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Chap.35
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午前中の授業が終わっての家への帰り道、菜園に差しかかったあたりで、不意に竜の目の前に透明の泡のようなものが現れた。メッセージだ。あれっと声を上げた竜をエミルが不思議そうに見た。
「どうした?」
「メッセージです。誰でしょう」
指でそっと触れると泡は音もなく割れて、コールの声が聞こえた。
「竜。コールです。これを聞いたら健太に魔法で連絡してあげてくれるかな。どうしても今話したいことがあるんだって。それじゃ」
コールの声からは、何か大変なことがあったとか火急の用事とか、そういう緊迫感のようなものは聞き取れなかった。どちらかというと、苦笑混じりといった感じの声だった。なんだろう。竜はエミルを見た。エミルが眉を上げる。
「コールからでした。健太に魔法で連絡してあげてくれって。健太が何か話したいことがあるみたいです」
「そうか。じゃ、先に行ってるよ」
別にいてくれたって構わないんだけどな、と思いながらエミルの背中を見送った竜は、健太に魔法電話をかけた。
「健太?」
「あ、竜!やっと繋がった」
健太の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「やっと?」
「うん。最初にレイに頼んだんだ。竜に魔法でコンタクト取って、って。そうしたらレイが、魔法電話はできないから、メッセージを送るって言って。でも難しくてなかなかできなくてさ、結局コールに普通の電話をして、コールから竜にメッセージを送ってもらったんだ。魔法電話もメッセージも、ずいぶん難しい魔法なんだね。竜やスティーブンが普通に使ってるから、そんなに難しいなんて気づかなかった。竜ってやっぱりすごいんだね」
「そんなことないよ。今日は試合じゃなかったっけ?」
勝手口からわざわざUターンして戻ってきたライラを撫でながら竜は訊いた。
「うん、午後からね。さっき練習が終わって、お昼ご飯食べてたんだ。竜は?」
「さっきまで勉強してて、これからご飯だよ」
「そっか。じゃあちょうどよかった。身体の調子はどう?」
「うん、もうすっかり回復したよ」
「魔法は?」
「そっちも大丈夫」
「よかった。じゃ、ちゃんと記憶を持って帰れるんだね」
竜の胸がちくりと痛んだ。
「うん…」
「そっか。よかった」
健太はふっと息を吐いた。
「…あのさ、竜に頼みたいことがあるんだ」
「いいよ。なに?」
健太は思い切るように一呼吸して、
「僕、こっちに残りたいんだ。昨日の帰りの汽車の中でも、帰ってからも、夜もずっと考えてて…。ここに残りたいんだ。車椅子の生活には戻りたくない。ずっとこっちで歩いたり走ったりバスケしたり…。僕は魔法ができないし、だから、一度向こうに帰っちゃったら二度と戻って来られない。だから、だから、」
健太はまるで竜に口を挟ませまいというように、早口で話し続けた。
「ママとパパに手紙を書いてちゃんと詳しく説明するよ。竜にその手紙を渡すから、それをママに渡して欲しいんだ。二人ともきっと僕の気持ちをわかってくれると思う。で、ママに手紙を渡す時にね、他の人に僕がいなくなったなんて知られると大騒ぎになっちゃうから、ママと二人だけになって渡さないとだめだと思うんだ。それで、ママは他の人たちに見られないようにすぐ車でキャンプ場を出て、後からすぐキャンプの委員の人に電話して、おばあちゃんの具合が急に悪くなったって電話がきたから急いで帰らなきゃいけなくなったって言うんだ。そういうことも全部僕が手紙に書くから大丈夫。だから、えっと…、うん、それが頼みたいことなんだ。僕からの手紙を、向こうに帰って、ママに渡してもらえる?」
「…いいけど…」
竜は白い雲が平和にぷかぷか浮かんでいる空を見上げた。洒落た白い服を着た健太の母の姿が頭に浮かぶ。
「健太のお母さん、すごいショックだと思うよ。パニックになったり、気を失っちゃったりしないかな…」
「うん…。手紙を渡すときに、まず、落ち着いて、パニックになったり気を失ったりしないように、って言うとか…。僕も手紙の一番最初にそう書くよ」
「うん…」
本でも映画でもそういうシーンはあるけど、たいてい相手は泣いたり、怒ったり、パニックになったり、気を失ったりするものだ。
「ごめん。竜にすごい迷惑かけちゃうのはわかってる。でも他にどうしたらいいかわからなくて…」
健太の声が心細そうに小さくなる。
「どうしたら一番いいか、よく考えよう。なんて言ったらいいか、とか細かいとこまでちゃんと考えておくほうがいいと思うよ。手紙に書くことも、うんとよく考えないと」
励ますように竜が言うと、健太は少し黙ってから言った。
「竜…反対しないの?僕が帰らないこと」
「だって…反対できる立場じゃないもの。僕だってこっちに移住するんだしさ。人のこと言えないよ」
ちょっと冗談めかして言うと、健太の声も少し明るくなった。
「ありがとう、竜」
「でもさ、その後のこと考えた?行方不明ってことになっちゃうんだよ」
「うん…。パパとママ二人で、カナダにできるだけ早く発てばいいんじゃないかなって思うんだけど。今なら夏休みだから、僕の友達とかにも知らせずに行っても、そんなに変じゃない、と、思う…」
