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Chap.29
しおりを挟むその後も、きちんと休憩を入れながら、二人は交代で、相手を自分の次元に引き込む魔法を試みた。
「…なかなか、できませんね」
何度目かの休憩で、ライラとリルを分け合いながら竜はため息をついた。
「まあ、そう簡単にはいかないだろうな」
手を伸ばしてリルを摘みながらエミルが言う。
「実は、もしかして結構簡単にできちゃうかもしれないって、思ってたんです」
竜は正直に言った。エミルが笑う。
「ここまでとんとん拍子できてるからな」
「はい。それに、相手を自分の次元に引き込むって、そんなに難しいことに思えなくて。例えば何もないところに物を作り出すなんていうより、簡単なことのように思えて…」
「確かにそうだな。でも次元というのは、つまり自分だけの世界であって、通常は人とシェアしない空間のことだ。そこに相手を引き込む、ということがそもそも可能なのかどうか」
エミルが眉を寄せて考え込む。竜は驚いた。
「可能じゃないかもしれないんですか?」
「どうだろうな」
竜は戸惑いを隠せなかった。
「でも、だって…カールがあんな風にさらりと言ったから、可能なのだとばかり…」
エミルが苦笑する。
「確かに父は優れた魔法発明学者だけど、全知全能っていうわけじゃないからね」
「じゃあ…」
竜は青くなった。もしかして、結局健太を守るのは不可能、っていうことなんだろうか…。エミルが指を振ってみせる。
「諦めるのはまだ早いぞ。魔法発明学の基本の一つだ。『道はいくつもある。藪の中にも水の中にも。見つからないなら作ればいい』ってね。他の考え方をしてみるんだ。要はマルギリスの『歌』つまり波動が、それを歌わせている本人以外にも感じられるように、本人以外にとっても存在するようにすればいいわけだから。やり方は色々ある。例えば、相手を自分の次元に引き込むんじゃなく、自分の次元を拡げて相手を覆うとかね」
「なるほど…」
竜は頷いた。自分の次元を拡げて相手を覆う、というエミルの言葉は、竜に傘を連想させ、ある絵本を思い出させた。
「…『あかいかさ』っていう絵本があるんです。元は真のだったんですけど、僕も好きで、小さい時何度も読みました。女の子が傘を持って出掛けると雨が降ってきて、動物たちがどんどんやってきて、その傘の下で雨宿りをするんです。熊まで来るんですよ。傘はどんどん大きくなって、みんなちゃんと雨宿りできるんです」
竜は考えた。傘をシェアするというのは、傘の下の、雨粒のない空間をシェアするということだ。人と傘をシェアする時、その相手を自分の傘の下に引っ張り込むんじゃなくて、その人に傘を差し掛ける。相手に傘を差し掛けることで、自分が持っている雨粒のない空間をその人とシェアする。その人の空間も雨粒のない空間にする。
そのイメージがとてもしっくりきた。何かが心の中でぴたっとはまったような感じがした。竜はうなずいた。これだ。エミルを見上げる。
「やってみます」
「よし」
竜の視線を受け止めたエミルの目が静かに光った。エミルにもわかっている、と竜は感じた。
りんごの木の下に座り、石を目の前の草の上に置く。一呼吸して、石を歌わせ始める。柔らかな風のような音が辺りを満たす。竜はそっと目を閉じた。そして、頭と心の奥の道が交差する深いところで、エミルに傘を差し掛けた。
一瞬後、急に辺りが明るくなったように感じ、竜の中の何かが——頭なのか心なのか身体なのか魂なのかはわからない——すっと温かくなった。ふわりと、というよりは、すっと真っ直ぐに温度が上がった感じだった。
同時に、いきなり速い水の流れに流されそうになる感覚に襲われて、竜は慌てて踏みとどまった。
石の歌は続いている。
