夏のお弁当係

いとま子

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26.好きになってくれてありがとう

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 全員がテレビに釘付けになっていた。
 甲子園の決勝戦。甲高い金属音がして打球の行方を捜す。アナウンサーが興奮しながら実況する中、カメラはセンターの選手を映し出した。彼は立ち止まり、空に向かってグローブを構えた。やがて、もとあった場所に戻ったかのように、白球はグローブの中へと吸い込まれた。割れんばかりの歓声が上がり、センターの彼はガッツポーズをしながら仲間の元へと駆け寄っていった。

「ね、雨恵さん。当たったでしょう?」

 優勝したのは、甲子園初日で劇的勝利をおさめた高校だった。僕は逆転したのは奇跡だと思っていたが、賢治くんは優勝しますよと言っていた。賢治くんの予言が当たったのだ。

「すごいね、優勝するってわかってたの? なんだか神様みたいだね」

 僕が言うと、賢治くんは嬉しそうに笑った。
 自分が立ちたかった舞台で活躍する選手たちを見て、賢治くんはどう思っているんだろう。

「じゃあおれも、かみさま!」

 穂高くんが勢いよく手を上げる。僕は尋ねた。

「何の神様?」
「クワガタ!」
「ピンポイントだなあ。種ごとにいるんなら、虫の神様だけでどれくらいいるんだ?」

 幸久さんは笑う。

「じゃ、お父さんは穂高の神様になって、今から宿題をやらせよう」と、幸久さんは穂高くんを羽交い絞めにした。穂高くんは笑いながら、逃れようと必死にもがいている。

「んー、俺は何の神様がいいかな? 野球の神様、はいるしなあ」

 賢治くんは頭をひねっている。僕ははたと思いついた。

「そういえば、タバコの神様っているの?」
「いるらしいですよ。俺も知ったときは驚きました」
「へえ。じゃあ、クワガタにも神様がいるかもな」

 頷く幸久さんの腕の中から逃れた穂高くんは、きちんと宿題を持ってきた。

「ちょっと、買い物に行ってきます」

 僕が立ち上がると、賢治くんが顔を上げた。

「車、出しましょうか?」
「大丈夫だよ。荷物が多いわけじゃないし。賢治くんは用事があるんじゃなかったの?」
「うわ、いけね! もうこんな時間じゃん」

 賢治くんは慌ただしく出て行った。午後から地区の集まりがあるらしい。軽トラックのエンジン音が次第に遠ざかっていくと、幸久さんが言う。

「雨恵くん、俺が連れて行こうか?」
「いえ、大丈夫です。スクーターも借りてるんで、ひとりで行きます。穂高くんの宿題、見てあげてください」

 ひとりで走りたい気分だった。揺れる木漏れ日の下を、ぼうっと考えながらゆっくりと坂を下る。
 日本には八百万の神がいるという。昔は八百万人もいるのかと思っていたが、極めて数が多いという意味らしい。野球の神様やタバコの神様もいるなら、クワガタの神様だって、賢治くんのことを幸せにしてくれる神様もいていいんじゃないか。
 小嶋マートで買い物を終える。僕はまた、ゆっくりと坂を上る。
 目の前から大きなトラックが下ってきた。脇によけた途端、スクーターが止まる。僕はその場から進めなくなった。



「雨恵さん!」

 賢治くんが真っ青な顔で居間に飛び込んできた。

「だ、大丈夫ですか」

 震える声でかけ寄り、汗ばんだ手のひらで僕の身体を何度も触る。

「事故だって聞いてっ、怪我は、どこか痛みますか!」
「落ち着いて」

 僕は賢治くんを落ち着かせるために、噛んで含めるようにゆっくりと言う。

「僕は、なんともないよ」
「そんなっ! だって事故、って……あれ?」

 賢治くんはやっと僕の身体に傷一つ付いていないことに気づいたようだ。

「事故、って聞いたんですけど……」

 僕はかぶりを振る。

「ぶつかったとか、そんなんじゃないよ。オイルかどこかが古くなってたみたいで、スクーターが動かなくなっただけ」
「そう、なんですか……」

 賢治くんはくしゃりとした笑顔を浮かべると、ぎゅっと僕を抱きしめた。がっしりとした腕が背中に回され、大きな身体に包み込まれる。賢治くんの身体は太陽のように熱かった。

「け、賢治く――」
「……よかった」

 呟くような声が聞こえ、鼻をすする音がした。汗の匂いで、走ってきてくれたんだとわかり、ずきりと胸が痛んだ。事故を起こさなかったとしても、賢治くんを不安にさせたら意味がない。
 ご両親のことを思い出しているんだろうか。
 僕は賢治くんの背中に手を回し、あやすようにぽんぽんと叩く。