竜と健太は同時にため息をついた。
「やっぱり変だよそれは」
「変だよね、やっぱり」
「だって、仲良いんでしょ。友達とか、チームメイトとかさ」
「うん…でも、親の都合で急に行かなきゃならないことになって、しかもおばあちゃんが具合悪くなったりでバタバタしてて、ってことなら…」
「うーん…まあ、ねえ…」
「カナダからメール出せばいいかな。もちろんママにやってもらわなきゃいけないんだけど。そうか、みんなのアドレスとかもママに知らせておかなきゃ…ああ、僕のケータイ見ればいいよね。あ、ケータイ、キャンプに預けたままだ」
「それはキャンプの人が送ってくれるよきっと。あ、あと僕と健太のお母さんが連絡取れるようにしておく方がいいよね。僕はたまに向こうに帰るわけだし」
「うんうん。で、その時に僕の写真とか手紙とかを竜に持ってってもらえたら…」
二人はレイが健太を呼びに来るまで、ああでもないこうでもないと話し合い、計画を練った。退屈したライラは、辺りを歩き回っては時折竜の方を見て、まだ話してる…とため息をつきたげな顔をしていた。
「あ、ごめん、竜。僕もう行かないと。これから車で練習試合の場所に行くんだ。…うん、レイ、今行くよ。…ごめんね、また夕方話せる?」
「いいよ。何時ごろ?」
「5時ごろは?」
「いいよ。じゃ、5時に魔法電話するよ」
「ありがとう竜。じゃあね」
「うん、またね。試合頑張って」
「ありがとう。竜も勉強頑張ってね」
「うん、ありがとう」
魔法電話を切って、竜は大きく息をついた。やっと終わったの?早く帰ろ、と走り寄ってきたライラをもふもふ撫でる。またため息が出る。なんだかちょっと大変なことになってきた。
ランチのテーブルでエミルとマリーに健太のことを話すと、二人とも無言で竜
をじっと見つめた。数秒間、竜がパリパリもぐもぐとサラダを食べる音だけが聞こえた。
「竜…そんなこと無理よ…」
マリーが眉根を寄せて首を振った。竜は驚いてマリーを見た。無理?また何か、僕の知らない魔法の法則とかこの世界の規則とかの話なんだろうか。
「そんな…そんなこと…。健太君のお母さんは、二度と健太君に会えないのよ。それを竜が伝えるの?あなたはもうあなたの息子に二度と会えません、って?」
「まさか。そんな言い方はしません…」
「どんな言い方をしたって同じことよ」
「それに健太も手紙を書くし…」
「手紙なんて…」
マリーは大きなため息をついた。
「…それは、健太君が車椅子の生活に戻りたくないって言うのはわかるわ。もちろん、自分の足で歩いたり走ったりしていたいでしょう。バスケもね。でも、そんな…」
竜は思い切って反論してみた。
「でも、僕だって移住するんですよ」
「竜は自分でご両親を説得するのでしょ。それにいつでも向こうに帰れるわ。健太君のご両親は、健太君自身と話せないまま、突然、なんの心構えもないままに、もう二度と健太君と会えなくなってしまうのよ。そんなことを伝えられたときに、どんなにショックを受けるか…」
「でも、普通に移住する人たちよりもマシでしょう。手紙があるし、僕もちゃんと説明するし…」
「そんな話を簡単に信じられるわけないわ」
竜はため息をついた。
「それは…僕もそう思います。だからちょっと心配なんです。戻ったら向こうは朝です。まず健太のお母さんを探して、なんとか二人だけで話せるようにして…健太からサプライズプレゼントがあるとかなんとか言って…、それで健太の手紙をまず渡して…でもものすごく長い手紙になると思うから、そこでまず読むのに時間がかかるでしょう。読み終わっても信じてくれないとしたら、僕がまたそこで色々たくさん説明しなきゃいけない。それでも信じてくれないかもしれない。そんなことしてるうちに時間がどんどん経って、みんなが変に思い始めて、健太が行方不明になった、なんて大騒ぎになって…」
「そうなったらどうする」
エミルが難しい顔で訊く。
「…まだそこまで考えてません。とにかく健太のお母さんが、みんなに健太と一緒じゃないのを見られずにキャンプ場を出てくれないと困るんですけど…できるかどうか」
「竜と健太君が一緒にいたのはみんな知ってるのか」
「ええ、まあ。だから、もし計画通りにいかなかったら、健太がいないことについてみんなに説明できるように、何か作り話をしないと…。健太が自分で歩けるんだったら、例えば、二人で外のベンチに座っておしゃべりしていて、僕がいつの間にか眠ってしまって、目が覚めたら健太がいなくなっていた、とかでもいいんでしょうけど、車椅子だし、ちょっとそういうわけにもいかないかなあって…。車椅子じゃ、舗装された道しか使えないわけだし、一人で山の中に入っていった、なんてことにはできませんし」
「それに、健太君自身の書いた手紙があるからね。しかも竜も自分の日記を持って帰るだろう。取り上げられて、読まれて、これは一体どういうことなんだ、っていうことになるかもしれないな。二人とも同じこと、つまりこっちの世界のことを書いているんだから」
「……」
そうだ。手帳だけじゃない。カールの魔法も取り上げられてしまうかもしれない。人が一人行方不明になっているんだから、警察だって手に入る手がかりはなんでもきっちり調べるだろう。竜はまたため息をついた。
「…思ったより、難しそうですね」
