君と暮らす事になる365日

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その後ささやかな意見のすり合わせが行われた結果、冷蔵庫を買い直す事がどうしてか決まった。
いったいどうしてそうなったんだろう……と思うのは依里だけではあるまい。
だがキッチンの主にジョブチェンジしたかのような晴美が、全く諦めなかったのだ。

「前の彼女の家では、彼女に皆決定権があったから、言った事ないけど、ヨリちゃんにも美味しいご飯を毎日食べてほしいから、冷蔵庫くらい買わせてよ!」

という事らしい。

「前の彼女の家では、冷蔵庫新しくしなかったのか?」

「そう! あの子に聞いてみたんだけど、やだ、って言われちゃって。よく分からないけど、冷蔵庫大きいと便利なの、分かってもらえなかったんだ」

分かってもらえなかったのか。依里も実はよく分かっていない物の最近の冷蔵庫は限りなく進化しているらしい。
大きくても、小さい冷蔵庫と同じくらいの電気しか使わないとか、野菜がいつでもフレッシュであるとか、そんなのだ。
まさかそんな大型家電を、この男にプレゼンされるとは……人生何が起きるかわからない。
しかしながら晴美は、依里がいいと言ったため、鼻歌なんか歌いながら、この冷蔵庫、あの冷蔵庫、と欲しいものをより抜き始めている。
こうなったら絶対に買うんだよなあ……こいつぶれないからなあ……なんて長年の付き合いで知っているため、ただ一言こういう事にした。

「晴美」

「なあに? ヨリちゃんも欲しい冷蔵庫あるの?」

「アイスが、そこそこ入る冷凍庫のあるやつにしろよ」

その言葉を聞き、晴美はぱっと顔を明るくし、大きく頷いた。

「うん!」

そして大体予算との兼ね合いもあり、候補が三つに絞られたらしい。

「やっぱ国内メーカーが、細かいところ面白いから、いいよねえ」

「国産にするのか?」

「そうだよ! 野菜フレッシュな野菜室とか、素敵じゃん」

こいつ、大量にまとめ買いする予定だな。
まとめ買いして、冷凍庫にもたらふく食材を詰め込むつもりだな。
そんな事を言外に察知した依里であるが、自分に迷惑が掛かるわけではない。
ただし。

「搬入がいつになるのかくらいは、ちゃんと知らせろよ、休みにいきなり冷蔵庫がやって来るとか、心臓に悪いからな」

「うん、わかった」

そう言いながら、晴美がよいせと立ち上がる。

「ヨリちゃんご飯食べられるくらい、お腹空いた?」

「まだ空かない」

昼を食べたのは五時間以上前である。だが疲れてしまったからなのか、あまり空腹を感じないのだ。
そんな彼女の顔を見て、晴美は小鍋で何やら湯を沸かし始める。
何作るの、と聞かなくても、近隣の迷惑になる事にはならないだろう。
依里はそんな事を思いながら、引っ越しのために取った有給の使い方を考えた。
荷物もあるし、二日がかりになるかと思って、有休をとったのだ。
だが台所の片付けを、晴美が瞬く間に終わらせてしまったので、予定が少しずれたのだ。
明日は何をしよう……自室の片付けは終わったのだし……ゆっくり体を休めたい。
そんな事を思っていると、彼女の前に、ことりとマグカップが置かれる。
刺激的なスパイスの香り、いかにも異国情緒の香りだ。
これは一体……と思いながらも見た目はミルク入りの紅茶だ。

「疲れた時には、甘いチャイが心にしみるよ」

晴美があっけらかんという。幼馴染は、自分の分も用意したらしい。

「甘くなくてもそこそこいけるけどね」

言いながら、晴美はそのまま、自室に引っ込んでしまった。おそらく依里が、一人になりたいと察したのだ。
あいつ変な所で察しがいいんだよな、……なんて思いつつ、依里はその、甘いチャイを口に入れた。スパイスの鼻に抜ける香りが強く、喉を生姜だろうか、そんな風味が通っていく。
温かい甘い飲み物だ。たしかにこれは、心の癒しになるかもしれない。
いったいどこで、そんな知恵を仕入れてきたのやら。
そんな事を考えながら、依里は仕事に戻った時に溜まっているだろう、入力まちの書類の事を考えて、少しだけげんなりしていた。



「律儀な奴」

翌日たっぷりと寝て過ごした依里は、冷蔵庫に張り紙がされていたため、扉を開けてみた。
冷蔵庫の中段には、依里が百均で買ったはいいものの、使い道が全くなかったトレイが入っており、そこにおわんと漬物が乗っていた。
お椀の中には、綺麗に握られたおにぎりが入っている。胡麻と海苔を散らしたものだ。
そしてコンロには、何かが入っているお鍋が置かれてもいる。