辺りの明るさと内側の温かさは少しずつ増していっているようだ。
水の流れのようなものの強さは変わらない。楽に踏みとどまれている。
やがて石の歌が終わった。目を開ける。エミルの笑顔を見る前から、竜には成功したことがわかっていた。
「さすがだ、竜。おめでとう」
「エミルのおかげです。自分の次元を拡げて相手を覆う、って言ってくれたから…。ああ言ってくれなかったらできませんでした」
「また謙遜する」
エミルが笑った。
「今夜もケーキだな。母に言わないと」
竜も笑って首を振った。
「まだです。マルギリスでできるようにならなきゃ」
エミルがおかしそうに眉を上げる。
「自分に厳しいんだな、竜は。それはそうと、身体は大丈夫か。何か兆候らしいものは?」
「大丈夫です。大して力を使ったという感じもなくて、全然疲れてないですし…。周りが明るくなって、温かくなって…、あと流れの速い川に流されそうな感じはありましたけど、でもそんなに力を使わなくても踏みとどまれました」
「そうか」
「次、レウリスでやってみていいですか?」
「休んでからな。そろそろ昼だ。まだランチにはちょっと早いけど、早目に食べるか」
「はい!」
喜び勇んで立ち上がった竜を、エミルが心配半分おかしさ半分といった顔で見上げた。
「もうそんなに腹が減ってるのか?」
「いえ、早く食べて、練習の続きをしたいなって思って」
答えてから、竜は正直につけ加えた。
「それに…マリーが、昨日のケーキの残りをランチのデザートに食べましょうって言ってましたから」
二人がマリーと一緒に早めのランチの用意をしていると、カールがキッチンに入ってきた。
「おや、もうランチかい?」
「ええ、今日はちょっと早目にね」
竜は首を縮めた。
「すみません、僕の都合で…」
「いやいや、ちっとも構わないよ。で、どんな具合だい」
「はい、小石ではできました。レウリスとマルギリスではまだやってないんですけど…」
「ちょ、ちょっと待った。なんだって?」
カールが遮った。眼鏡の奥の目が丸くなっている。
「できたって、まさか」
「そのまさかです。ちゃんと僕にも竜が歌わせた小石の歌が聞こえましたからね」
エミルが誇らしげに言う。カールは二の句が継げないといった表情で二人を見比べていたが、
「…つまり、相手を自分の次元に引き込む魔法を作った、ということなのかい?」
「というより、自分の次元を拡げて相手を覆う魔法を作ったんです。エミルのアイディアなんです」
エミルに負けずに誇らしげに竜が言った。カールがエミルを見る。
「聞かせてくれないか」
レタスをちぎったり、トマトを切ったりしながら、二人はカールに新しい魔法のできた顛末を語った。カールは真剣な顔をして聞き入っていたが、話が終わると、ほとほと感心したというように二人を見て微笑んだ。
「まったくお前たちときたら…。末恐ろしい二人組だ」
エミルと竜は顔を見合わせてへへっと笑った。竜は嬉しくて誇らしくて胸がいっぱいになった。エミルと僕とで、新しい魔法を作ったんだ!
「お祝いはマルギリスでできてからっていうことだけど、きっと今日中にできてしまうんじゃない?午後にケーキを作っておくほうが良さそうね」
マリーが微笑む。
「そうだろうね。魔法はもうできてしまったのだから、あとは歌わせるのが石だろうとレウリスだろうとマルギリスだろうと、大して違いはないはずだからね。今日中に必ずできるだろう」
カールが請け合う。
「じゃ、ランチの後支度にかかるわ。竜、どんなケーキがいい?」
「マリーが作ってくれるケーキならどんなのでもいいです!」
竜は心から答えた。カールの言う通り、今日中には必ずマルギリスでもできるようになるだろう。これで健太のことを守れるようになる。そして夜にはまたマリーの美味しいケーキが食べられるんだ!