エミルとマリーが深刻な顔で頷いた。
でも、やらなくちゃ。竜はそっと唇を噛んだ。できないなんて言うわけにはいかない。
午後の勉強は、午前中ほどうまくいかなかった。どうしても、健太なしで向こうに帰ったらどうなるか、どうやって速やかに健太の母にわかってもらってキャンプ場から出てもらうか、という方に思考が彷徨い出てしまうのだ。それはエミルも同じだったようで、休憩を取るたびに、申し合わせたように話題は健太のことに戻った。
「手紙を見せずに、健太のお母さんに、健太からのサプライズがあるから車に乗ってください、ってまず言っちゃったらどうでしょう。それで、車の中で手紙を見せるんです」
「車はどこに置いてあるんだ?」
「キャンプ場よりも下の方にある駐車場です」
「…まあそれは一つの手だな。でも駐車場で車の中にいるところをキャンプの他のメンバーに見られたらどうする」
「まあ、可能性はありますけど、でもキャンプ場で手紙を見せたりしてぐずぐずしているよりは、見られる可能性はずっと低いです。荷物は置いていくことになってしまうけど、でもそれはキャンプの委員とか他のメンバーが後で送ることができるし…。でも携帯電話だけは絶対に一緒に持ってきてもらわないと。だから、『健太からサプライズがあるので、携帯と車の鍵だけ持って、駐車場に来てください』って言うのが一番いいかな…、あ、財布もか…。『健太からのサプライズがあるので、携帯と車の鍵と財布だけ持って一緒に来てください』…うーん、ちょっと不自然ですよね…」
エミルがため息をついて首を振った。
「竜…。なんだか…心配だよ」
竜は苦笑した。
「僕もです。でも、やってみるしか…あ、そうか、駐車場で話さなくったって、車を出してもらって、どこか少し離れたところまで行って車を停めて、そこで手紙を渡せばいいんだ。その方が安全ですよね」
「健太君のお母さんってどんな人だ。冷静に話を聞いてくれそうな人か」
竜はうーんと唸った。
「会ったばかりだからはっきりはわかりませんけど、でもどっちかっていうと、その逆のタイプのような…」
エミルはため息をついて前髪をかき上げた。
「それじゃ困るじゃないか」
「…でも、大人なんだし…」
「大人だってパニックになったりヒステリーを起こしたりするよ。竜は見たことないかもしれないけど…すごいぞ。泣き叫んで、周囲が何を言っても何も聞こえやしない。それだけならまだいいけど、気を失ったり、過呼吸になったり、発作が起こったりする場合もある」
竜はぞっとした。
「…怖いこと言わないでください」
「脅してるんじゃない。想像してみろ。健太君は一人っ子なんだろう?たった一人の子供にもう二度と会えないっていきなり知らされたら…」
「でもその子供本人からの手紙があるんですよ。別の世界に来ていて、そこで魔法のおかげで歩いたり走ったりできるようになって、とっても幸せだから、そのままそこで暮らしたい、って。親なら子供の幸せを一番に願うものじゃないですか」
竜がきっぱり言うとエミルはちょっと笑った。
「ま、そうなんだろうな。僕は子供を持ったことがないからわからないけど」
「そりゃ僕だって子供なんか持ったことないですけど」
生真面目に竜が言うと、エミルはますますおかしそうにくすくす笑った。
「でも、僕だったら自分の子供からそんな手紙が来ても、パニックになったり発作を起こしたりしないと思います」
「多分な。でも、概して女性の方が感情的になりやすいからね。それは考慮に入れといた方がいいぞ」
しかつめらしくエミルが言う。
「そういうの、見たことあるんですか」
「まあね」
エミルはため息をついた。
「魔法実験学をやってると、実験中にごくたまにだけど事故が起こったりするから。そういうときにパニックになっちゃったりする人はいるよ」
「そういうとき、どうするんですか」
「魔法だね」
「ああ…そうか…」
竜はため息をついた。
「向こうでも魔法が使えればいいのになあ」
「使えないってはっきりわかってるわけじゃないけどね。少なくとも父の道具は使えたわけなんだから」
「真は向こうで他の魔法を使ってみようとしなかったんでしょうか」
「怖くて使えない、って言ってた。もし向こうで魔法を使おうとして、そのせいでこっちに帰って来られなくなったらと思うと、怖くてできないって」
「なるほど…」
竜は深く深く頷いた。その気持ちは痛いほどよくわかる。こっちに戻って来られなくなったら…。そんなのは絶対に絶対に嫌だ。僕も向こうで使うのはカールの道具の魔法だけにしておこう…。
「ああ!」
竜が突然目を見開いて大声をあげたので、エミルの身体がびくっと動いた。
「っなんだ?!」
竜は信じられないというように目を見開いたままエミルを見た。
「…その魔法、その魔法、」
「?」
「その魔法の練習、まだしてないですよ!」
竜は怒鳴らんばかりに言った。
「カールの道具の魔法、『属するところに戻れ』の魔法、まだ練習してません!」
エミルの目が大きくなった。数秒間二人は驚愕の表情のまま見つめ合い、その後竜はテーブルの上に突っ伏し、エミルは椅子の背にもたれこんで天を仰いだ。
「…歴史は繰り返す、だな」
エミルが首を振り振り、信じられないというように言った。
「ほんとにそうですね…」
顔を上げて竜は弱々しく言った。もしこのまま帰ってしまっていたら!
