弟の恋人〜はじめての恋は最後の恋〜

樹沙都

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§ 想望

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 来たばかりの頃は、この時間でもまだ空は明るかったのに、いつの間にか日暮れが早くなっている。日が落ちれば空気もひんやり。季節の移ろいは早い。

 空腹でちょっと不機嫌な桃子を引き摺るように、閑散とした商店街を抜け宿へと戻れば、すでに夕飯の膳も調えられ、桃子の胃袋を満たすばかりとなっていた。

「おっ、すごいご馳走じゃん」

 では早速、と、座り込み、箸を取った桃子の手を、汁椀を置いた女将さんがぴしゃりと叩く。

「こら桃子! 亜弥ちゃんがまだ座ってないでしょう? まったくあんたは幾つになっても落ち着きがないんだから。そんなんだから未だに彼氏のひとりもいなくて——」

「余計なお世話ですぅ! 私だって彼氏のひとりやふたり、ちゃんといますからどうぞご心配なく」

「へぇ、いるの? 初耳だわ。どんな人? 何処で知り合ったの? 年は幾つ? なにしてる人? 何時から付き合ってるの? 啓吾さんと姉さんにはちゃんと紹介したの? ねえ桃子、どんな男か叔母さんが見極めてあげるから今度の休みにでも連れていらっしゃいな」

「ぅるさいなぁ。私が誰と付き合おうと叔母さんには関係無いでしょ」

「あら、将来は身内になるかも知れないんだもの、関係あるわよ大ありよ。ねえ、亜弥ちゃん、亜弥ちゃんもそう思うわよね?」

「……わたしに振られても……お食事にしませんか? 折角のお料理が冷めちゃいますよ」

 常々思ってはいたけれど——こうして見るとこのふたり、やっぱりよく似ている。

 桃子がこの叔母を苦手としている理由はつまり、同族嫌悪のようなものなのだろう。

 でも、楽しそうで、いいな。

 軽快なふたりの遣り取りが、亜弥はちょっぴり羨ましく思う。

 賑やかな夕食が終われば桃子は、露天風呂を堪能してくるわ、と、言い残し、タオル片手にひとりで宿の温泉へと消えていった。

 疵痕を気にしているのを知っているから、一緒に入ろうなんてはじめから誘いもしない。亜弥に気を遣わせない桃子の、あっさりとした気遣いが嬉しい。

 はじめの頃、先輩たちから従業員用の大浴場へ誘われたことが何度もあった。疵痕なんて大なり小なり誰にでもあるし、あんたはまだ若くてピチピチじゃないか、みっともないなんて言われたら、私たちだって人様にお見せできるような身体じゃないよ、と、励まされもした。

 先輩たちの気持ちはありがたいと思うけれど、それでも亜弥は未だ、人前で肌を晒す勇気を持てていない。

 亜弥が風呂から上がり居間へ戻ると、桃子は居らず女将がテレビのバラエティ番組を相手にビールグラスを傾けていた。

「お風呂いただきました」

「早かったね、もっとゆっくりしてくればいいのに。喉渇いたでしょ? 亜弥ちゃんもビールでいい?」

 亜弥と桃子のために用意してくれたのだろう。紙製のコースターに伏せられたビールグラスがふたつ並べられている。

「ありがとうございます。でも、なんか最近あまり飲めなくなっちゃって……わたしはこっち、いただきます」

 亜弥はふかふかの座布団に腰を下ろし、座卓中央にカゴ盛りされたみかんの山に手を伸ばした。

 おしりから花弁のように皮を剝き、白い筋を丁寧に取って一房。爽やかな酸味と甘みをじっくり味わう。

 うん。おいしい。幸せだ。やっぱりみかんはこのくらい酸っぱい方が好きだな。

 皮をきれいに折り畳んだ亜弥は未だ物足りないと、二個目のみかんに取りかかる。

 夢中になってみかんを頬張っていた亜弥が、ふと視線を感じて顔を上げると、女将がじっと亜弥を見つめていた。

「おいしそうに食べるわねぇ。それだけおいしそうにたくさん食べてくれたらみかんも本望でしょう」

 食べている様子を凝視されるのは、意外と恥ずかしいもので。亜弥は、食べる手を止めた。

「女将さんは、あまり食べないんですか? みかん」

「そうねぇ、最近はあんまりねぇ。今日は亜弥ちゃんと桃子がいるから出したけど、普段は旦那も食べないし置いてないのよ」

「そうだったんですか……」

「子どもが小さい頃は競い合って食べてたけどね。それこそ一度に十個ずつとか食べるから箱で買ってもあっという間になくなってたわ。私は、そうねぇ、子どもがお腹にいるときくらいだったかしら? 好んで食べてたのは。ほら、知らない? 妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるって言うでしょ。私はそんなの嘘だと思ってたんだけど、ホントだったって旦那と笑ったもんよ。もう遠い昔の話だわ懐かしい」

「妊娠……?」

 小さく呟いた亜弥は、下腹部を見下ろし、そっと手のひらで触れてみる。

 その様子を目で追う女将の顔色が変わった。

「亜弥ちゃんあんた、まさか……」


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