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10.はんこ係とたまごパン
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朝、六時ぴったりにアラームがなる。慌ててアラームを消し、いつの間にか僕の布団にもぐりこんでいた穂高くんを起こさないように布団から出る。ほぼ同時に起きてきたおばあさんは洗濯を、僕は朝食の準備とお弁当作りにとりかかる。
戻ってきたおばあさんと並んで朝ご飯の準備をしていると、町内放送のスピーカーから軽快な音楽が流れてきた。耳なじみの音楽、ラジオ体操だ。
穂高くんがばたばたと台所に走り込んできた。
「うけいもやろ!」
おばあさんにも「いってきな」と促されたので、僕は朝ご飯づくりをおばあさんに任せ、穂高くんに手を引かれながら、慌てて家の前に出た。朝日が差し込む庭先には、すでに賢治くんが音楽に合わせながら腕を回している。
「賢治くんもやるんだね」
「やらないと穂高に怒られるんで。それと、はんこ係も」
「はんこ係?」
僕は腕を振りながら尋ねた。大人になってからラジオ体操をやる機会はなかったけど、身体は覚えているものだ。結構スムーズに動ける。
「ラジオ体操やると、ラジオ体操カードにはんこ押すんですよ。全部集めるとすげーみたいな。やりませんでした?」
「僕のところはなかったな、カード。一応、やってください、みたいなのはあった気がするけど、友達もやってなかったし」
「そうなんですね。この辺りも今は各家庭でーってなってますけど、昔は坂の下の公民館に集合することになってたらしいんで、小学生のときここに住んでたら、毎朝坂道駆け下りなきゃなんなかったですね」
「それは大変だねえ」
「ちょっと、おしゃべりしないで。はんこもらえないよ」
「すみません」
元気に腕を回している穂高くんに注意されて、ふたりで謝った。顔を見合わせて苦笑する。
深呼吸してラジオ体操を終えると、穂高くんが首から提げたカードを賢治くんに見せた。
「はい、今日もよくできました」
賢治くんがカードにはんこを押す。「うけい見て、毎日押してあるよ!」と、穂高くんは嬉しそうにカードを見せてくれる。自宅の認め印だろう、『大浦』という朱色の印が、日付の枠に綺麗に並んでいる。
「雨恵さんも」
と、賢治くんが手招きする。
「えっ、僕も?」
「うけいもラジオ体操やったじゃん。はんこ、もらえるよ」
穂高くんに後ろから押されて賢治くんの前に出ると、賢治くんは僕の左手をとった。熱くて大きくて、指先が硬い賢治くんの手の感触に、どきりとする。
「雨恵さんはカードないんで、これで」
賢治くんは僕の手の甲に、ぽん、とはんこを押した。僕の青白い手の甲に『大浦』と、賢治くんちの名字の赤い印がうつる。家族の一員になれたような、こそばゆさを覚える。
「さ、運動して腹減りましたね。朝ご飯にしますか」
「ごっはーん」
賢治くんと穂高くんが家の中に入っていく背中を見ながら、僕はそっと、はんこの押された手の甲を右手で覆った。消えなければいいのにな。
朝ご飯はナスとオクラの味噌汁。おかずはお土産のアジのみりん干しと、目玉焼き。付け合わせは畑でとれたトマトだ。
食べ終わると、おのおのの活動を始める。八月に入り、すでに今年の田植えは終了したらしい。
おじいさんとおばあさんは、家や田んぼの周りの草刈りや野菜の世話。賢治くんは稲を植えた田んぼを見て回り、必要な箇所に農薬の散布。穂高くんはタクマくんたちと遊びに行く。いつも通りの朝だ。賢治くんのうちにお世話になって一週間ほど、ここの生活にも慣れてきた。
賢治くんのうちにお世話になることを言っておかなければ、と僕は母さんに電話をかけようとした。が、山の上にある大浦家では、携帯電話は圏外になっていた。仕方がないので固定電話を借りた。
母さんは賢治くんのうちを知っていたようで、なぜそういう流れになったのか不思議がってはいたが、反対はされなかった。
電波が入らないので、ネット上のレシピは見ることはできない。料理の本を買っていてよかったとつくづく思った。
「賢治、ご飯下げたんか」
「おっと、いけね」
毎朝、朝食前には仏壇と神棚にご飯を上げ、朝食が済むとご飯を下げる。この仕事はいつも賢治くんの役目だ。
