40 / 47
§ 想望
二
しおりを挟む
来たばかりの頃は、この時間でもまだ空は明るかったのに、いつの間にか日暮れが早くなっている。日が落ちれば空気もひんやり。季節の移ろいは早い。
空腹でちょっと不機嫌な桃子を引き摺るように、閑散とした商店街を抜け宿へと戻れば、すでに夕飯の膳も調えられ、桃子の胃袋を満たすばかりとなっていた。
「おっ、すごいご馳走じゃん」
では早速、と、座り込み、箸を取った桃子の手を、汁椀を置いた女将さんがぴしゃりと叩く。
「こら桃子! 亜弥ちゃんがまだ座ってないでしょう? まったくあんたは幾つになっても落ち着きがないんだから。そんなんだから未だに彼氏のひとりもいなくて——」
「余計なお世話ですぅ! 私だって彼氏のひとりやふたり、ちゃんといますからどうぞご心配なく」
「へぇ、いるの? 初耳だわ。どんな人? 何処で知り合ったの? 年は幾つ? なにしてる人? 何時から付き合ってるの? 啓吾さんと姉さんにはちゃんと紹介したの? ねえ桃子、どんな男か叔母さんが見極めてあげるから今度の休みにでも連れていらっしゃいな」
「ぅるさいなぁ。私が誰と付き合おうと叔母さんには関係無いでしょ」
「あら、将来は身内になるかも知れないんだもの、関係あるわよ大ありよ。ねえ、亜弥ちゃん、亜弥ちゃんもそう思うわよね?」
「……わたしに振られても……お食事にしませんか? 折角のお料理が冷めちゃいますよ」
常々思ってはいたけれど——こうして見るとこのふたり、やっぱりよく似ている。
桃子がこの叔母を苦手としている理由はつまり、同族嫌悪のようなものなのだろう。
でも、楽しそうで、いいな。
軽快なふたりの遣り取りが、亜弥はちょっぴり羨ましく思う。
賑やかな夕食が終われば桃子は、露天風呂を堪能してくるわ、と、言い残し、タオル片手にひとりで宿の温泉へと消えていった。
疵痕を気にしているのを知っているから、一緒に入ろうなんてはじめから誘いもしない。亜弥に気を遣わせない桃子の、あっさりとした気遣いが嬉しい。
はじめの頃、先輩たちから従業員用の大浴場へ誘われたことが何度もあった。疵痕なんて大なり小なり誰にでもあるし、あんたはまだ若くてピチピチじゃないか、みっともないなんて言われたら、私たちだって人様にお見せできるような身体じゃないよ、と、励まされもした。
先輩たちの気持ちはありがたいと思うけれど、それでも亜弥は未だ、人前で肌を晒す勇気を持てていない。
亜弥が風呂から上がり居間へ戻ると、桃子は居らず女将がテレビのバラエティ番組を相手にビールグラスを傾けていた。
「お風呂いただきました」
「早かったね、もっとゆっくりしてくればいいのに。喉渇いたでしょ? 亜弥ちゃんもビールでいい?」
亜弥と桃子のために用意してくれたのだろう。紙製のコースターに伏せられたビールグラスがふたつ並べられている。
「ありがとうございます。でも、なんか最近あまり飲めなくなっちゃって……わたしはこっち、いただきます」
亜弥はふかふかの座布団に腰を下ろし、座卓中央にカゴ盛りされたみかんの山に手を伸ばした。
おしりから花弁のように皮を剝き、白い筋を丁寧に取って一房。爽やかな酸味と甘みをじっくり味わう。
うん。おいしい。幸せだ。やっぱりみかんはこのくらい酸っぱい方が好きだな。
皮をきれいに折り畳んだ亜弥は未だ物足りないと、二個目のみかんに取りかかる。
夢中になってみかんを頬張っていた亜弥が、ふと視線を感じて顔を上げると、女将がじっと亜弥を見つめていた。
「おいしそうに食べるわねぇ。それだけおいしそうにたくさん食べてくれたらみかんも本望でしょう」
食べている様子を凝視されるのは、意外と恥ずかしいもので。亜弥は、食べる手を止めた。
「女将さんは、あまり食べないんですか? みかん」
「そうねぇ、最近はあんまりねぇ。今日は亜弥ちゃんと桃子がいるから出したけど、普段は旦那も食べないし置いてないのよ」
「そうだったんですか……」
「子どもが小さい頃は競い合って食べてたけどね。それこそ一度に十個ずつとか食べるから箱で買ってもあっという間になくなってたわ。私は、そうねぇ、子どもがお腹にいるときくらいだったかしら? 好んで食べてたのは。ほら、知らない? 妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるって言うでしょ。私はそんなの嘘だと思ってたんだけど、ホントだったって旦那と笑ったもんよ。もう遠い昔の話だわ懐かしい」
「妊娠……?」
小さく呟いた亜弥は、下腹部を見下ろし、そっと手のひらで触れてみる。
その様子を目で追う女将の顔色が変わった。
「亜弥ちゃんあんた、まさか……」