「危なかったな」
「あ、でも、真と一緒に使うんだから、真ができればいいんじゃないんですか?」
エミルはとんでもないと首を振った。
「まさか。移動するのは二人なんだから、二人とも道具を握って、二人とも『属するところに戻れ』の魔法をやらないと。あれは魔法の使い手のみが使える道具だからね。よし、今からちょっとやろう」
「はいっ」
「属するところに戻れ」の魔法は、歌わせる魔法や物を作り出す魔法に比べるとずっと簡単だったけれど、一味違った魔法だった。ちょうどおやつの時間だったので、キッチンに戻って、水と油を使って練習した。
「この魔法で注意しなきゃいけないのは、自分の考えを入れないようにすることだ」
何度か練習した後、マリーの焼いたマドレーヌを食べながらエミルが言った。
「『属するところに戻れ』ということの意味にだけ集中すること。自分で魔法の対象物を判断してしまわないように気をつけなきゃいけない。これは油だ、とか、これは水だ、とか、赤いボールだ、とか、青いボールだ、とかね。まあ、向こうに帰る魔法では——父の魔法でも、公式の魔法でも——あんまり関係ないことだけど、とにかくこの類の魔法では、そこに気をつけること。どこに属するかは、対象物そのものが一番よく知っているわけだからね。魔法の使い手の勝手な判断が混ざるとうまく働かない。『元いたところに戻れ』なんかも同じ。魔法の意味にだけ集中することだ」
「はい」
こくこく頷いてから、竜はマリーに訊いた。
「もう一ついただいていいですか」
「もちろんよ」
マリーはにっこりし、竜は嬉々としてマドレーヌを盛った藍色の大皿に手を伸ばし、エミルはわざとらしく大きなため息をついた。
「こら竜。ちゃんと聞いてたか」
マドレーヌを手に持ったまま竜は頷いた。
「もちろんです。ちゃんと聞いてました。魔法の意味にだけ集中すること。自分の判断を入れない。どこに属するかは対象物自身が一番よく知っているんだから、僕は魔法の意味だけに集中して、あとは対象物に任せるってことですよね」
「その通り」
「勉強の方はどう?」
香り高いロイヤルミルクティのお代わりを注いでくれながらマリーが訊く。
「午後はちょっとはかどらなくて…。健太のことが気になってしまって」
正直に言うと、マリーはため息をついた。
「竜…やっぱり無理よ。心配だわ。もしも健太君が行方不明ということになって竜がトラブルに巻き込まれたりしたら…」
「でも、やらないわけにはいかないんです。大丈夫です。ちゃんとできるだけ細かいところまで計画を立てて、プランBやプランCも考えておけば、きっとなんとかなります」
きっぱり言ってにっこりしてみせると、マリーはまたため息をついて、エミルを見た。
「僕たちが心配しても仕方ないですよ、お母さん。知恵を貸すことはできるかもしれないけど、でも向こうの世界のことですから、そこは竜と健太くんに任せるしかない」
「そうね…。それはそうだけど…」
「大丈夫です。何も悪いことするわけじゃないし。それに僕はまだ子供ですから、警察に逮捕なんてされるわけないし、いざとなったらこっちに逃げて来ちゃいますから」
いたずらっぽく言うと、マリーはようやく微かに笑った。
「お願いだから気をつけてちょうだいね。 それにしても…竜がこんなことをせずにすめばいいのにと思わずにはいられないわ。健太君のお母さんに健太君に二度と会えないって知らせるだけでも大変なことなのに…」
正直なところ、竜も気が重かった。健太の母がこちらの計画通りに動いてくれて、速やかにキャンプ場を後にしてくれればまずは一安心だが、キャンプ場で大騒ぎになってしまったら、健太は行方不明扱いで警察沙汰になり、もちろん竜は重要参考人だ。
それにもし健太の母が計画通りにキャンプ場を後にしてくれたとしても、それこそ健太に二度と会えないというのは大きなショックだろうし、そんな状態で車を運転して事故に遭ったら?
