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3巻
3-3
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「それで、お姉様を失ってもいいの?」
さらに切り込んだあたしの言葉に、ダンダリオル子爵が瞳を揺らした。それはお姉様を失いたくないと、心から訴えている瞳だった。
「お姉様が死んで、喜べるの?」
「そんなことできない!」
あたしの無遠慮な言葉に、ダンダリオル子爵が吠えるように言い返す。
「……でも、僕にできることなんて何一つ」
あたしは途中でそれを遮って、問いかけた。
「あなたは、爵位と情とのどちらを選ぶ人かしら」
「へ……?」
「お姉様を助けたいのはわたくしも同じ。だから共闘者になっていただきたいのです」
「僕にできることなら、なんでもするわ! あの人を失うのだけは耐えられへん」
それは恋する男の真正面からの言葉だった。そしてあたしは、それを信じた。
「そのご覚悟があるのならば。アナクレート様に、さりげなく揺さぶりをかけてほしいのです。本当に姫を殺しても大丈夫か、と」
忠告をされて逆上する人もいる。でも、それを聞いて迷いが生まれる人も多い。
多分、アナクレート様は迷っていたと思うのよね。だってそうじゃなかったら、本当に王位が欲しいのなら。政治的な才能を何一つ持っていないと言われている、第一王位継承者を、とっくの昔に蹴落としているはずだもの。
「迷いが生まれれば、ためらいが生まれれば。慎重なアナクレート様は、お姉様を竜宮へ送ること……つまり海に入れることを中止するかもしれないでしょう」
真顔になるダンダリオル子爵。アナクレート様への言葉を考えているだろう顔。
「……ほな、行ってくる」
立ち上がった彼は、決然としていた。戦う男の姿だった。
愛する人を助けるために戦う彼は、ゲームの中じゃなくてもとても素敵だと思った。
「ありがとう。教えてくれて。あの人を守れる」
彼はどうしようもなく儚い顔で笑った。
「二度は失えへんもの」
どういう意味かを聞く前に、彼は去っていった。足音高く、まっすぐに背中を伸ばして歩いていく彼は、たとえようもなく格好よかった。
「さすが人気投票第一位ね……格好いいわ」
あたしの呟きを聞いて、イリアスさんが問いかけてくる。
「なんですかそれ。お姫さんはあんな男が好みなんですかい」
「格好いいのと好みは別よ」
「ちなみに好みは」
「ごつくてむさくて汗臭いのがいいわ、笑顔が素敵なら完璧ね」
ヴァネッサがなんとも言いがたい顔をしていた。
「それは男性の好みとしてどうかと思います、二の姫様」
「誰もがシュヴァンシュタイン公爵様を好むと思うのは間違いよ。でもジャービス様は素敵よね」
それは普通の感覚だったらしい。ヴァネッサの顔がほっとしたものになったから。
「行くわよイリアス。ヴァネッサ。シャーラはあたしの部屋で留守番してちょうだい」
「どこに行くんです?」
「アナクレート様のところよ。いちかばちか、あたしもお願いをしに行くわ」
「できるんですかい」
「今までのあたしだったら、追い帰されて終わりね」
あたしの言い方に、何か疑問を持ったらしいイリアスさん。
「今までのあんただったら?」
「ええ。……〝ラジャラウトスの皇太子に求婚された英雄姫〟の言葉を、アナクレート様がどう聞くか、見ものね」
ろくでなしの王女じゃなくて、希代の英雄姫という肩書は重要だ。それに、エンデール様があたしに求婚してきたという事実は、アナクレート様だって知っているはず。だからあたしの言葉を無視するってことは、王位を狙っているアナクレート様にとって不利なことになるかもしれないのだ。
皇太子に求婚されるというのは、そういう箔が付くってことでもある。
あたしは今、とんでもない箔が付いていて、もしかしたら後ろにラジャラウトスがいるかもしれない、機嫌を損ねたらとても大変な相手なのだ。
ラジャラウトスのことを笠に着るなんて、普通は考えちゃいけないことだけれど。エンデール様だったら、あたしなんかがいいように利用したって、笑い飛ばすだけの気もするし。
あたしは虎の威を借る狐になることにした。それで大事な人を守れるんだったらそれでいいのだ。
神殿の脇にある大きな館がアナクレート様の拠点で、あたしの面会を希望する言葉は、するりと受け入れられた。
そのまま案内の小間使いに連れられて、執務室の前に行くと、何やら話し声が聞こえてきた。小間使いが戸惑った顔になる。どうやら予定外の来客らしい。
「あの、申し訳ございません、少々お待ちください」
小間使いの女性が、足早にどこかへ行く。あたしは話し声に耳を澄ませた。
「何を言い出すのかと思えば。バスチア一の知識を誇るとも言われるダンダリオル子爵が、こたびのことでそんなに心を痛めているとは知らなんだ」
「どうかお考え直しください。一の姫を失えば、国が乱れます」
「あの娘一人いなくなったからといって、何が変わる?」
「一の姫は次の王です」
「貴殿は本当に、女王がこの国を治められると思っているのか?」
「思います。クリスティアーナ姫は賢明な女性です」
「賢明な女性が、賢明な王になるとは限らない」
「それは男も同じでしょう?」
「まあな」
笑う声。そしてその声が静かに言う。
「そうか、ダンダリオル子爵は何も知らないのだな」