「ごめん。心配かけて」
「いえ、ちゃんと点検してなかった俺が悪いんです」

 賢治くんは僕の肩に手を置き、身体を離した。目を見て、ゆっくりと首を振った。

「でも、本当に良かった。雨恵さんに何かあったらと思うと……」
「賢治くん……」

 本当に心配してくれたのだ。僕はそのことが嬉しくて、申し訳なく思った。

「何かあったかと思うと?」
「兄ちゃん!」

 賢治くんが声を上げ、ぱっと僕の肩から手を離した。幸久さんが隣の部屋から顔を出す。『兄貴』じゃなくて、『兄ちゃん』になっているあたり、よほど驚いたのだろう。
 幸久さんが音量を上げ、もう一度言った。

「『雨恵さんに何かあったらと思うと……』の、続きは?」
「う、うるさいな。もういいだろ、別に」

 賢治くんは真っ赤になってそっぽをむく。幸久さんがにやにやと笑う。

「お前、会議かなんかの途中だったんじゃないの?」
「ああ、集まりっていっても飲み会の口実みたいなもんだし、もうすでに飲み会みたいになってるから別に。とりあえず戻ります。雨恵さんが大丈夫だったって言わないといけないし……ほんとに、なんともないんですよね?」
「うん。大丈夫だよ」
「じゃ、またいってきます」
「いってらっしゃい」

 戸が閉まると、幸久さんはずっと堪えていたのか、盛大に噴き出し、腹を抱えて笑った。

「いやー、あいつのあんな顔、初めて見た。愛されてるね、雨恵くん」
「……そんなんじゃ、ないと思いますよ」

 思いのほか沈んでしまった声に、幸久さんは座り直して、僕を見た。

「確かに父さんと母さんが交通事故で亡くなったから敏感になってるってのもあると思うけど、大切な人じゃないとあそこまで慌てないんじゃない?」

 幸久さんはにやりと口角を上げて続ける。

「雨恵くんって、賢治と会ってまだ一ヶ月ぐらいでしょ」

 言われて気づいた。夏休みが始まる少し前だから、確かに一ヶ月ほどしか経っていない。

「賢治は絶対、雨恵くんのこと好きだと思うんだけどなあ」

 万が一そうだったとして、だからといって、どうしようもない。
 賢治くんが女の子を好きなのは事実で、おばあさんがお嫁さんをほしがっているのは事実で、男同士は結婚できないのも事実で、夏休みが終われば僕は帰らないといけないのが事実だ。

「雨恵くんも、賢治のこと、好きになってくれたんだよね?」

 喉が詰まる。幸久さんが、じっと静かに答えを待っている。逸る鼓動を抑え、僕は口を開いた。

「……――すき、です。好きになりました。……すみません」

 声が震えた。喉が引きつるように痛む。僕は息が詰まりながらも、なんとか言葉を絞り出した。罪の告白、懺悔みたいだ。

「でも告白するつもりはありません。今ここで皆さんと過ごす毎日がほんとに楽しいんです。それを……自分の身勝手な気持ちで壊すことなんて、絶対にしませんから……」
「雨恵くん、顔を上げて。どうして謝るの。雨恵くんはなにも悪くない。むしろ、弟のいいところに気づいて好きになってくれた人がいる。俺は嬉しいよ」

 僕は顔を上げた。
 幸久さんは、本当に嬉しそうに微笑んでいた。

「賢治のこと、好きになってくれてありがとう」

 ぐっと、僕はこみ上げてくる涙を堪えた。誰かを好きになることを、肯定されるなんて思ってなかった。

「そんな……幸久さん……僕は、」
「雨恵くんが、俺たちとの時間を大切に思ってくれてるのは嬉しい。でも今のままでいても、雨恵くんは苦しいまんまでしょ? ずっと変わらない関係なんてない。よくも悪くも、ね。雨恵くんは悪いほうに考えすぎてる。慎重なのはいいけど、臆病なままだと、本当に大切なときに一歩踏み出せないままだよ」
「…………」
「どうにでもなるもんだから」
 
 のんびとをした口調で、幸久さんは続けた。

「結婚式の日に始めて出会ったじいちゃんとばあちゃんも仲良くやってるし、父さんと母さんはしょっちゅう二人で出かけてたほど仲良しだったし、俺は離婚したけど、穂高がいるし」

 縁側から風が吹き抜けた。風鈴が軽やかな音色を響かせる。
 揺れる木漏れ日を眺めながら、幸久さんは優しく言った。

「まあ、これからどうしたいか決めるのは、俺たちでも神様でもなく、雨恵くんと賢治の二人だよ」
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