弟の恋人〜はじめての恋は最後の恋〜

樹沙都

文字の大きさ
上 下
43 / 47
§ 命運

しおりを挟む
 病院の自動ドアを出れば、冷たい風が頬を撫でる。厚手のコートを着るほどの寒さではないが、できれば歩きたくない。けれどもタクシーに乗るほどの距離でもなくて。

 さて、どうしたものか、と、考える亜弥の目の前のバス停には、駅まで戻るバスが停車していた。

「丁度いいわ。あれに乗って駅まで行けば、序でに用事も足せるし」

 乗ってしまえばほんの数分の距離ではあるが、亜弥は暖房の誘惑には逆らえなかった。

 検診も今日で二回目。悪阻らしい悪阻もなく——よくよく考えれば、一日中なにかを口にしていたあれがそうらしかったのだが——経過は順調。

 但し、食欲があるのはいいことだけれど食べ過ぎはダメよ、と、看護師さんに念を押されたのには、少々参ってしまった。

 そんなに食べていたつもりはなかったのだけれど。体重は確かに——。

 予定日は七月。出産までいまと同じように食べ続けていたら、この先どうなるかなんて、考えただけでも恐ろしい。

「自分を甘やかしちゃだめね」

 そうは言っても、食べ物の誘惑が多すぎて辛いのも正直なところ。

「頑張ろう」

 お腹が大きくなってきたわけでもなし、まだまだ妊娠している実感は薄いけれど、自分はもうお母さんなのだから、頑張らねば。そんな決意をしたところで、停車したバスを降りる。

「うっ、寒っ」

 びゅーっと吹き抜ける風に身を震わせた亜弥は、薄いコートの前をかき合わせた。

 銀行のATMで手持ちの現金を補充し通帳記入を済ませ、残高を確認する。

 以前の亜弥は、ほぼアパートと会社を往復する仕事ばかりの日々を過ごしていた。お金の掛かる遊びはせず、高額な出費もない。

 現在は、多少収入は減ったものの、生活事態は今も大差なく、通帳に記載される金額は、微増していくばかりだ。金銭的な心配を当面しなくていいのはありがたい。

 両親の残してくれたお金もまだかなり残っているが、これは、産まれてくる子どもの将来のため、手を付けずに取っておくつもりだ。

 女将をはじめ旅館の皆には、申し訳ないほどに、よくしてもらっている。

 年代もばらばらな彼女たちから励ましとともに聞かされる失敗談は、不安な気持ちを吹き飛ばしてくれるし、経験に基づく教えは、とても興味深い。

 住まいは女将の指示通りに母屋へ移した。卓袱台と整理箪笥ひとつのがらんとした和室なのだが、押し入れの中だけはいつのまにか、産まれてくる赤子のためにと運ばれてくる、女将に負けず劣らず気の早い皆の愛でいっぱいになっている。

「ほんと、あんなにたくさん、どうしろっていうんだろう? ふふふっ」

 大小様々、凡そ数年分はありそうな衣類から、玩具に至るまで。その量足るや、朝晩押し入れを開け閉めするたびに、思わず笑いが溢れてしまうほどだ。

「あ、そうだ。買い物あったんだっけ」

 途中、ドラッグストアへ立ち寄って足りない日用品を買い足し、寒空の中、亜弥は家路を急ぐ。


「ただいま戻りました」

 従業員用の玄関から入って、事務所へ顔を出した。

「おかえり。そっか、検診、行ってきたんだね? どう? 先生になんか言われた?」

「はい。順調だって言われました」

「そっか、よかったねぇ。ほら、寒いから戸を閉めて、こっち来て座りなよ。お茶淹れてやるからさ」

「おかえり、って、今日お休みじゃなかったっけ?」

「そうなんですけど、気になっちゃって」

「だめだよ~亜弥ちゃん、あんた働き過ぎなんだからちゃんと休まないと。お腹の赤ちゃんに障ったらどうするの」

 右から左から次々に声をかけられる。寒い外をうろうろするよりも、賑やかなここにいるほうがよほどいい、と、亜弥は思う。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

モース10

藤谷 郁
恋愛
慧一はモテるが、特定の女と長く続かない。 ある日、同じ会社に勤める地味な事務員三原峰子が、彼をネタに同人誌を作る『腐女子』だと知る。 慧一は興味津々で接近するが…… ※表紙画像/【イラストAC】NORIMA様 ※他サイトに投稿済み

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜

雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。 【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】 ☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆ ※ベリーズカフェでも掲載中 ※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

赤貧令嬢の借金返済契約

夏菜しの
恋愛
 大病を患った父の治療費がかさみ膨れ上がる借金。  いよいよ返す見込みが無くなった頃。父より爵位と領地を返還すれば借金は国が肩代わりしてくれると聞かされる。  クリスタは病床の父に代わり爵位を返還する為に一人で王都へ向かった。  王宮の中で会ったのは見た目は良いけど傍若無人な大貴族シリル。  彼は令嬢の過激なアプローチに困っていると言い、クリスタに婚約者のフリをしてくれるように依頼してきた。  それを条件に父の医療費に加えて、借金を肩代わりしてくれると言われてクリスタはその契約を承諾する。  赤貧令嬢クリスタと大貴族シリルのお話です。

処理中です...