「はい……?」
ダンダリオル子爵の怪訝そうな声。あたしも、アナクレート様が何を言いたいのかがわからない。
「何も知らないことは悪いことではない。だが知ってしまったら戻れない。知識とは、えてしてそういうものだということは知っているか?」
「僕も何度か、そう思いましたよ」
「それならば一つ、ご忠告しておこう、後学のために」
「はい」
「あの娘を王位につけるつもりならば、貴殿はおれにとって排除の対象だ」
あたしはその時、後ろに下がりたくなった。すさまじい威圧感を感じたのよ。王様であるお父様以上の迫力。いいや、お父様はこんな風に、言葉一つで人を圧することなんてできない。
それに言葉の中身もとんでもないことだった。
言っていいことと悪いことがある。次期女王と言われているクリスティアーナ姫の味方になれば、排除の対象になるだなんて、これは間違いなく言ってはいけない類のものだ。
洒落にならないわ。いくらダンダリオル子爵が侯爵のご令息でも、王弟なんていう立場の人間にこんな風に脅されて、それでも意志を貫けるわけがない。
「な、ぜ」
それでもどうにか、疑問を投げかける。あたしは扉越しでも何も言えないんだから、直接対面していて言葉を発せるのはすごい。
「それはおれが真実を知っているからだ。そしてこの真実はあまりにも罪深い」
「教えていただけませんか?」
「だめだ。おれが敵だと知ることと、この真実では桁が違う」
アナクレート様はダンダリオル子爵に、その真実とやらを言う気がないらしい。
「大した神経だ」
イリアスさんがぼそりと言う。どっちの神経のことを言ったのかしら。
「お姫さん、アナクレート王弟殿下を生半な御仁だと思っちゃいけねえ。危険だ」
「今こうして立っているだけで、それは伝わってくるわ」
あたしとイリアスさんは小声でそんなことを言い合う。その間も、声は続く。
「一つだけ言えることは……バーティミウス姫の赤毛だ」
「は……?」
わけがわからないという声のダンダリオル子爵。
「そろそろ出ていけ。仕事が山のようにある。もう一組手が欲しいほどだ」
「……一の姫を竜宮へ捧げることはなりませんよ」
「どうだかな」
はっきりと退出を促されたダンダリオル子爵が出てくる。そしてあたしを見つけて、頭を下げた。
「お力になれないかもしれません」
その顔は青褪めていた。歯の根が合わないのか、カタカタと鳴っている。
「いいの。あなたはよくやってくれたわ」
あの扉越しでもとんでもない威圧感の中、言うべきことをちゃんと言えたのはえらい。すごい。
「わたくしも掛け合ってみるわ。ダンダリオル子爵、一緒にお姉様を助けましょう」
ダンダリオル子爵が、少し顔色を取り戻して笑った。
「ええ」
彼が一礼して去っていく。あたしは扉の前で息を吸う。そこで小間使いが戻ってきた。
「お待たせいたしました、二の姫様」
あたしは果たして、あれだけの力を感じさせる男の人と相対して、言いたいことを言えるかしら。
少しだけ怖くなる。でも迷いを振り切って、顎を引く。
「御屋形様、二の姫様がお待ちです」
扉が開かれる。あたしはまっすぐ、光のさす部屋に入っていった。
執務机で頬杖をついて書類を眺めている人がいる。あたしの息が止まりそうになった。
まず全身が分厚い気がする。それは脂肪とかじゃなくて、筋肉が骨をみっちりと覆っているからだと思う。手足はきっと長い。
パッと見の印象は、金色の獅子。濃すぎて茶色に見えそうな金髪には、緩く癖がついていて、鬣を彷彿とさせる。
一体どこの戦場でついたのかしら、目を引く向こう傷。額から目を通って頬に達する大きな傷。肌の色は日に焼けている。
あ、目が鮮やかな橙色をしていた。瞳孔の黒と虹彩の橙がはっきり分かれていて、ちょっと気圧されそうになる。この目に見つめられたら、気の弱い人は泣きそうね。
顔の造作は整っていて、お父様に少し似ている。でも気質の問題なのか、それとも環境のせいなのか、共通点を探さないと似ているって感じがしない。それでも渋い男前なのは明白ね。妙齢の女性がきゃあきゃあと取り巻いてもおかしくないわ。
そこで、彼と目が合った。
途端に血の気が引いた。それからかあっと、首や顔に熱が走っていく。
彼があたしを眺めている。それから、少しだけ唇を歪めて笑った。
皮肉な笑い方が、とても素敵だと思った。年齢がうまい具合に、いぶし銀のような魅力となっている。これはジャービス様とかシュヴァンシュタイン公爵様とかが持っていない強みだわ。なんでこの人攻略対象じゃないのかしらね。
「どうした、バーティミウス。神殿の生活が辛いのか?」
彼が開口一番そう言った。一度瞬いた目は、不思議なほど優しい。なんで嫌われ者の王女だったあたしに、そういう優しい目ができるのかしら。
「……お姉様を」
そんな優しい目の相手なのに、あたしはうまく言えないでいる。なんでかしら。
息を吸い込んで、言葉を探していく。アナクレート様は待っている。
膝が床につく。後ろのイリアスさんが息を呑む音が聞こえてくる。
あたしは土下座をして、ようやく言えた。
「お姉様を、海に沈めないで……!」
声は思った以上に悲痛な響きになった。もっと冷静に、クリスティアーナ姫を沈めるのがいかに不利益なのかを説明するはずだったのに。
「……お前はほんっとうに優しい女になったな」
彼が言う。……あたしに会ったことがあるのかしら。あたしが覚えていないだけ?