「そういえば、今日は音大の授業はお休みなんですか?」
食後に、おいしいおいしいコーヒーチョコレートケーキの最後の一切れをゆっくり味わいながら、竜はカールに尋ねた。
「土曜だからね」
そう言われて、竜は初めて曜日に気がついた。こっちにきてから、曜日のことなんて一度も考えたことがなかったことにも初めて気がついた。いつも、今日は何日目、という考え方しかしていなかったのだ。今日は6日目。ということは、僕たちがこっちに来た日は月曜日だったんだ。帰らなければいけないのは10日目の午後3時頃、つまり水曜日か…。
「どうした?」
エミルに訊かれて、竜は自分が大きなため息をついたのに気がついた。
「いえ、もう今日は6日目で、10日目には帰らなきゃいけないんだなあって思って…」
エミルが元気づけるように微笑む。
「すぐ帰ってくるだろ」
竜はまたため息をついた。
「でもそれも、真がジリスとフュリスを持っているかどうかにかかってるんですよね…」
ふとあることを思い出して、竜はカールを見た。
「そういえば昨日聞き忘れちゃったんですけど、ジリスとフュリスの混合物って、どんなふうなんですか?色とか形とか重さとか」
カールがにこりとした。
「そういえば話していなかったね。直径約4cmの球形で、まったくの無色透明、重さは約75グラムだ」
「無色透明?」
エミルが驚いたように言った。
「すごいですね。完璧だ」
「あれに一番時間がかかったと言ったろう」
カールは嬉しそうににやりとしてみせた。
「だてに時間はかけていないよ」
「ジリスとフュリスの混合物が無色透明になるのは、混合が100%完璧に行われた時だけだって言われてるんだ。約100%、じゃない。本当に完全に100%行われた時だけ。これは滅多にできないことなんだよ」
エミルが興奮気味に竜に説明する。
「だから同じものをもう一度作るのはほぼ不可能に近い、って言ったんですね」
竜が言うと、カールはうなずいた。
「その通り。もう一度作ろうと思ったら何年かかるか…。でも試してみるつもりだよ」
「えっ」
エミルが目を丸くする。
「これから竜や真が頻繁に使うんだ。スペアがある方がいいだろう」
カールは涼しい顔で言ったけれど、エミルの表情からこれは驚くべきニュースなのだということが竜にもわかった。
「お父さん…」
「この22年間、フリアから戻ってくれと言われ続けていたんだが、ようやく戻ろうと思えるようになったんだよ。昨日、正式に決まったんだ」
「そうだったんですか…」
エミルは感無量の面持ちだった。竜ははっきりさせるために訊いてみた。
「またフリア魔法大学で研究しながら教えるっていうことですか?」
「そう。まあこの歳だからね、より研究に専念できるように授業の数は減らしてもらったが」
「じゃあ、僕が入学したら、カールの授業を受けられるかもしれないんですね!」
カールはにっこりした。
「そうだね」
「わあ!楽しみです!」
果樹園に戻る道すがら、竜はエミルの周りに漂う幸せな空気を感じていた。エミルはカールが魔法大学に戻るのをとても嬉しく思っている。ライラもそれを感じるのか、いつにも増してにこにこしてはしゃいでいた。しばらく黙って歩いていたエミルは、竜と目が合うと微笑んだ。
「父が引退したのは、あの事故のせいだったからね。父がまた研究に戻る気になってくれて、本当に嬉しいよ。竜が来てくれたおかげだ」
竜はちょっと考えて言った。
「僕が来たのも、すごくラッキーな事故みたいなものですよね。アメリアさんが言ってましたよ。向こうからのお客は突然穴に落ちるみたいにしてやって来る、って」
「そうだな」
そう言ってエミルは笑い出した。
「そういえば、竜と健太くんがこっちに来たのは、ケーキの匂いのせいだったっけ。なんだか竜らしいな」
竜もちょっと赤くなって笑った。そういえばそうだった。美味しそうなケーキの匂いを追って、こっちに来たんだった。ケーキ万歳だ。
空はずいぶん曇ってきていた。夏の午後の強い日差しも、ほんの時折雲の隙間から差してくるだけで、果樹園はいつものようにきらきらした光の踊る場所ではなくなり、果樹たちの緑がよりしっとりと濃く美しく見えた。
竜はりんごの木の下のいつもの場所に坐り、美しい薄紫色のレウリスを目の前の草の上に置いて、正面に座るエミルを見上げた。
「始めていいですか」
エミルはうなずいた。
「無理はするなよ。兆候に気をつけろ」
「はい」