無事に家に着いたとしても、今度は健太の父が一人息子が隣の世界に行ってもう帰って来ないなんていう話を受け入れてくれるかどうか。そこで警察を呼ばれてしまう可能性もある。
健太が行方不明ということになって、それが事件として扱われるようになったら、竜がこちらに移住して向こうで健太と同じように行方不明になったとき、関連づけられてすごい騒ぎになってしまわないだろうか。そのとき竜の両親はどうなってしまうのだろう…。
ふと顔を上げると、エミルと目が合った。心配そうな目をしている。竜はにこりと笑ってみせて、自分に言い聞かせた。大丈夫。きっとなんとかなる。楽あれば苦ありっていうじゃないか。楽しいことばっかりっていうわけにはいかない。それに僕はこっちに移住できてしかもたまに向こうに帰れるけど、健太はそうじゃないんだもの。友達として、これくらいのことは健太のためにしなきゃ。でも、ああ、向こうの世界でも魔法が使えるならどんなに心強いだろう。…エミルが一緒にいてくれたらなあ。
「どうした?」
「メッセージです。誰でしょう」
指でそっと触れると泡は音もなく割れて、コールの声が聞こえた。
「竜。コールです。これを聞いたら健太に魔法で連絡してあげてくれるかな。どうしても今話したいことがあるんだって。それじゃ」
コールの声からは、何か大変なことがあったとか火急の用事とか、そういう緊迫感のようなものは聞き取れなかった。どちらかというと、苦笑混じりといった感じの声だった。なんだろう。竜はエミルを見た。エミルが眉を上げる。
「コールからでした。健太に魔法で連絡してあげてくれって。健太が何か話したいことがあるみたいです」
「そうか。じゃ、先に行ってるよ」
別にいてくれたって構わないんだけどな、と思いながらエミルの背中を見送った竜は、健太に魔法電話をかけた。
「健太?」
「あ、竜!やっと繋がった」
健太の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「やっと?」
「うん。最初にレイに頼んだんだ。竜に魔法でコンタクト取って、って。そうしたらレイが、魔法電話はできないから、メッセージを送るって言って。でも難しくてなかなかできなくてさ、結局コールに普通の電話をして、コールから竜にメッセージを送ってもらったんだ。魔法電話もメッセージも、ずいぶん難しい魔法なんだね。竜やスティーブンが普通に使ってるから、そんなに難しいなんて気づかなかった。竜ってやっぱりすごいんだね」
「そんなことないよ。今日は試合じゃなかったっけ?」
勝手口からわざわざUターンして戻ってきたライラを撫でながら竜は訊いた。
「うん、午後からね。さっき練習が終わって、お昼ご飯食べてたんだ。竜は?」
「さっきまで勉強してて、これからご飯だよ」
「そっか。じゃあちょうどよかった。身体の調子はどう?」
「うん、もうすっかり回復したよ」
「魔法は?」
「そっちも大丈夫」
「よかった。じゃ、ちゃんと記憶を持って帰れるんだね」
竜の胸がちくりと痛んだ。
「うん…」
「そっか。よかった」
健太はふっと息を吐いた。
「…あのさ、竜に頼みたいことがあるんだ」
「いいよ。なに?」
健太は思い切るように一呼吸して、
「僕、こっちに残りたいんだ。昨日の帰りの汽車の中でも、帰ってからも、夜もずっと考えてて…。ここに残りたいんだ。車椅子の生活には戻りたくない。ずっとこっちで歩いたり走ったりバスケしたり…。僕は魔法ができないし、だから、一度向こうに帰っちゃったら二度と戻って来られない。だから、だから、」
健太はまるで竜に口を挟ませまいというように、早口で話し続けた。
「ママとパパに手紙を書いてちゃんと詳しく説明するよ。竜にその手紙を渡すから、それをママに渡して欲しいんだ。二人ともきっと僕の気持ちをわかってくれると思う。で、ママに手紙を渡す時にね、他の人に僕がいなくなったなんて知られると大騒ぎになっちゃうから、ママと二人だけになって渡さないとだめだと思うんだ。それで、ママは他の人たちに見られないようにすぐ車でキャンプ場を出て、後からすぐキャンプの委員の人に電話して、おばあちゃんの具合が急に悪くなったって電話がきたから急いで帰らなきゃいけなくなったって言うんだ。そういうことも全部僕が手紙に書くから大丈夫。だから、えっと…、うん、それが頼みたいことなんだ。僕からの手紙を、向こうに帰って、ママに渡してもらえる?」
「…いいけど…」
竜は白い雲が平和にぷかぷか浮かんでいる空を見上げた。洒落た白い服を着た健太の母の姿が頭に浮かぶ。
「健太のお母さん、すごいショックだと思うよ。パニックになったり、気を失っちゃったりしないかな…」
「うん…。手紙を渡すときに、まず、落ち着いて、パニックになったり気を失ったりしないように、って言うとか…。僕も手紙の一番最初にそう書くよ」
「うん…」
本でも映画でもそういうシーンはあるけど、たいてい相手は泣いたり、怒ったり、パニックになったり、気を失ったりするものだ。
「ごめん。竜にすごい迷惑かけちゃうのはわかってる。でも他にどうしたらいいかわからなくて…」
健太の声が心細そうに小さくなる。
「どうしたら一番いいか、よく考えよう。なんて言ったらいいか、とか細かいとこまでちゃんと考えておくほうがいいと思うよ。手紙に書くことも、うんとよく考えないと」
励ますように竜が言うと、健太は少し黙ってから言った。
「竜…反対しないの?僕が帰らないこと」
「だって…反対できる立場じゃないもの。僕だってこっちに移住するんだしさ。人のこと言えないよ」