「父さんも母さんも、雨恵さんの美味しいご飯を食べられて喜んでいますよ」
賢治くんはそう言って笑う。私のはまずいのかい、と遠くからおばあさんの声がする。それには答えずに、賢治くんは肩をすくめる。
大浦家にお世話になることになった日、僕がうちに帰って荷物をまとめている間に、暇つぶしのように賢治くんはご両親のことを教えてくれた。
『八年前、穂高が生まれる前ですね。父さんと母さんは交通事故で亡くなったんです。兄貴はもう就職してたんですけど、俺はまだ中三で、じいちゃんちに住むことになりました。急に別の高校行くことになったのはちょっと不満だったんですけど、結局、高校生活はすごく楽しかったですね』
僕は服をたたんでいる手を止めてしまう。でも、賢治くんを見てじっと聞き入ってしまうと話をやめてしまいそうで、Tシャツを握ったまま無意味な動きを繰り返す。服にしわができてしまった。
『ここは長期休みのときには何度も遊びに来てましたし、じいちゃんもばあちゃんもすごく優しくしてくれました。両親が亡くなって、もちろんすごく落ち込みましたけど、周りの人がよくしてくれて――俺はまあ、こんなになりました』
賢治くんは自分を指さし、照れたように笑った。僕はまだ話を終えたくない。
『おじいさんとおばあさんが農業をやってたから、賢治くんも?』
『はい。まあ俺は、兄貴みたく頭はよくないですし』
苦笑して続ける。
『高校生のときも手伝いはよくやってて、農業も、ここの生活も、好きですから』
『やっぱり、大変だよね?』
『まあ、そうですね。今はのんびりしてますけど、農繁期は本当に朝から晩までですからね。俺は慣れたんですけど、穂高が寂しがってるよなとは思います。だから、雨恵さんが来てくれて良かったです』
両親が離婚して、出張が多い父親とも離れて暮らす穂高くん。おじいさんとおばあさんと賢治くんがいても、やはり両親がそばにいないのは寂しいだろう。
賢治くんも、同じような思いをしたのかもしれない。
「今日もお弁当美味しかったです。しょうが焼きってなんであんなに美味しいんですかね」
夕方。帰ってくるなり、賢治くんは僕にお弁当箱を渡しながら感想を言う。もちろん今日もお弁当箱の中は空になっている。今日のお弁当は、しょうが焼きと、甘い卵焼き、ほうれん草のおひたしだった。
「おやつ食べた後でも、弁当が楽しみだなーって思うんで、やっぱ雨恵さんすごいですよね」
「そういえば、小嶋マートではパンとか買ってる人がいたけど、賢治くんたちはおやつってなに食べてるの?」
賢治くんは指を折りながら言った。
「パンとか、饅頭とか、おにぎりとか、カップラーメンとかですかね」
「ラーメンっ? ラーメン食べて、お弁当も食べるの?」
賢治くんは片眉を上げた。
「普通に食べますよ。お湯入れるだけだから楽ですし、お腹にもたまりますし」
身体を動かすから腹が減るのだろうが、そんなに食べて大丈夫なのだろうか。カップラーメンばかり食べるのも、身体によくないのでは。
「お、おにぎりとか、蒸しパンとかでよかったら僕がつくるけど」
「いいんですか? めっちゃ食べたいです。ありがとうございます」
賢治くんはぱっと笑顔を見せた。犬だったら多分尻尾を目一杯振っている。
僕の仕事は増えた。といっても、日中は暇なので苦ではない。
「何か、食べたいものとかある?」
「なんでもいいんですけど……なんでもって言ったら逆に困りますか?」
と言いながら、賢治くんは宙に視線をさまよわせ、「あ」と声を上げる。
「たまごパンがいいです」
「たまごパン?」
「はい。あれ、好きなんです。難しいですかね?」
「いや、大丈夫だと思う」
僕は翌日、朝ごはんと一緒に、たまごパンを作った。玉子を炒ってそぼろ状にし、マヨネーズと砂糖で合えたものを、切る込みが入ったロールパンに挟んだものだ。
お弁当と一緒に賢治くんは喜んでそれを受け取ったが、夕方、帰ってきたときには首を傾げていた。
「美味しかったですけど、雨恵さんのところは、あれがたまごパンなんですね」
「賢治くんの言っていたやつは違うの?」
てっきり、たまごを挟んだサンドウィッチのようなものだと思っていたが、どうやら違ったようだ。
「たまごパンって何?」