一呼吸して、竜はレウリスを歌わせ始めた。よく響くグロッケンのような音を聞きながら、目を閉じて、自分の内側の深いところでエミルに傘を差しかけた。
さっきのように辺りが明るくなり、竜の内側のどこかがすっと温かくなった。そしてやはり速い水の流れに流されそうな感覚に襲われた。
予想していたように、今度は流れの勢いがさっきよりも強く、踏みとどまるのが大変だった。ほんのちょっとでも気を抜くとあっという間に流されてしまいそうな強さだ。
辺りの明るさはどんどん増していき、内側もどんどん温かくなっていく。
小石を使った時と同じで、流れの勢いに変化はないけれど、踏みとどまるのは大変だった。踏ん張れ、竜。奥歯を噛みしめながら、竜はレウリスの歌が終わるのを待った。
やがてレウリスの歌が終わった。竜はやれやれと息をついて目を開き、レウリスの残骸を消して、顔を上げた。エミルは少し心配そうに眉を寄せていた。
「上出来。でも今回は疲れたみたいだな。大丈夫か」
「結構疲れました」
竜は正直に言った。
「周囲の明るさと内側に感じる温度の上昇の仕方が小石の時よりも速くて、どんどん明るく、温かくなっていきました。あと、水に流されそうな感覚も小石の時よりかなり強くて、踏みとどまるのが大変でした。だから力を使った感じがするし、疲れたんだと思います。でも、兆候らしきものは何もない…と思います。普通に疲れただけです」
「そうか。まあレウリスだからな…。小石よりは力が要るわけだから、それくらいの変化は当然かもしれないけど。しばらく休んだ方がいい。リルを採ってくるからここで待ってろ」
竜は笑ってエミルに続いて立ち上がった。
「そこまで疲れてません。僕も行きます」
ライラも一緒に立ち上がると、竜にぴったり寄り添って歩き出す。竜を見上げる真っ黒な目が、疲れたの?大丈夫?と言っている。
「大丈夫だよライラ。ありがとう」
ライラのしゃんとまっすぐな首筋を撫でる。ライラの身体が温かくてなんだかほっとする。少し肌寒いような気がして、竜は空を見上げた。大きな雲が太陽を隠してゆっくり通っていく。太陽の光が遮られているかいないかで暖かさが結構違うんだな、とライラの温もりを感じながら竜は思った。上に羽織るものを持ってくればよかったかな。
リルの木の下に座り、いつものようにライラとリルを半分こしたり、丸ごと自分の口に放り込んだりしているうちに、疲れはすぐに取れた。ライラがくっついていてくれるおかげで冷たかった身体も温かくなったし、そのうち雲も通り過ぎて太陽がまた顔を出し、果樹園はきらきらする夏の光でいっぱいになった。
竜はいくつ目かのリルを口に放り込んで、そのおいしさにうーんと唸った。果汁たっぷりの実を口の中に放り込んでちょっと噛むと、途端に口の中が甘酸っぱいジュースでいっぱいになる。爽やかで強すぎないみずみずしい味は、喉を潤すのにもちょうどいい。リルのジャムもリルのソースも美味しいけれど、やっぱりこうして摘みたてを食べるのが竜は一番好きだった。いくら食べても飽きない。
こんな果物は向こうの世界に一つもないなあ。それともどこか外国にはあるんだろうか、そう考えてふと疑問が湧いた。
「リルって、そういえば種がないんですね。どうやって増えるんですか」
「リルはね、ちょっと変わってるんだ。来てごらん」
エミルは立ち上がって、すんなりしたリルの木の反対側へ廻った。
「ほら、ここ」
木の根本から40cmくらいの高さに、小さなこぶのようなものがある。
「ここに大きな花が一つだけ咲くんだ。満開になるとこれくらいになる」
と、両手で20cmくらいの幅を作ってみせた。
「スイレンと似てるかな。色は大抵ピンクだけど、白い花が咲く木もある。花が萎れると、真ん中の部分がたんぽぽの綿毛みたいになって…といっても、たんぽぽよりずいぶん大きいけどね、あちこちに飛んでいくんだよ」
「へえ…」
竜はびっくりした。
「じゃ、リルの実って、花の後に実るものじゃないんですね」
「そう、だからあれは正確には果実じゃなくて、まあ、木の一部とでもいうのかな」
「ってことは、樹液…?」
「そんなようなものだ。木が水分と栄養をああいう形で蓄えておいてるんだね」
「なるほど…。それで、この花はいつ咲くんですか?」
「野生のものだと、冬を除いてどの季節でも咲く。でも果樹園にあるものは、蕾が出ると取ってしまうんだ。花が咲くと、リルの実の実りがうんと悪くなるし、美味しくなくなるから。山の中で、野生のリルの木なんかを見ると、実はずいぶん少なくて、味もほとんどしないんだよ」