「温めて食べろってか」

依里はそんな独り言を言いつつ、張り紙を読む。
なるほど、おにぎりの中には焼き鮭が入れられているらしい。そして出汁が鍋に入っているから、それを温めて出汁茶漬けにするとおいしいらしい。
まあ、起きる時間の合わない相手に対する伝言だから、こんなものだろう。依里は書かれた通りにコンロの火を点け、出汁を温めておにぎりをレンチンした。こんな時に、電子レンジ対応の漆器もどきを買っていてよかったな、とどことなく思う。
柔らかな出汁の香りが鼻をくすぐるほど温めて、依里はおにぎりの入ったお椀にそれを注いだ。
そしておにぎりをスプーンでほぐしながら食べて行くと、あの幼馴染が、意外と手を加えたのだな、とわかった。
おにぎりはただ握ったのではなく、少し焼き目が付けられていて、それが出汁と相まって香ばしく、食べやすかったのだ。海苔と胡麻の風味も程よく、ちょっとしたお店で食べるような仕上がりだ。
家で迄本気を出さなくったって、依里は怒ったりしないのに。
それともあれか、元カノの家ではいつでも丁寧に作らないと、文句を言われていたとかいうんじゃないだろうな。
最後に出汁まで飲み干して、依里は口直しに漬物を口に含んだ。
これもさっぱりとした物で、塩気もほどほど、強烈な塩辛さなどはない、味のいいお漬物だった。きっとこれは浅漬けの類だろう。昨日買った物の中に、出来合いの漬物がなかった事を、依里はちゃんと見ていたのだから。
食事をして、それから家の掃除をし、さてどうしよう。依里はそんな事を思いながらも、この住居の近辺を、まだ散歩もしていないし、それに優先するべきは、住所変更だな、と時計を見ながら判断した。
引っ越しが決まってからすぐに、ガスも電気も水道も手続きをしたため、実際に引っ越す日に、業者が立ち会う事はなかったが、転居届はまだだった。
よし行こう。
着慣れたシャツにパーカー、肌寒いのでその上にコートを羽織り、ボトムはこれも愛用のジーパン、といったしゃれっ気皆無のいでたちに着替えた依里は、さっそくスマホを起動して、市役所の場所を検索し、必要なものをまとめて家を出た。




思ったよりも疲れるものだな、と思うのが正直な感想だった。
実家を出た時も、たぶん似たような事を思った気がする。
市役所で手続きを済ませ、依里はのんびりと道を歩いていた。
歩きやすい道、たぶん自転車で走り回っても楽しそうである。
今度自転車であちこちを散策しよう、なんて予定を膨らませていた時の事だ。
彼女の視界の片隅で、不意に車が止まり、中から老婦人が現れて、困ったように周りを見回したのは。
どうしたんだろう、このご時世で道に迷ったのか? きっとカーナビだってあるはずなのに……というかあのお婆さん、運転席じゃない場所から出てこなかったか?
そんな事を考えたその時だった。
止まった車の運転席から、いかにも運転手です、といった黒いスーツの男性が現れて、そのお婆さんに話しかけ、お婆さんが首を振ったのは。
ちょっと気になる、話しかけてみようか? でも揉め事に巻き込まれたらごめんだな……と思った矢先だ。

「あの、あなた! ちょっといいかしら!」

そのお婆さんが、彼女に話しかけてきたのは。いったい何事なのか、切羽詰まった声で話してくるものだから、依里は無視できずに立ち止まった。

「なんでしょうか……?」

依里は、いざという時に走って逃げられる距離をとろうと努めながらも、彼等に近寄った。

「あなた、お願いよ、お礼はするから、一緒に来てもらえないかしら!」

「ええ……と、なんのためにでしょう?」

なんか明らかに厄介ごとだな、と依里はあまり鋭くない直感でも判断した。
しかしその老婦人は、本当に困り果てた顔をしていて、さらに運転手の人もお婆さんを止める気配がなかった。

「……お話によるんですけれども、それでもよろしければ」

「孫を、孫を助けてほしいのよ!」

「孫を助ける?」

お孫さんがいるのか、とそこでわかったものの、だからハイ、とすぐに依里は頷けなかった。
しかし、彼女を見ていると、依里はもう亡くなってしまった、優しかった祖母の事を思い出してしまう。
お婆さんの助けになりたいな、と思ってしまったのだ。

「お孫さんはどうしたんですか? お困りごとなら、警察を頼んだ方がいいかもしれませんが……」

「詳しい話は車の中でさせていただくわ、お願い、協力してちょうだい!」

きっとこれは、見ず知らずの相手じゃないと頼めない世界の話なのだな、と依里でもわかる空気をにじませ、彼女が頭を下げる。そして運転手が、頭を下げた女性を見て、かなりぎょっとしている。
運転手がいる事と言い、このお婆さんかなりのお金持ちだったりするのか……?
そんな事を頭の片隅で思いつつ、依里は結局、頷いた。

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