ながら呆れる。
烏の行水並みの早さでバスルームから出てきた彼女はメイド服の姿で一礼し、ドアノブを握った。そして、彼女が部屋を出る瞬間、私は一言だけ声をかけた。
「すまなかった」
その声にメイドが振り向いたようだが、私の意識は既に外の景色にあった。
今日の空は、いやに晴々としている。それはまるで、私に終生訪れるはずのない、幸運の予兆のように。
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