「でもだめだ。島の誰も、自分の娘を海に沈めたくはない。王族ってのはいざって時、民のために命を張るのが、偉そうなお椅子にふんぞり返っている代償だ」
「お姉様は次の女王です。王族がそうするべきだというなら、わたくしが」
「バーティミウス」
机から立ち上がって、あたしの前に座り込んで、アナクレート様が言う。
「そういうことを言ってはいけない。それにお前が海に沈めば、王家は役に立たない王女を切り捨てたという風評が流れる。お前に求婚してきていた、誰だ、えー、エンデール殿下も、相当に気を悪くするだろう。もしかしたら、愛する姫を殺したということで、この島の周辺に海軍を展開して、やたらめったら魔物討伐を始めるかもしれない。それは都合が悪い」
なんの都合が悪いというの。海の魔物を討伐するんでしょ、何がいけないの。
顔に出た疑問に、アナクレート様が答えてくれた。
「竜宮との盟約は、いまだ続いている。海の魔物が、どうしてバスチアの船に襲いかからないかを知らないんだな、お前は。あれはバスチアが人魚姫を差し出す代わりに、海の魔物に襲われないという交換条件なんだ」
だから、人魚姫を差し出さなきゃいけないというの。そんなのおかしい。だいたい、あの女衛兵は潮の流れがどうこう言っていたのに、アナクレート様はそんなことをこれっぱかりも言わない。
「それでも、嫌。お願い、お姉様を助けて」
「では他の娘に、代わりに死ねっていうのか? バーティミウス?」
それも嫌。
あたしは、アナクレート様が今回の決定を変えるつもりがないことを知った。
どうすればいいのか、あたしはずっと考えている。
このままクリスティアーナ姫のことを人魚姫として、海に沈めるのは嫌だ。
でも、あたしが身代わりになるという選択肢も選べない。アナクレート様の言葉が重い。
目を閉じれば、船の皆の顔が思い浮かぶ。あたしは何もできない。悔しくて、苛立つ。
そして何かが頭の中で引っかかっている。それはあと少しで引っかかりを外れて、あたしの中に落ちてくるはずで。でも何が引っかかっているのかすら、あたしにはわからない。
考え込んでいるあたしに、イリアスさんが言う。
「本当に、竜宮なんてもんが存在してんですかね」
「だって……竜宮との盟約で、海の魔物がバスチアの船を襲わないんだってアナクレート様が言ってたじゃない」
「そこが問題だ。アナクレート殿下は、本物の竜宮の主に会っているんですか?」
あたしはイリアスさんの言いたいことがわからない。何を言いたいの。
「だって、おかしいじゃないですか。海の魔物を統べるような大物が、人魚姫を一人捧げたからって、魔物をけしかけないようにしますか? それよりも、バスチアの船は魔物避けを飾っているから、魔物が寄ってこないだけなんじゃないですかね?」
「魔物避けって……」
あたしは初めて聞いた。でもこんなファンタジーの世界だから、ないとは言い切れない。
あたしがイリアスさんと出会ったのだって、魔物の一種に襲われたからだし。
「見ませんでしたか? 船首に飾られている、きらきらした石と金属の薄い板が、ひもでいっぱいぶら下げられているものを」
バスチアの船を思い出してみる。確かに、船首にそんなものがあった気がする。
「あれは魔物避けなんです。魔物と悪霊は、総じて金物の音が嫌いですからね」
あたしは震えそうになった。それが正しいのならば。
クリスティアーナ姫を竜宮へ沈めるということは、意味がないことだ。
「絶対とは言い切れません。絶対に魔物を遠ざけるものなんてない。でも、竜宮の主なんてものが本当に存在しているのかどうかも、俺たちは確かめようがないでしょう?」
あたしはイリアスさんを見つめた。そして推測を口に出す。
「もし……、竜宮の主なんてものがいなかったら……」
「ええ、女を海に沈める意味がない」
「でも、じゃあ、竜宮の使いって一体何者?」
「それをまず確かめましょう、お姫さん」
あたしは息を吐き出して、立ち上がった。
「そうね」
あたしの中で希望が光り出した。竜宮の主なんてものが幻想ならば、この儀式を無効化できる。
クリスティアーナ姫を助けられる。二度とこんな悲劇は起きない。
「行きましょう、イリアス。まずは漁師の人に話を聞きましょう」
「竜宮の使いを引き上げた漁師にですか?」
「ええ。竜宮の使いを引き上げた時の状況から、何かわかるかもしれないもの」
まずは行動しなくちゃいけない。大事な人を守るために、立ち止まり続けることはできないもの。
あたしの中にいる船の皆が、頑張れって、言ってくれた気がした。
神殿の外は、白い壁に青い窓枠の家々が並ぶ、とてもきれいな町並みだった。
明るい日光が、白い町をさらに白くしていく。
「整った町ね」
思わず呟いてしまうくらいに、きれいな町。
高いところにある神殿から、町は一望できた。どこまでも白い。そして、家々は四角い。屋上は洗濯物を干すための場所らしくて、衣服が風に翻っていた。
どこへ行けば、竜宮の使いを引き上げた漁師に会えるかを考える。
明け方に漁に出るんだったら、今は船や網の整備をしているはず。
「こっちね」
あたしたちは港に向かって坂を下りていく。時折階段も下りていく。
途中で子供たちが走っていった。楽しそうな子供の声。この町は平和だ。
でも、こんな声も聞こえてくる。
「人魚姫は一の姫だとか」
「美しいお姫様なのでしょう」
「向こう百年は海に人を沈めなくてよさそうだ」
町は、そんな噂で持ちきりになっているみたいだった。
「よくないわね」
「何が」
「民衆の勢いって怖いのよ。人魚姫の儀式を取りやめるって聞いて、暴動が起きることもありえるわ」
「そうですか」
「だからわたくしたちは、急いで竜宮の有無を調べなくちゃいけないわ。なかったら、それを積極的に広めなくちゃいけないもの。情報戦っていうのはそういうものだわ」
「また難しいことを言っている」
イリアスさんのぼやく声。メディアに囲まれて生きてきた地球人の考え方って、こっちとは相容れないのかもしれないわね。
船の行きかう繁栄した港は、それだけで一見の価値のある場所だった。
異国情緒漂うたくさんの船。商人たち。巡礼者たち。
あたしはあっちこっち見て回りたいのをこらえた。重要なのはそっちじゃない。
「おっさん」
イリアスさんが一人の男に声をかける。商人かしら。いろいろと背中にしょっている人だった。
「明けの使者を引き上げた人を知っているかい?」
「それなら今年は、ニーナだとか」
イリアスさんはそこからがすごかった。いろんな人に聞き回って、ものの十五分で、明けの使者……つまり竜宮の使いを引き上げた人の居場所を教えてもらったのだ。
「あっちの漁師小屋にいるって話です、行きましょうお姫さん」
「イリアスはすごいのね」
「旅慣れてるとこうなりますよ。聞きたいことだけ聞くっていう方法も覚えましょう」
「へえ」
あたしはイリアスの後をついていく。
そして到着したのは、普通の建物よりも若干造りの甘い小屋だった。
扉をノックする。何回も叩いても返事がない。
「開けましょう」
イリアスさんが扉を開ける。中で誰かが……って、あれ?