賢治くんはあごに手をあてて唸る。
「甘い……食パン?」
なんだろう。砂糖でもまぶしてあるのだろうか。詳しく聞こうにも、賢治くんは調理法を知らないらしい。
おやつはおにぎりを作ることになった。
戻ってきたおばあさんと並んで朝ご飯の準備をしていると、町内放送のスピーカーから軽快な音楽が流れてきた。耳なじみの音楽、ラジオ体操だ。
穂高くんがばたばたと台所に走り込んできた。
「うけいもやろ!」
おばあさんにも「いってきな」と促されたので、僕は朝ご飯づくりをおばあさんに任せ、穂高くんに手を引かれながら、慌てて家の前に出た。朝日が差し込む庭先には、すでに賢治くんが音楽に合わせながら腕を回している。
「賢治くんもやるんだね」
「やらないと穂高に怒られるんで。それと、はんこ係も」
「はんこ係?」
僕は腕を振りながら尋ねた。大人になってからラジオ体操をやる機会はなかったけど、身体は覚えているものだ。結構スムーズに動ける。
「ラジオ体操やると、ラジオ体操カードにはんこ押すんですよ。全部集めるとすげーみたいな。やりませんでした?」
「僕のところはなかったな、カード。一応、やってください、みたいなのはあった気がするけど、友達もやってなかったし」
「そうなんですね。この辺りも今は各家庭でーってなってますけど、昔は坂の下の公民館に集合することになってたらしいんで、小学生のときここに住んでたら、毎朝坂道駆け下りなきゃなんなかったですね」
「それは大変だねえ」
「ちょっと、おしゃべりしないで。はんこもらえないよ」
「すみません」
元気に腕を回している穂高くんに注意されて、ふたりで謝った。顔を見合わせて苦笑する。
深呼吸してラジオ体操を終えると、穂高くんが首から提げたカードを賢治くんに見せた。
「はい、今日もよくできました」
賢治くんがカードにはんこを押す。「うけい見て、毎日押してあるよ!」と、穂高くんは嬉しそうにカードを見せてくれる。自宅の認め印だろう、『大浦』という朱色の印が、日付の枠に綺麗に並んでいる。
「雨恵さんも」
と、賢治くんが手招きする。
「えっ、僕も?」
「うけいもラジオ体操やったじゃん。はんこ、もらえるよ」
穂高くんに後ろから押されて賢治くんの前に出ると、賢治くんは僕の左手をとった。熱くて大きくて、指先が硬い賢治くんの手の感触に、どきりとする。
「雨恵さんはカードないんで、これで」
賢治くんは僕の手の甲に、ぽん、とはんこを押した。僕の青白い手の甲に『大浦』と、賢治くんちの名字の赤い印がうつる。家族の一員になれたような、こそばゆさを覚える。
「さ、運動して腹減りましたね。朝ご飯にしますか」
「ごっはーん」
賢治くんと穂高くんが家の中に入っていく背中を見ながら、僕はそっと、はんこの押された手の甲を右手で覆った。消えなければいいのにな。
朝ご飯はナスとオクラの味噌汁。おかずはお土産のアジのみりん干しと、目玉焼き。付け合わせは畑でとれたトマトだ。
食べ終わると、おのおのの活動を始める。八月に入り、すでに今年の田植えは終了したらしい。
おじいさんとおばあさんは、家や田んぼの周りの草刈りや野菜の世話。賢治くんは稲を植えた田んぼを見て回り、必要な箇所に農薬の散布。穂高くんはタクマくんたちと遊びに行く。いつも通りの朝だ。賢治くんのうちにお世話になって一週間ほど、ここの生活にも慣れてきた。
賢治くんのうちにお世話になることを言っておかなければ、と僕は母さんに電話をかけようとした。が、山の上にある大浦家では、携帯電話は圏外になっていた。仕方がないので固定電話を借りた。
母さんは賢治くんのうちを知っていたようで、なぜそういう流れになったのか不思議がってはいたが、反対はされなかった。
電波が入らないので、ネット上のレシピは見ることはできない。料理の本を買っていてよかったとつくづく思った。
「賢治、ご飯下げたんか」
「おっと、いけね」
毎朝、朝食前には仏壇と神棚にご飯を上げ、朝食が済むとご飯を下げる。この仕事はいつも賢治くんの役目だ。
「父さんも母さんも、雨恵さんの美味しいご飯を食べられて喜んでいますよ」
賢治くんはそう言って笑う。私のはまずいのかい、と遠くからおばあさんの声がする。それには答えずに、賢治くんは肩をすくめる。