ちょっと冗談めかして言うと、健太の声も少し明るくなった。
「ありがとう、竜」
「でもさ、その後のこと考えた?行方不明ってことになっちゃうんだよ」
「うん…。パパとママ二人で、カナダにできるだけ早く発てばいいんじゃないかなって思うんだけど。今なら夏休みだから、僕の友達とかにも知らせずに行っても、そんなに変じゃない、と、思う…」
竜と健太は同時にため息をついた。
「やっぱり変だよそれは」
「変だよね、やっぱり」
「だって、仲良いんでしょ。友達とか、チームメイトとかさ」
「うん…でも、親の都合で急に行かなきゃならないことになって、しかもおばあちゃんが具合悪くなったりでバタバタしてて、ってことなら…」
「うーん…まあ、ねえ…」
「カナダからメール出せばいいかな。もちろんママにやってもらわなきゃいけないんだけど。そうか、みんなのアドレスとかもママに知らせておかなきゃ…ああ、僕のケータイ見ればいいよね。あ、ケータイ、キャンプに預けたままだ」
「それはキャンプの人が送ってくれるよきっと。あ、あと僕と健太のお母さんが連絡取れるようにしておく方がいいよね。僕はたまに向こうに帰るわけだし」
「うんうん。で、その時に僕の写真とか手紙とかを竜に持ってってもらえたら…」
二人はレイが健太を呼びに来るまで、ああでもないこうでもないと話し合い、計画を練った。退屈したライラは、辺りを歩き回っては時折竜の方を見て、まだ話してる…とため息をつきたげな顔をしていた。
「あ、ごめん、竜。僕もう行かないと。これから車で練習試合の場所に行くんだ。…うん、レイ、今行くよ。…ごめんね、また夕方話せる?」
「いいよ。何時ごろ?」
「5時ごろは?」
「いいよ。じゃ、5時に魔法電話するよ」
「ありがとう竜。じゃあね」
「うん、またね。試合頑張って」
「ありがとう。竜も勉強頑張ってね」
「うん、ありがとう」
魔法電話を切って、竜は大きく息をついた。やっと終わったの?早く帰ろ、と走り寄ってきたライラをもふもふ撫でる。またため息が出る。なんだかちょっと大変なことになってきた。
ランチのテーブルでエミルとマリーに健太のことを話すと、二人とも無言で竜
をじっと見つめた。数秒間、竜がパリパリもぐもぐとサラダを食べる音だけが聞こえた。
「竜…そんなこと無理よ…」
マリーが眉根を寄せて首を振った。竜は驚いてマリーを見た。無理?また何か、僕の知らない魔法の法則とかこの世界の規則とかの話なんだろうか。
「そんな…そんなこと…。健太君のお母さんは、二度と健太君に会えないのよ。それを竜が伝えるの?あなたはもうあなたの息子に二度と会えません、って?」
「まさか。そんな言い方はしません…」
「どんな言い方をしたって同じことよ」
「それに健太も手紙を書くし…」
「手紙なんて…」
マリーは大きなため息をついた。
「…それは、健太君が車椅子の生活に戻りたくないって言うのはわかるわ。もちろん、自分の足で歩いたり走ったりしていたいでしょう。バスケもね。でも、そんな…」
竜は思い切って反論してみた。
「でも、僕だって移住するんですよ」
「竜は自分でご両親を説得するのでしょ。それにいつでも向こうに帰れるわ。健太君のご両親は、健太君自身と話せないまま、突然、なんの心構えもないままに、もう二度と健太君と会えなくなってしまうのよ。そんなことを伝えられたときに、どんなにショックを受けるか…」
「でも、普通に移住する人たちよりもマシでしょう。手紙があるし、僕もちゃんと説明するし…」
「そんな話を簡単に信じられるわけないわ」
竜はため息をついた。
「それは…僕もそう思います。だからちょっと心配なんです。戻ったら向こうは朝です。まず健太のお母さんを探して、なんとか二人だけで話せるようにして…健太からサプライズプレゼントがあるとかなんとか言って…、それで健太の手紙をまず渡して…でもものすごく長い手紙になると思うから、そこでまず読むのに時間がかかるでしょう。読み終わっても信じてくれないとしたら、僕がまたそこで色々たくさん説明しなきゃいけない。それでも信じてくれないかもしれない。そんなことしてるうちに時間がどんどん経って、みんなが変に思い始めて、健太が行方不明になった、なんて大騒ぎになって…」
「そうなったらどうする」
エミルが難しい顔で訊く。
「…まだそこまで考えてません。とにかく健太のお母さんが、みんなに健太と一緒じゃないのを見られずにキャンプ場を出てくれないと困るんですけど…できるかどうか」
「竜と健太君が一緒にいたのはみんな知ってるのか」
「ええ、まあ。だから、もし計画通りにいかなかったら、健太がいないことについてみんなに説明できるように、何か作り話をしないと…。健太が自分で歩けるんだったら、例えば、二人で外のベンチに座っておしゃべりしていて、僕がいつの間にか眠ってしまって、目が覚めたら健太がいなくなっていた、とかでもいいんでしょうけど、車椅子だし、ちょっとそういうわけにもいかないかなあって…。車椅子じゃ、舗装された道しか使えないわけだし、一人で山の中に入っていった、なんてことにはできませんし」
「それに、健太君自身の書いた手紙があるからね。しかも竜も自分の日記を持って帰るだろう。取り上げられて、読まれて、これは一体どういうことなんだ、っていうことになるかもしれないな。二人とも同じこと、つまりこっちの世界のことを書いているんだから」
「……」