「エンデール様!?」
あたしは素っ頓狂な声を上げた。なんでいるのかわからないけど、エンデール様が上半身むき出しで髪を拭いていた。
彼の鍛え上げられた肉体を確認して、ばっと後ろを向いた。悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。
「あんた……扉叩いてんですから、返事ぐらいしてくださいよ」
イリアスさんが、あきれ果てた声で言う。エンデール様の言い返す声は笑っていた。
「しなくても害はない」
「お姫さん、びっくりしちまったでしょう」
「アリアなら構うまい」
エンデール様はあたしのことをアリアと呼ぶ。ミドルネームのアリアノーラを縮めた愛称だ。
「あんたなあ。侍従のサディさんはどうしたんです?」
「サディは調べ物に行かせた。俺は見ての通りだ」
「いや、見ても全然わかりませんよ」
「漁師の手伝いだ。終われば、明けの使者を引き上げた男に話を聞く予定だ」
その言葉に、あたしは驚く。
「ってことは、エンデール様はもう会っているの?」
「会ったが? アリアはなんの用事だ?」
「知りたいことがあるの」
「そうか」
建物の外にいるあたしに、しばらくしてからエンデール様が言った。
「アリア、もう見ても大丈夫だ」
あたしはほっとして中に入った。確かに漁師小屋ね。網とか銛とかいろいろあるし。
エンデール様は漁師の格好をしていた。それでも際立った容姿は目を引く。
こんな漁師がいたら女の子たちは全員惚れるわ。
「エンデール様。ごきげんよう」
あたしは貴族式の挨拶をした。スカートを持ち上げての一礼。
エンデール様はあたしを見ながら、挨拶じゃないことを言い始める。
「お前は顔色が悪いな。何か厄介事か」
「ええ。竜宮の有無が知りたくて」
エンデール様には嘘を言わない。言う理由がないもの。それにエンデール様は、いつだってあたしの心を裏切らないでいてくれる。
「明けの使者を信じないのか?」
「だって。なんで竜宮の使いが、人魚姫を人間に選ばせるの?」
「そういう方面から疑っているのか」
「エンデール様は違うのね」
「まあな」
それでもエンデール様も、何か知りたくて来たわけだ。
「どうしてこの島に?」
「この前の海賊討伐の船に同乗していた。ラジャラウトスの冬の首都に行く定期便が出るまでは、この島で少し骨休めをするのが慣習だ」
そんな会話をしていると、扉が開いた。
「お兄さん、待たせたな……おや、美人のお嬢ちゃんがいる」
顔を出した漁師の人は、四十過ぎのおじさんだった。
「あなたが竜宮の使いを引き上げたお方? こちらの方の次に、お話を伺ってもよろしいかしら?」
「一緒でも構わないけど」
「そうですか。エンデール様、ご一緒してもよろしくて?」
「俺は構わない」
あたしは、エンデール様の隣の椅子に座った。イリアスさんがそばに控える。
おじさんも、その辺の木の椅子に座った。
「ええと、なんだっけか? 竜宮のお宝についてのことだったような」
「そうだ。そこに、七つの民にまつわる宝はないか?」
「なんだそれは? 聞かないなそんな話は。でも、竜宮にあるのは普通の宝じゃないってのは聞く。世界を変えちまうとかなんとか」
「ほう?」
エンデール様が目を光らせた。猛禽の瞳が獲物を見つけたように。
「どんなふうに、世界を変える?」
「知らないさ。ただ世界を変えるという話しか聞かない。それ自体がなんなのかはさっぱりわからないんだ」
エンデール様は腕組みをして何やら考え込み始めた。
あたしは適度な頃合いを見計らって、その漁師さんに問いかけた。
「一つ伺ってもよろしいかしら。竜宮の使いはどんな生き物なの?」
「小型の海竜ですよ。赤いひれと青い鱗が特徴的です」
「喋れるの?」
「竜宮の使いが喋るとは、一度も聞いたことがない」
そうなのね。ということは、ただ偶然、網にかかっただけという見方だってできる。
あたしはさらに突っ込んで聞いた。
「ねえ、竜宮の使いは、人魚姫を捧げるように言ったの?」
「いや、言わない。竜宮の使いが引き上げられるってことが、竜宮が人魚姫を求めているっていう何よりの印だから」
「誰か、竜宮を見たことがある人はいる?」
「いなかったような」
漁師さんの言葉で希望が見えてくる。竜宮の存在は証明されていない。
あたしは身を乗り出して問いかける。
「竜宮の使いは、美しいお姫様を選べと言っているわけじゃないのよね?」
「まあそうだけれど」
そう。竜宮へ人魚姫を送るというのが、人間の思い込みの結果だってわかったわ。
後はこれをどう広めるか。ちょっと考えなくちゃ。
さらに切り込んだあたしの言葉に、ダンダリオル子爵が瞳を揺らした。それはお姉様を失いたくないと、心から訴えている瞳だった。
「お姉様が死んで、喜べるの?」
「そんなことできない!」
あたしの無遠慮な言葉に、ダンダリオル子爵が吠えるように言い返す。
「……でも、僕にできることなんて何一つ」
あたしは途中でそれを遮って、問いかけた。
「あなたは、爵位と情とのどちらを選ぶ人かしら」
