婚約者に浮気をしろと命令されましたが、浮気相手の魔術師様に溺愛されました

ハルアキ

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2、お相手

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 * * *

 侯爵令嬢、エミリア・ティアリートは悪女である。まだ婚約者という立場でありながら、図々しくも王宮で暮らしたいとわがままを言い出した。
 ウォーレン王太子の婚約者という地位を利用して好き勝手振る舞い、贅沢三昧の暮らしを満喫している。

 ――というのがウォーレンの筋書きである。
 エミリアは王宮になんてこれっぽっちも住みたくなかった。ウォーレンの近くで生活するくらいなら、路上で寝る方がまだ耐えられる。けれど彼がそうしろと言うのなら、従わなければならないのだ。
 エミリアは自室の寝台で身を起こし、ため息をついた。今に始まったことではないが、ろくに眠れもしない。悩み事が山とあるからだろう。

「エミリア様、ご体調はいかがですか」

 王宮まで一緒についてきた、侍女のリーナが心配そうな表情で近寄ってきた。きっと寝不足が顔に出ているのだろう。

「今日はまあまあ眠れた方よ、リーナ。気遣ってくれてありがとう。支度を手伝ってくれるかしら」

 リーナは頷き、用意を始めた。
 洗顔や着替えなどを済ませて、鏡台の前に座る。リーナはエミリアの髪を櫛で梳きながら、いつものようにぶつぶつと不満を口にし始めた。

 エミリア様はこんなに優しいお嬢様なのに、どうして悪女などという噂が立つのか、ちっともわかりません。こんなところ、一刻も早く出て行けたらいいのに。私が隣国の王子様だったら、エミリア様を救い出してあげられるのでしょうか。
 エミリアはそういった言葉を聞いて苦笑していた。

 リーナには詳しい事情を話していないから、いろいろと不思議に思っていることもあるだろうが尋ねてはこない。しかし何も聞かずにエミリアと一緒にこうして我慢してくれているのだから頭が下がる。

「そうだわ、リーナ。先日新しく就任されたという魔術師長様って、どんな方なのか知ってる?」

 お年を召した方だったらどうしようかしら、とエミリアはため息をついた。

「ルイス・ハルステラ様ですか? 大変見目よろしい方ですよ。あの若さで魔術師長になられるのだから、優秀なのでしょうね。侍女達がみんな噂しています」

 若いのね、とほっとしかけたが、相手の年齢がいくつであろうがあまり関係ないだろう。浮気は浮気だ。
 エミリアはこれから、その魔術師長に挨拶に行こうと思っている。ウォーレンからどの程度話を聞かされているのかわからないし、魔術師長がどういう気持ちでいるのかも知らないが、命令は絶対なのでエミリアは浮気をしに行かなければならない。
 まずは話をするところから始めるべきだろう。

「リーナ。そのハルステラ様に言付けを頼みたいのよ」
「ええ?」

 リーナは目をぱちぱちとまばたかせている。最初は驚いていたが、次第に沈痛な面持ちに変化していった。ああ、また何かあるんだ……と思っているのだろう。そしてそれがエミリアの意志でないこともわかっている。

「リーナ。この先何か起こるかもしれないけど、あまりびっくりしないでほしいの」

 主が不貞行為をするのだから驚くなというのが無理な話だろうが。
 しかし、リーナにあらかじめ説明しておくのも不可能だった。魔術師長様と浮気しなくてはならないのよ、とでも言おうものならさすがのリーナもどうしてですかと詰め寄るだろう。ウォーレン様の命令で、と口を滑らせたらこの主人思いの侍女は、命を捨てても王太子の首を取りに行くかもしれない。

「いつも言っているけど、私、自分に恥じるようなことは何もしていないつもりよ。それだけは信じて」

 鏡越しにリーナを見つめると、リーナは顔を歪めてうつむいた。目に涙が滲んでいるように見える。

「わかってます。何があっても、リーナはエミリア様の味方です。ここを追い出されるようなことがあれば、どこまでも私がついていきますから、ご安心ください」

 彼女は常日頃「役に立てなくて申し訳ありません」とエミリアに謝ってばかりいる。秘密を打ち明けてもらえるほどの力がないのを後ろめたく思っているらしいからこちらも辛い。

「ありがとう」

 エミリアがにっこり笑うと、リーナはごしごしと目元を拭って笑顔で応じた。

 * * *

 魔術師長という仕事についてはよく知らないが、おそらくかなり多忙なのだろう。王宮に押しかけてぶらついているとされている悪女よりは遥かに忙しいはずである。
 エミリアは魔術師長ルイス・ハルステラ氏に手紙をしたため、リーナに届けさせた。すぐに返事があり、午後になれば時間がとれるとのことだった。


 約束の時間が近づき、エミリアはリーナと共に居室を出た。

(浮気……って言っても、私、何をすればいいのかしら)

 また、己の手に目を落とす。今日も肘まで届く、白い手袋をはめていた。自分の部屋から出る時は、素手でいないよう気をつけている。

(殿方に、手も触れられたことがないというのに)