そうだ。手帳だけじゃない。カールの魔法も取り上げられてしまうかもしれない。人が一人行方不明になっているんだから、警察だって手に入る手がかりはなんでもきっちり調べるだろう。竜はまたため息をついた。
「…思ったより、難しそうですね」
エミルとマリーが深刻な顔で頷いた。
でも、やらなくちゃ。竜はそっと唇を噛んだ。できないなんて言うわけにはいかない。
午後の勉強は、午前中ほどうまくいかなかった。どうしても、健太なしで向こうに帰ったらどうなるか、どうやって速やかに健太の母にわかってもらってキャンプ場から出てもらうか、という方に思考が彷徨い出てしまうのだ。それはエミルも同じだったようで、休憩を取るたびに、申し合わせたように話題は健太のことに戻った。
「手紙を見せずに、健太のお母さんに、健太からのサプライズがあるから車に乗ってください、ってまず言っちゃったらどうでしょう。それで、車の中で手紙を見せるんです」
「車はどこに置いてあるんだ?」
「キャンプ場よりも下の方にある駐車場です」
「…まあそれは一つの手だな。でも駐車場で車の中にいるところをキャンプの他のメンバーに見られたらどうする」
「まあ、可能性はありますけど、でもキャンプ場で手紙を見せたりしてぐずぐずしているよりは、見られる可能性はずっと低いです。荷物は置いていくことになってしまうけど、でもそれはキャンプの委員とか他のメンバーが後で送ることができるし…。でも携帯電話だけは絶対に一緒に持ってきてもらわないと。だから、『健太からサプライズがあるので、携帯と車の鍵だけ持って、駐車場に来てください』って言うのが一番いいかな…、あ、財布もか…。『健太からのサプライズがあるので、携帯と車の鍵と財布だけ持って一緒に来てください』…うーん、ちょっと不自然ですよね…」
エミルがため息をついて首を振った。
「竜…。なんだか…心配だよ」
竜は苦笑した。
「僕もです。でも、やってみるしか…あ、そうか、駐車場で話さなくったって、車を出してもらって、どこか少し離れたところまで行って車を停めて、そこで手紙を渡せばいいんだ。その方が安全ですよね」
「健太君のお母さんってどんな人だ。冷静に話を聞いてくれそうな人か」
竜はうーんと唸った。
「会ったばかりだからはっきりはわかりませんけど、でもどっちかっていうと、その逆のタイプのような…」
エミルはため息をついて前髪をかき上げた。
「それじゃ困るじゃないか」
「…でも、大人なんだし…」
「大人だってパニックになったりヒステリーを起こしたりするよ。竜は見たことないかもしれないけど…すごいぞ。泣き叫んで、周囲が何を言っても何も聞こえやしない。それだけならまだいいけど、気を失ったり、過呼吸になったり、発作が起こったりする場合もある」
竜はぞっとした。
「…怖いこと言わないでください」
「脅してるんじゃない。想像してみろ。健太君は一人っ子なんだろう?たった一人の子供にもう二度と会えないっていきなり知らされたら…」
「でもその子供本人からの手紙があるんですよ。別の世界に来ていて、そこで魔法のおかげで歩いたり走ったりできるようになって、とっても幸せだから、そのままそこで暮らしたい、って。親なら子供の幸せを一番に願うものじゃないですか」
竜がきっぱり言うとエミルはちょっと笑った。
「ま、そうなんだろうな。僕は子供を持ったことがないからわからないけど」
「そりゃ僕だって子供なんか持ったことないですけど」
生真面目に竜が言うと、エミルはますますおかしそうにくすくす笑った。
「でも、僕だったら自分の子供からそんな手紙が来ても、パニックになったり発作を起こしたりしないと思います」
「多分な。でも、概して女性の方が感情的になりやすいからね。それは考慮に入れといた方がいいぞ」
しかつめらしくエミルが言う。
「そういうの、見たことあるんですか」
「まあね」
エミルはため息をついた。
「魔法実験学をやってると、実験中にごくたまにだけど事故が起こったりするから。そういうときにパニックになっちゃったりする人はいるよ」
「そういうとき、どうするんですか」
「魔法だね」
「ああ…そうか…」
竜はため息をついた。
「向こうでも魔法が使えればいいのになあ」
「使えないってはっきりわかってるわけじゃないけどね。少なくとも父の道具は使えたわけなんだから」
「真は向こうで他の魔法を使ってみようとしなかったんでしょうか」
「怖くて使えない、って言ってた。もし向こうで魔法を使おうとして、そのせいでこっちに帰って来られなくなったらと思うと、怖くてできないって」
「なるほど…」
竜は深く深く頷いた。その気持ちは痛いほどよくわかる。こっちに戻って来られなくなったら…。そんなのは絶対に絶対に嫌だ。僕も向こうで使うのはカールの道具の魔法だけにしておこう…。
「ああ!」
竜が突然目を見開いて大声をあげたので、エミルの身体がびくっと動いた。
「っなんだ?!」
竜は信じられないというように目を見開いたままエミルを見た。
「…その魔法、その魔法、」
「?」
「その魔法の練習、まだしてないですよ!」
竜は怒鳴らんばかりに言った。
「カールの道具の魔法、『属するところに戻れ』の魔法、まだ練習してません!」
エミルの目が大きくなった。数秒間二人は驚愕の表情のまま見つめ合い、その後竜はテーブルの上に突っ伏し、エミルは椅子の背にもたれこんで天を仰いだ。
「…歴史は繰り返す、だな」
エミルが首を振り振り、信じられないというように言った。
「ほんとにそうですね…」
顔を上げて竜は弱々しく言った。もしこのまま帰ってしまっていたら!