「へ……?」
「お姉様を助けたいのはわたくしも同じ。だから共闘者になっていただきたいのです」
「僕にできることなら、なんでもするわ! あの人を失うのだけは耐えられへん」
それは恋する男の真正面からの言葉だった。そしてあたしは、それを信じた。
「そのご覚悟があるのならば。アナクレート様に、さりげなく揺さぶりをかけてほしいのです。本当に姫を殺しても大丈夫か、と」
忠告をされて逆上する人もいる。でも、それを聞いて迷いが生まれる人も多い。
多分、アナクレート様は迷っていたと思うのよね。だってそうじゃなかったら、本当に王位が欲しいのなら。政治的な才能を何一つ持っていないと言われている、第一王位継承者を、とっくの昔に蹴落としているはずだもの。
「迷いが生まれれば、ためらいが生まれれば。慎重なアナクレート様は、お姉様を竜宮へ送ること……つまり海に入れることを中止するかもしれないでしょう」
真顔になるダンダリオル子爵。アナクレート様への言葉を考えているだろう顔。
「……ほな、行ってくる」
立ち上がった彼は、決然としていた。戦う男の姿だった。
愛する人を助けるために戦う彼は、ゲームの中じゃなくてもとても素敵だと思った。
「ありがとう。教えてくれて。あの人を守れる」
彼はどうしようもなく儚い顔で笑った。
「二度は失えへんもの」
どういう意味かを聞く前に、彼は去っていった。足音高く、まっすぐに背中を伸ばして歩いていく彼は、たとえようもなく格好よかった。
「さすが人気投票第一位ね……格好いいわ」
あたしの呟きを聞いて、イリアスさんが問いかけてくる。
「なんですかそれ。お姫さんはあんな男が好みなんですかい」
「格好いいのと好みは別よ」
「ちなみに好みは」
「ごつくてむさくて汗臭いのがいいわ、笑顔が素敵なら完璧ね」
ヴァネッサがなんとも言いがたい顔をしていた。
「それは男性の好みとしてどうかと思います、二の姫様」
「誰もがシュヴァンシュタイン公爵様を好むと思うのは間違いよ。でもジャービス様は素敵よね」
それは普通の感覚だったらしい。ヴァネッサの顔がほっとしたものになったから。
「行くわよイリアス。ヴァネッサ。シャーラはあたしの部屋で留守番してちょうだい」
「どこに行くんです?」
「アナクレート様のところよ。いちかばちか、あたしもお願いをしに行くわ」
「できるんですかい」
「今までのあたしだったら、追い帰されて終わりね」
あたしの言い方に、何か疑問を持ったらしいイリアスさん。
「今までのあんただったら?」
「ええ。……〝ラジャラウトスの皇太子に求婚された英雄姫〟の言葉を、アナクレート様がどう聞くか、見ものね」
ろくでなしの王女じゃなくて、希代の英雄姫という肩書は重要だ。それに、エンデール様があたしに求婚してきたという事実は、アナクレート様だって知っているはず。だからあたしの言葉を無視するってことは、王位を狙っているアナクレート様にとって不利なことになるかもしれないのだ。
皇太子に求婚されるというのは、そういう箔が付くってことでもある。
あたしは今、とんでもない箔が付いていて、もしかしたら後ろにラジャラウトスがいるかもしれない、機嫌を損ねたらとても大変な相手なのだ。
ラジャラウトスのことを笠に着るなんて、普通は考えちゃいけないことだけれど。エンデール様だったら、あたしなんかがいいように利用したって、笑い飛ばすだけの気もするし。
あたしは虎の威を借る狐になることにした。それで大事な人を守れるんだったらそれでいいのだ。
神殿の脇にある大きな館がアナクレート様の拠点で、あたしの面会を希望する言葉は、するりと受け入れられた。
そのまま案内の小間使いに連れられて、執務室の前に行くと、何やら話し声が聞こえてきた。小間使いが戸惑った顔になる。どうやら予定外の来客らしい。
「あの、申し訳ございません、少々お待ちください」
小間使いの女性が、足早にどこかへ行く。あたしは話し声に耳を澄ませた。
「何を言い出すのかと思えば。バスチア一の知識を誇るとも言われるダンダリオル子爵が、こたびのことでそんなに心を痛めているとは知らなんだ」
「どうかお考え直しください。一の姫を失えば、国が乱れます」
「あの娘一人いなくなったからといって、何が変わる?」
「一の姫は次の王です」
「貴殿は本当に、女王がこの国を治められると思っているのか?」
「思います。クリスティアーナ姫は賢明な女性です」
「賢明な女性が、賢明な王になるとは限らない」
「それは男も同じでしょう?」
「まあな」
笑う声。そしてその声が静かに言う。
「そうか、ダンダリオル子爵は何も知らないのだな」
「はい……?」
ダンダリオル子爵の怪訝そうな声。あたしも、アナクレート様が何を言いたいのかがわからない。
「何も知らないことは悪いことではない。だが知ってしまったら戻れない。知識とは、えてしてそういうものだということは知っているか?」
「僕も何度か、そう思いましたよ」
「それならば一つ、ご忠告しておこう、後学のために」