大浦家にお世話になることになった日、僕がうちに帰って荷物をまとめている間に、暇つぶしのように賢治くんはご両親のことを教えてくれた。
『八年前、穂高が生まれる前ですね。父さんと母さんは交通事故で亡くなったんです。兄貴はもう就職してたんですけど、俺はまだ中三で、じいちゃんちに住むことになりました。急に別の高校行くことになったのはちょっと不満だったんですけど、結局、高校生活はすごく楽しかったですね』
僕は服をたたんでいる手を止めてしまう。でも、賢治くんを見てじっと聞き入ってしまうと話をやめてしまいそうで、Tシャツを握ったまま無意味な動きを繰り返す。服にしわができてしまった。
『ここは長期休みのときには何度も遊びに来てましたし、じいちゃんもばあちゃんもすごく優しくしてくれました。両親が亡くなって、もちろんすごく落ち込みましたけど、周りの人がよくしてくれて――俺はまあ、こんなになりました』
賢治くんは自分を指さし、照れたように笑った。僕はまだ話を終えたくない。
『おじいさんとおばあさんが農業をやってたから、賢治くんも?』
『はい。まあ俺は、兄貴みたく頭はよくないですし』
苦笑して続ける。
『高校生のときも手伝いはよくやってて、農業も、ここの生活も、好きですから』
『やっぱり、大変だよね?』
『まあ、そうですね。今はのんびりしてますけど、農繁期は本当に朝から晩までですからね。俺は慣れたんですけど、穂高が寂しがってるよなとは思います。だから、雨恵さんが来てくれて良かったです』
両親が離婚して、出張が多い父親とも離れて暮らす穂高くん。おじいさんとおばあさんと賢治くんがいても、やはり両親がそばにいないのは寂しいだろう。
賢治くんも、同じような思いをしたのかもしれない。
「今日もお弁当美味しかったです。しょうが焼きってなんであんなに美味しいんですかね」
夕方。帰ってくるなり、賢治くんは僕にお弁当箱を渡しながら感想を言う。もちろん今日もお弁当箱の中は空になっている。今日のお弁当は、しょうが焼きと、甘い卵焼き、ほうれん草のおひたしだった。
「おやつ食べた後でも、弁当が楽しみだなーって思うんで、やっぱ雨恵さんすごいですよね」
「そういえば、小嶋マートではパンとか買ってる人がいたけど、賢治くんたちはおやつってなに食べてるの?」
賢治くんは指を折りながら言った。
「パンとか、饅頭とか、おにぎりとか、カップラーメンとかですかね」
「ラーメンっ? ラーメン食べて、お弁当も食べるの?」
賢治くんは片眉を上げた。
「普通に食べますよ。お湯入れるだけだから楽ですし、お腹にもたまりますし」
身体を動かすから腹が減るのだろうが、そんなに食べて大丈夫なのだろうか。カップラーメンばかり食べるのも、身体によくないのでは。
「お、おにぎりとか、蒸しパンとかでよかったら僕がつくるけど」
「いいんですか? めっちゃ食べたいです。ありがとうございます」
賢治くんはぱっと笑顔を見せた。犬だったら多分尻尾を目一杯振っている。
僕の仕事は増えた。といっても、日中は暇なので苦ではない。
「何か、食べたいものとかある?」
「なんでもいいんですけど……なんでもって言ったら逆に困りますか?」
と言いながら、賢治くんは宙に視線をさまよわせ、「あ」と声を上げる。
「たまごパンがいいです」
「たまごパン?」
「はい。あれ、好きなんです。難しいですかね?」
「いや、大丈夫だと思う」
僕は翌日、朝ごはんと一緒に、たまごパンを作った。玉子を炒ってそぼろ状にし、マヨネーズと砂糖で合えたものを、切る込みが入ったロールパンに挟んだものだ。
お弁当と一緒に賢治くんは喜んでそれを受け取ったが、夕方、帰ってきたときには首を傾げていた。
「美味しかったですけど、雨恵さんのところは、あれがたまごパンなんですね」
「賢治くんの言っていたやつは違うの?」
てっきり、たまごを挟んだサンドウィッチのようなものだと思っていたが、どうやら違ったようだ。
「たまごパンって何?」
賢治くんはあごに手をあてて唸る。
「甘い……食パン?」
なんだろう。砂糖でもまぶしてあるのだろうか。詳しく聞こうにも、賢治くんは調理法を知らないらしい。
おやつはおにぎりを作ることになった。
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