「危なかったな」
「あ、でも、真と一緒に使うんだから、真ができればいいんじゃないんですか?」
エミルはとんでもないと首を振った。
「まさか。移動するのは二人なんだから、二人とも道具を握って、二人とも『属するところに戻れ』の魔法をやらないと。あれは魔法の使い手のみが使える道具だからね。よし、今からちょっとやろう」
「はいっ」
「属するところに戻れ」の魔法は、歌わせる魔法や物を作り出す魔法に比べるとずっと簡単だったけれど、一味違った魔法だった。ちょうどおやつの時間だったので、キッチンに戻って、水と油を使って練習した。
「この魔法で注意しなきゃいけないのは、自分の考えを入れないようにすることだ」
何度か練習した後、マリーの焼いたマドレーヌを食べながらエミルが言った。
「『属するところに戻れ』ということの意味にだけ集中すること。自分で魔法の対象物を判断してしまわないように気をつけなきゃいけない。これは油だ、とか、これは水だ、とか、赤いボールだ、とか、青いボールだ、とかね。まあ、向こうに帰る魔法では——父の魔法でも、公式の魔法でも——あんまり関係ないことだけど、とにかくこの類の魔法では、そこに気をつけること。どこに属するかは、対象物そのものが一番よく知っているわけだからね。魔法の使い手の勝手な判断が混ざるとうまく働かない。『元いたところに戻れ』なんかも同じ。魔法の意味にだけ集中することだ」
「はい」
こくこく頷いてから、竜はマリーに訊いた。
「もう一ついただいていいですか」
「もちろんよ」
マリーはにっこりし、竜は嬉々としてマドレーヌを盛った藍色の大皿に手を伸ばし、エミルはわざとらしく大きなため息をついた。
「こら竜。ちゃんと聞いてたか」
マドレーヌを手に持ったまま竜は頷いた。
「もちろんです。ちゃんと聞いてました。魔法の意味にだけ集中すること。自分の判断を入れない。どこに属するかは対象物自身が一番よく知っているんだから、僕は魔法の意味だけに集中して、あとは対象物に任せるってことですよね」
「その通り」
「勉強の方はどう?」
香り高いロイヤルミルクティのお代わりを注いでくれながらマリーが訊く。
「午後はちょっとはかどらなくて…。健太のことが気になってしまって」
正直に言うと、マリーはため息をついた。
「竜…やっぱり無理よ。心配だわ。もしも健太君が行方不明ということになって竜がトラブルに巻き込まれたりしたら…」
「でも、やらないわけにはいかないんです。大丈夫です。ちゃんとできるだけ細かいところまで計画を立てて、プランBやプランCも考えておけば、きっとなんとかなります」
きっぱり言ってにっこりしてみせると、マリーはまたため息をついて、エミルを見た。
「僕たちが心配しても仕方ないですよ、お母さん。知恵を貸すことはできるかもしれないけど、でも向こうの世界のことですから、そこは竜と健太くんに任せるしかない」
「そうね…。それはそうだけど…」
「大丈夫です。何も悪いことするわけじゃないし。それに僕はまだ子供ですから、警察に逮捕なんてされるわけないし、いざとなったらこっちに逃げて来ちゃいますから」
いたずらっぽく言うと、マリーはようやく微かに笑った。
「お願いだから気をつけてちょうだいね。 それにしても…竜がこんなことをせずにすめばいいのにと思わずにはいられないわ。健太君のお母さんに健太君に二度と会えないって知らせるだけでも大変なことなのに…」
正直なところ、竜も気が重かった。健太の母がこちらの計画通りに動いてくれて、速やかにキャンプ場を後にしてくれればまずは一安心だが、キャンプ場で大騒ぎになってしまったら、健太は行方不明扱いで警察沙汰になり、もちろん竜は重要参考人だ。
それにもし健太の母が計画通りにキャンプ場を後にしてくれたとしても、それこそ健太に二度と会えないというのは大きなショックだろうし、そんな状態で車を運転して事故に遭ったら?
無事に家に着いたとしても、今度は健太の父が一人息子が隣の世界に行ってもう帰って来ないなんていう話を受け入れてくれるかどうか。そこで警察を呼ばれてしまう可能性もある。
健太が行方不明ということになって、それが事件として扱われるようになったら、竜がこちらに移住して向こうで健太と同じように行方不明になったとき、関連づけられてすごい騒ぎになってしまわないだろうか。そのとき竜の両親はどうなってしまうのだろう…。
ふと顔を上げると、エミルと目が合った。心配そうな目をしている。竜はにこりと笑ってみせて、自分に言い聞かせた。大丈夫。きっとなんとかなる。楽あれば苦ありっていうじゃないか。楽しいことばっかりっていうわけにはいかない。それに僕はこっちに移住できてしかもたまに向こうに帰れるけど、健太はそうじゃないんだもの。友達として、これくらいのことは健太のためにしなきゃ。でも、ああ、向こうの世界でも魔法が使えるならどんなに心強いだろう。…エミルが一緒にいてくれたらなあ。
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