「はい」
「あの娘を王位につけるつもりならば、貴殿はおれにとって排除の対象だ」
あたしはその時、後ろに下がりたくなった。すさまじい威圧感を感じたのよ。王様であるお父様以上の迫力。いいや、お父様はこんな風に、言葉一つで人を圧することなんてできない。
それに言葉の中身もとんでもないことだった。
言っていいことと悪いことがある。次期女王と言われているクリスティアーナ姫の味方になれば、排除の対象になるだなんて、これは間違いなく言ってはいけない類のものだ。
洒落にならないわ。いくらダンダリオル子爵が侯爵のご令息でも、王弟なんていう立場の人間にこんな風に脅されて、それでも意志を貫けるわけがない。
「な、ぜ」
それでもどうにか、疑問を投げかける。あたしは扉越しでも何も言えないんだから、直接対面していて言葉を発せるのはすごい。
「それはおれが真実を知っているからだ。そしてこの真実はあまりにも罪深い」
「教えていただけませんか?」
「だめだ。おれが敵だと知ることと、この真実では桁が違う」
アナクレート様はダンダリオル子爵に、その真実とやらを言う気がないらしい。
「大した神経だ」
イリアスさんがぼそりと言う。どっちの神経のことを言ったのかしら。
「お姫さん、アナクレート王弟殿下を生半な御仁だと思っちゃいけねえ。危険だ」
「今こうして立っているだけで、それは伝わってくるわ」
あたしとイリアスさんは小声でそんなことを言い合う。その間も、声は続く。
「一つだけ言えることは……バーティミウス姫の赤毛だ」
「は……?」
わけがわからないという声のダンダリオル子爵。
「そろそろ出ていけ。仕事が山のようにある。もう一組手が欲しいほどだ」
「……一の姫を竜宮へ捧げることはなりませんよ」
「どうだかな」
はっきりと退出を促されたダンダリオル子爵が出てくる。そしてあたしを見つけて、頭を下げた。
「お力になれないかもしれません」
その顔は青褪めていた。歯の根が合わないのか、カタカタと鳴っている。
「いいの。あなたはよくやってくれたわ」
あの扉越しでもとんでもない威圧感の中、言うべきことをちゃんと言えたのはえらい。すごい。
「わたくしも掛け合ってみるわ。ダンダリオル子爵、一緒にお姉様を助けましょう」
ダンダリオル子爵が、少し顔色を取り戻して笑った。
「ええ」
彼が一礼して去っていく。あたしは扉の前で息を吸う。そこで小間使いが戻ってきた。
「お待たせいたしました、二の姫様」
あたしは果たして、あれだけの力を感じさせる男の人と相対して、言いたいことを言えるかしら。
少しだけ怖くなる。でも迷いを振り切って、顎を引く。
「御屋形様、二の姫様がお待ちです」
扉が開かれる。あたしはまっすぐ、光のさす部屋に入っていった。
執務机で頬杖をついて書類を眺めている人がいる。あたしの息が止まりそうになった。
まず全身が分厚い気がする。それは脂肪とかじゃなくて、筋肉が骨をみっちりと覆っているからだと思う。手足はきっと長い。
パッと見の印象は、金色の獅子。濃すぎて茶色に見えそうな金髪には、緩く癖がついていて、鬣を彷彿とさせる。
一体どこの戦場でついたのかしら、目を引く向こう傷。額から目を通って頬に達する大きな傷。肌の色は日に焼けている。
あ、目が鮮やかな橙色をしていた。瞳孔の黒と虹彩の橙がはっきり分かれていて、ちょっと気圧されそうになる。この目に見つめられたら、気の弱い人は泣きそうね。
顔の造作は整っていて、お父様に少し似ている。でも気質の問題なのか、それとも環境のせいなのか、共通点を探さないと似ているって感じがしない。それでも渋い男前なのは明白ね。妙齢の女性がきゃあきゃあと取り巻いてもおかしくないわ。
そこで、彼と目が合った。
途端に血の気が引いた。それからかあっと、首や顔に熱が走っていく。
彼があたしを眺めている。それから、少しだけ唇を歪めて笑った。
皮肉な笑い方が、とても素敵だと思った。年齢がうまい具合に、いぶし銀のような魅力となっている。これはジャービス様とかシュヴァンシュタイン公爵様とかが持っていない強みだわ。なんでこの人攻略対象じゃないのかしらね。
「どうした、バーティミウス。神殿の生活が辛いのか?」
彼が開口一番そう言った。一度瞬いた目は、不思議なほど優しい。なんで嫌われ者の王女だったあたしに、そういう優しい目ができるのかしら。
「……お姉様を」
そんな優しい目の相手なのに、あたしはうまく言えないでいる。なんでかしら。
息を吸い込んで、言葉を探していく。アナクレート様は待っている。
膝が床につく。後ろのイリアスさんが息を呑む音が聞こえてくる。
あたしは土下座をして、ようやく言えた。
「お姉様を、海に沈めないで……!」
声は思った以上に悲痛な響きになった。もっと冷静に、クリスティアーナ姫を沈めるのがいかに不利益なのかを説明するはずだったのに。
「……お前はほんっとうに優しい女になったな」
彼が言う。……あたしに会ったことがあるのかしら。あたしが覚えていないだけ?