 父を除けば異性との触れ合いなどある時期から経験がなかった。指先にすら誰にも触れられていない。
 触れもしないで親密そうに見せるのは、果たして可能なのだろうかと考える。
 おそらく自分は、永遠に異性と接触することはない。理由があるのだ。そのおかげで、ウォーレンからも手出しされずに済んだのだから幸運に思うべきなのだろうが。

 あんまりため息をつくとリーナをまた心配させてしまう。エミリアは顎を引いて前を見据えると、目の前に広がる庭園を見渡した。
 魔術師長からは、室内ではなくて庭園でお茶でも飲みながら話をしましょうと提案されている。薔薇の咲く生け垣を横目に歩いていくと、ちょっとした茶会ができる小卓や椅子が並んでいるところが見えてきた。

「エミリア様」

 座っていた誰かが立ち上がり、こちらに軽く手をあげる。
 白いローブを着た青年だった。歳はわかりにくいが、十八の自分よりは年上かと思われ、大人の男性だ。襟足の長い銀髪に、澄んだ青い目。優しげな印象で、エミリアはやや肩の力を抜いた。

「お初お目にかかります。エミリア・ティアリートです。魔術師長様、この度は貴重なお時間をいただきまして……」
「まあ、そう堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。まずはお茶をどうぞ。外国から持ち帰ったもので、香りが大変良いものなんですよ」

 ふわりと笑うと、彼はエミリアに座るよう促した。
 侍従が茶の支度をする。柑橘系の果物が入っているらしく、爽やかな香りが漂った。ルイスが先に口をつけ、「うん、美味しい」と頷く。エミリアも緊張しつつ口に含んだ。スパイスのせいか、異国情緒を感じる風味である。

「では、内密な話もありますから、人払いをしましょうか」

 ルイスに言われ、エミリアはぎくりとした。確かに付き人に聞かせられる話ではない。ルイスが侍従に離れているように言い、同じように声をかけられたリーナだったが、彼女は憮然としていた。
 エミリアのことが心配で、離れるのは気が進まないらしい。地位のある役職の人間に逆らってはお咎めを受けるかもしれないのに。エミリアが焦って言うことを聞くように注意しようと口を開きかけた時、ルイスが言った。

「エミリア様の身の安全は必ず保証するよ。離れて見ているのは構わないから。そのために密室ではなくて、屋外を選んだんだ」

 優しく諭されたリーナは、渋々といった様子で離れていった。ただ、離れる前にエミリアに駆け寄って「何かあったら大声を出してください」と耳打ちするのは忘れない。
 二人きりになると、妙に気詰まりでエミリアは茶を一口飲んだ。

「よく知らない男と二人にさせるなんて心配でしょうからね。気持ちはわかります」

 嫁入り前の令嬢に何かあってはたまらない。ましてやエミリアは王太子の婚約者なのである。
 ルイスが笑うので、エミリアはぽつりと言った。

「でも、そんなこと気にしたって、仕方ありませんわ」

 体面なんてどうだっていい。すでにエミリアは悪女であるし、これからはもっと恥知らずな女となるのだ。

「……浮気の件ですか?」

 問われ、エミリアははっと顔を上げる。ルイスは、同情と自嘲が入り交じったような苦笑を浮かべていた。

「では、あなたも詳しいことをお聞きになっているのでしょうか」
「ええ、ウォーレンから」

 一瞬考えて、ルイスは訂正した。

「失礼。ウォーレン『殿下』から」

 その言い方がいかにも皮肉たっぷりだったのが意外であった。
 ひょっとすると、魔術師長はウォーレンと仲が良い可能性すらあるとエミリアは考えていた。ウォーレンが、不要になったエミリアを物のように魔術師長に下げ渡そうとしているのではないか、と。彼らが結託していたら、エミリアは非常に嫌な思いをすることになるので気が重かったのだ。

「もしかして、ハルステラ様も私と同じ……?」

 勇気を持って尋ねてみると、ルイスはゆっくり頷いた。それを見たエミリアは、全身から力が抜けそうになる。

 ――仲間が、いた?

「驚きましたよ。こういう目に遭っているのは、私だけだと思っていましたから。婚約者がいるとは聞いていましたが、まさかそこまで下衆な男だとは……」
「あなたは、どなたが人質に?」

 自分の声が震えているのがわかる。

「友人です。エミリア様は、妹君でしょうか」

 エミリアは手にしていた手巾を握りしめ、首肯した。

「話していただけますか」
「しかし、話すと妹が……」
「大丈夫。そのくらいのことは殿下も話すとわかっている上で私達を近づけたんですよ。同じ身の上ですからね。話したくらいであなたの妹君の呪いは暴走したりしないので、ご安心を。私は魔術師ですから、呪術については知識があります」

 ぐっとエミリアが唇を引き結ぶ。

 ――この国の王太子が「呪い」の力を持っていることを、一体どれほどの人間が知っているのだろうか。
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