面白いなあ、と竜は思った。向こうの世界にも、こんなふうな植物があるんだろうか。
考えてみれば、僕は向こうの世界のことだって知らないことがたくさんある。こっちに移住して魔法の勉強をしたい気持ちに変わりはないけれど、向こうの世界の自然のことなんかももっと色々知りたいな…。
「そういえば、確か、ピエールさんは大学で魔法植物学を教えていたって言ってましたよね。エミルもピエールさんの授業を取ったんでしょう?」
少し長目の休憩を終えてりんごの木のほうに戻りながら、竜はエミルに訊いてみた。
「うん、初めの1年間は一通り全部やらなきゃいけないからね。僕はもう最初から、一刻も早く向こうの世界に行かれる魔法を発明しなきゃ、っていう気持ちに凝り固まってたから、それに関係ない授業には残念ながらあまり興味が持てなかったんだけど」
「魔法植物学っていうことは、リルとかりんごとかじゃなくて、魔法に使う植物のことを勉強するんですよね?」
「そうだね。だから、魔法発明学の中でも、薬品とかそういう方面の発明に関係してくる学科だよ。あとは魔法薬学とか魔法医学、魔法化学なんかにも関係してくる」
「なるほど…。でも、エミルやカールがやっているような発明だと、魔法物理学とか魔法数学とかが重要になってくるわけですね」
「そうだね。あとは魔法量子力学とか魔法工学、魔法鉱物学、魔法冶金学とかね」
「ヤキン学?」
竜は首を傾げた。初めて聞いた言葉だ。
「金属に関することだよ」
「ああ!」
りんごの木の下の定位置に座って竜はにこりとした。
「『カールリス』ですね」
「そうそう」
エミルが笑った。
「早く大学に行きたいです」
竜はわくわくして言った。学んでみたいことがたくさんある。
「エミル、今日の夜から数学と物理を教えてもらえませんか」
「いいけど…」
エミルがからかうように眉を上げる。
「今夜はまたケーキだからな。たくさん食べ過ぎて眠くなっちまうんじゃないのか」
「大丈夫です。ちゃんと腹八分にしておきますから」
すまして言うと、エミルはくすくす笑った。
「よし。じゃ、今夜から始めるとしよう。…で、今からだけど、どうする」
竜は背筋を伸ばした。
「マルギリスでやってみたいです」
エミルは竜をじっと見た。
「竜、よく考えろ。さっきのレウリスよりも力を使うことになるんだぞ。今日はレウリスでもう一度練習してみるくらいにして、マルギリスは明日まで待つ方がよくないか」
竜は考えながら言った。
「…今やってみても大丈夫だと思います。確かに、初めてマルギリスを歌わせた時はレウリスよりもかなり力を使いましたけど、でも二度目に歌わせた時は、レウリスとそう変わらなかったし…。大丈夫です。やってみます」
エミルはまだ心配そうだ。
「さっきの疲れはちゃんと取れたのか」
「はい。元気回復です!」
竜は胸の前で小さくガッツポーズを作ってみせた。エミルはあまり気が進まない様子で、
「…わかった。じゃあやってみよう。でもくれぐれも身体の変化に注意しろ。途中でまずいと思ったらすぐやめること。ぎりぎりまで踏ん張ったりするな」
「はい」
竜が頷くと、エミルはリュックサックから黒い箱を取り出し、中からマルギリスを摘み出して竜に手渡した。また日の翳ってきた緑色の果樹園の中で、マルギリスは淡い朱鷺色をして、ひんやりと静かに竜の掌に載っていた。
竜は大きく息をついて、マルギリスをそっと草の上に置いた。
いよいよだ。これができれば、健太を守ることができる。
竜は俄かに緊張した。
大丈夫だ。落ち着け。きっとできる。
もう一度大きく息をついて、竜はマルギリスを歌わせ始めた。
いくつものグラスハーモニカのような音が辺りを隙間なく満たした。竜は目を閉じ、頭と心の間の奥深くまで降りていき、エミルに傘を差し掛けた。
周囲が明るくなり、自分の内側のどこかの温度が真っ直ぐに上昇し始めたのがわかった。が、それらに注意を払う間もなく、怒涛のような流れに押し流されそうになった竜は、慌てて精一杯の力を込めて踏みとどまった。
明るさも温度もすごい勢いでぐんぐん上がっていく。周囲がが真っ白になって、マルギリスの歌とは別に、甲高い電子音のような音が聞こえ始めた。
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