「でもだめだ。島の誰も、自分の娘を海に沈めたくはない。王族ってのはいざって時、民のために命を張るのが、偉そうなお椅子にふんぞり返っている代償だ」
「お姉様は次の女王です。王族がそうするべきだというなら、わたくしが」
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机から立ち上がって、あたしの前に座り込んで、アナクレート様が言う。
「そういうことを言ってはいけない。それにお前が海に沈めば、王家は役に立たない王女を切り捨てたという風評が流れる。お前に求婚してきていた、誰だ、えー、エンデール殿下も、相当に気を悪くするだろう。もしかしたら、愛する姫を殺したということで、この島の周辺に海軍を展開して、やたらめったら魔物討伐を始めるかもしれない。それは都合が悪い」
なんの都合が悪いというの。海の魔物を討伐するんでしょ、何がいけないの。
顔に出た疑問に、アナクレート様が答えてくれた。
「竜宮との盟約は、いまだ続いている。海の魔物が、どうしてバスチアの船に襲いかからないかを知らないんだな、お前は。あれはバスチアが人魚姫を差し出す代わりに、海の魔物に襲われないという交換条件なんだ」
だから、人魚姫を差し出さなきゃいけないというの。そんなのおかしい。だいたい、あの女衛兵は潮の流れがどうこう言っていたのに、アナクレート様はそんなことをこれっぱかりも言わない。
「それでも、嫌。お願い、お姉様を助けて」
「では他の娘に、代わりに死ねっていうのか? バーティミウス?」
それも嫌。
あたしは、アナクレート様が今回の決定を変えるつもりがないことを知った。
どうすればいいのか、あたしはずっと考えている。
このままクリスティアーナ姫のことを人魚姫として、海に沈めるのは嫌だ。
でも、あたしが身代わりになるという選択肢も選べない。アナクレート様の言葉が重い。
目を閉じれば、船の皆の顔が思い浮かぶ。あたしは何もできない。悔しくて、苛立つ。
そして何かが頭の中で引っかかっている。それはあと少しで引っかかりを外れて、あたしの中に落ちてくるはずで。でも何が引っかかっているのかすら、あたしにはわからない。
考え込んでいるあたしに、イリアスさんが言う。
「本当に、竜宮なんてもんが存在してんですかね」
「だって……竜宮との盟約で、海の魔物がバスチアの船を襲わないんだってアナクレート様が言ってたじゃない」
「そこが問題だ。アナクレート殿下は、本物の竜宮の主に会っているんですか?」
あたしはイリアスさんの言いたいことがわからない。何を言いたいの。
「だって、おかしいじゃないですか。海の魔物を統べるような大物が、人魚姫を一人捧げたからって、魔物をけしかけないようにしますか? それよりも、バスチアの船は魔物避けを飾っているから、魔物が寄ってこないだけなんじゃないですかね?」
「魔物避けって……」
あたしは初めて聞いた。でもこんなファンタジーの世界だから、ないとは言い切れない。
あたしがイリアスさんと出会ったのだって、魔物の一種に襲われたからだし。
「見ませんでしたか? 船首に飾られている、きらきらした石と金属の薄い板が、ひもでいっぱいぶら下げられているものを」
バスチアの船を思い出してみる。確かに、船首にそんなものがあった気がする。
「あれは魔物避けなんです。魔物と悪霊は、総じて金物の音が嫌いですからね」
あたしは震えそうになった。それが正しいのならば。
クリスティアーナ姫を竜宮へ沈めるということは、意味がないことだ。
「絶対とは言い切れません。絶対に魔物を遠ざけるものなんてない。でも、竜宮の主なんてものが本当に存在しているのかどうかも、俺たちは確かめようがないでしょう?」
あたしはイリアスさんを見つめた。そして推測を口に出す。
「もし……、竜宮の主なんてものがいなかったら……」
「ええ、女を海に沈める意味がない」
「でも、じゃあ、竜宮の使いって一体何者?」
「それをまず確かめましょう、お姫さん」
あたしは息を吐き出して、立ち上がった。
「そうね」
あたしの中で希望が光り出した。竜宮の主なんてものが幻想ならば、この儀式を無効化できる。
クリスティアーナ姫を助けられる。二度とこんな悲劇は起きない。
「行きましょう、イリアス。まずは漁師の人に話を聞きましょう」
「竜宮の使いを引き上げた漁師にですか?」
「ええ。竜宮の使いを引き上げた時の状況から、何かわかるかもしれないもの」
まずは行動しなくちゃいけない。大事な人を守るために、立ち止まり続けることはできないもの。
あたしの中にいる船の皆が、頑張れって、言ってくれた気がした。
神殿の外は、白い壁に青い窓枠の家々が並ぶ、とてもきれいな町並みだった。
明るい日光が、白い町をさらに白くしていく。
「整った町ね」
思わず呟いてしまうくらいに、きれいな町。
高いところにある神殿から、町は一望できた。どこまでも白い。そして、家々は四角い。屋上は洗濯物を干すための場所らしくて、衣服が風に翻っていた。
どこへ行けば、竜宮の使いを引き上げた漁師に会えるかを考える。
明け方に漁に出るんだったら、今は船や網の整備をしているはず。
「こっちね」
あたしたちは港に向かって坂を下りていく。時折階段も下りていく。
途中で子供たちが走っていった。楽しそうな子供の声。この町は平和だ。
でも、こんな声も聞こえてくる。
「人魚姫は一の姫だとか」
「美しいお姫様なのでしょう」
「向こう百年は海に人を沈めなくてよさそうだ」
町は、そんな噂で持ちきりになっているみたいだった。
「よくないわね」
「何が」
「民衆の勢いって怖いのよ。人魚姫の儀式を取りやめるって聞いて、暴動が起きることもありえるわ」
「そうですか」
「だからわたくしたちは、急いで竜宮の有無を調べなくちゃいけないわ。なかったら、それを積極的に広めなくちゃいけないもの。情報戦っていうのはそういうものだわ」
「また難しいことを言っている」
イリアスさんのぼやく声。メディアに囲まれて生きてきた地球人の考え方って、こっちとは相容れないのかもしれないわね。
船の行きかう繁栄した港は、それだけで一見の価値のある場所だった。
異国情緒漂うたくさんの船。商人たち。巡礼者たち。
あたしはあっちこっち見て回りたいのをこらえた。重要なのはそっちじゃない。
「おっさん」
イリアスさんが一人の男に声をかける。商人かしら。いろいろと背中にしょっている人だった。
「明けの使者を引き上げた人を知っているかい?」
「それなら今年は、ニーナだとか」
イリアスさんはそこからがすごかった。いろんな人に聞き回って、ものの十五分で、明けの使者……つまり竜宮の使いを引き上げた人の居場所を教えてもらったのだ。
「あっちの漁師小屋にいるって話です、行きましょうお姫さん」
「イリアスはすごいのね」
「旅慣れてるとこうなりますよ。聞きたいことだけ聞くっていう方法も覚えましょう」
「へえ」
あたしはイリアスの後をついていく。
そして到着したのは、普通の建物よりも若干造りの甘い小屋だった。
扉をノックする。何回も叩いても返事がない。
「開けましょう」
イリアスさんが扉を開ける。中で誰かが……って、あれ?
「エンデール様!?」
あたしは素っ頓狂な声を上げた。なんでいるのかわからないけど、エンデール様が上半身むき出しで髪を拭いていた。
彼の鍛え上げられた肉体を確認して、ばっと後ろを向いた。悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。
「あんた……扉叩いてんですから、返事ぐらいしてくださいよ」
イリアスさんが、あきれ果てた声で言う。エンデール様の言い返す声は笑っていた。
「しなくても害はない」
「お姫さん、びっくりしちまったでしょう」
「アリアなら構うまい」
エンデール様はあたしのことをアリアと呼ぶ。ミドルネームのアリアノーラを縮めた愛称だ。
「あんたなあ。侍従のサディさんはどうしたんです?」
「サディは調べ物に行かせた。俺は見ての通りだ」
「いや、見ても全然わかりませんよ」
「漁師の手伝いだ。終われば、明けの使者を引き上げた男に話を聞く予定だ」
その言葉に、あたしは驚く。
「ってことは、エンデール様はもう会っているの?」
「会ったが? アリアはなんの用事だ?」
「知りたいことがあるの」
「そうか」
建物の外にいるあたしに、しばらくしてからエンデール様が言った。
「アリア、もう見ても大丈夫だ」
あたしはほっとして中に入った。確かに漁師小屋ね。網とか銛とかいろいろあるし。
エンデール様は漁師の格好をしていた。それでも際立った容姿は目を引く。
こんな漁師がいたら女の子たちは全員惚れるわ。
「エンデール様。ごきげんよう」
あたしは貴族式の挨拶をした。スカートを持ち上げての一礼。
エンデール様はあたしを見ながら、挨拶じゃないことを言い始める。
「お前は顔色が悪いな。何か厄介事か」
「ええ。竜宮の有無が知りたくて」
エンデール様には嘘を言わない。言う理由がないもの。それにエンデール様は、いつだってあたしの心を裏切らないでいてくれる。
「明けの使者を信じないのか?」
「だって。なんで竜宮の使いが、人魚姫を人間に選ばせるの?」
「そういう方面から疑っているのか」
「エンデール様は違うのね」
「まあな」
それでもエンデール様も、何か知りたくて来たわけだ。
「どうしてこの島に?」
「この前の海賊討伐の船に同乗していた。ラジャラウトスの冬の首都に行く定期便が出るまでは、この島で少し骨休めをするのが慣習だ」
そんな会話をしていると、扉が開いた。
「お兄さん、待たせたな……おや、美人のお嬢ちゃんがいる」
顔を出した漁師の人は、四十過ぎのおじさんだった。
「あなたが竜宮の使いを引き上げたお方? こちらの方の次に、お話を伺ってもよろしいかしら?」
「一緒でも構わないけど」
「そうですか。エンデール様、ご一緒してもよろしくて?」
「俺は構わない」
あたしは、エンデール様の隣の椅子に座った。イリアスさんがそばに控える。
おじさんも、その辺の木の椅子に座った。
「ええと、なんだっけか? 竜宮のお宝についてのことだったような」
「そうだ。そこに、七つの民にまつわる宝はないか?」
「なんだそれは? 聞かないなそんな話は。でも、竜宮にあるのは普通の宝じゃないってのは聞く。世界を変えちまうとかなんとか」
「ほう?」
エンデール様が目を光らせた。猛禽の瞳が獲物を見つけたように。
「どんなふうに、世界を変える?」
「知らないさ。ただ世界を変えるという話しか聞かない。それ自体がなんなのかはさっぱりわからないんだ」
エンデール様は腕組みをして何やら考え込み始めた。
あたしは適度な頃合いを見計らって、その漁師さんに問いかけた。
「一つ伺ってもよろしいかしら。竜宮の使いはどんな生き物なの?」
「小型の海竜ですよ。赤いひれと青い鱗が特徴的です」
「喋れるの?」
「竜宮の使いが喋るとは、一度も聞いたことがない」
そうなのね。ということは、ただ偶然、網にかかっただけという見方だってできる。
あたしはさらに突っ込んで聞いた。
「ねえ、竜宮の使いは、人魚姫を捧げるように言ったの?」
「いや、言わない。竜宮の使いが引き上げられるってことが、竜宮が人魚姫を求めているっていう何よりの印だから」
「誰か、竜宮を見たことがある人はいる?」
「いなかったような」
漁師さんの言葉で希望が見えてくる。竜宮の存在は証明されていない。
あたしは身を乗り出して問いかける。
「竜宮の使いは、美しいお姫様を選べと言っているわけじゃないのよね?」
「まあそうだけれど」
そう。竜宮へ人魚姫を送るというのが、人間の思い込みの結果だってわかったわ。
後はこれをどう広めるか。ちょっと考えなくちゃ。
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