空腹でちょっと不機嫌な桃子を引き摺るように、閑散とした商店街を抜け宿へと戻れば、すでに夕飯の膳も調えられ、桃子の胃袋を満たすばかりとなっていた。
「おっ、すごいご馳走じゃん」
では早速、と、座り込み、箸を取った桃子の手を、汁椀を置いた女将さんがぴしゃりと叩く。
「こら桃子! 亜弥ちゃんがまだ座ってないでしょう? まったくあんたは幾つになっても落ち着きがないんだから。そんなんだから未だに彼氏のひとりもいなくて——」
「余計なお世話ですぅ! 私だって彼氏のひとりやふたり、ちゃんといますからどうぞご心配なく」
「へぇ、いるの? 初耳だわ。どんな人? 何処で知り合ったの? 年は幾つ? なにしてる人? 何時から付き合ってるの? 啓吾さんと姉さんにはちゃんと紹介したの? ねえ桃子、どんな男か叔母さんが見極めてあげるから今度の休みにでも連れていらっしゃいな」
「ぅるさいなぁ。私が誰と付き合おうと叔母さんには関係無いでしょ」
「あら、将来は身内になるかも知れないんだもの、関係あるわよ大ありよ。ねえ、亜弥ちゃん、亜弥ちゃんもそう思うわよね?」
「……わたしに振られても……お食事にしませんか? 折角のお料理が冷めちゃいますよ」
常々思ってはいたけれど——こうして見るとこのふたり、やっぱりよく似ている。
桃子がこの叔母を苦手としている理由はつまり、同族嫌悪のようなものなのだろう。
でも、楽しそうで、いいな。
軽快なふたりの遣り取りが、亜弥はちょっぴり羨ましく思う。
賑やかな夕食が終われば桃子は、露天風呂を堪能してくるわ、と、言い残し、タオル片手にひとりで宿の温泉へと消えていった。
疵痕を気にしているのを知っているから、一緒に入ろうなんてはじめから誘いもしない。亜弥に気を遣わせない桃子の、あっさりとした気遣いが嬉しい。
はじめの頃、先輩たちから従業員用の大浴場へ誘われたことが何度もあった。疵痕なんて大なり小なり誰にでもあるし、あんたはまだ若くてピチピチじゃないか、みっともないなんて言われたら、私たちだって人様にお見せできるような身体じゃないよ、と、励まされもした。
先輩たちの気持ちはありがたいと思うけれど、それでも亜弥は未だ、人前で肌を晒す勇気を持てていない。
亜弥が風呂から上がり居間へ戻ると、桃子は居らず女将がテレビのバラエティ番組を相手にビールグラスを傾けていた。
「お風呂いただきました」
「早かったね、もっとゆっくりしてくればいいのに。喉渇いたでしょ? 亜弥ちゃんもビールでいい?」
亜弥と桃子のために用意してくれたのだろう。紙製のコースターに伏せられたビールグラスがふたつ並べられている。
「ありがとうございます。でも、なんか最近あまり飲めなくなっちゃって……わたしはこっち、いただきます」
亜弥はふかふかの座布団に腰を下ろし、座卓中央にカゴ盛りされたみかんの山に手を伸ばした。
おしりから花弁のように皮を剝き、白い筋を丁寧に取って一房。爽やかな酸味と甘みをじっくり味わう。
うん。おいしい。幸せだ。やっぱりみかんはこのくらい酸っぱい方が好きだな。
皮をきれいに折り畳んだ亜弥は未だ物足りないと、二個目のみかんに取りかかる。
夢中になってみかんを頬張っていた亜弥が、ふと視線を感じて顔を上げると、女将がじっと亜弥を見つめていた。
「おいしそうに食べるわねぇ。それだけおいしそうにたくさん食べてくれたらみかんも本望でしょう」
食べている様子を凝視されるのは、意外と恥ずかしいもので。亜弥は、食べる手を止めた。
「女将さんは、あまり食べないんですか? みかん」
「そうねぇ、最近はあんまりねぇ。今日は亜弥ちゃんと桃子がいるから出したけど、普段は旦那も食べないし置いてないのよ」
「そうだったんですか……」
「子どもが小さい頃は競い合って食べてたけどね。それこそ一度に十個ずつとか食べるから箱で買ってもあっという間になくなってたわ。私は、そうねぇ、子どもがお腹にいるときくらいだったかしら? 好んで食べてたのは。ほら、知らない? 妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるって言うでしょ。私はそんなの嘘だと思ってたんだけど、ホントだったって旦那と笑ったもんよ。もう遠い昔の話だわ懐かしい」
「妊娠……?」
小さく呟いた亜弥は、下腹部を見下ろし、そっと手のひらで触れてみる。
その様子を目で追う女将の顔色が変わった。
「亜弥ちゃんあんた、まさか……」
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説

忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
モース10
藤谷 郁
恋愛
慧一はモテるが、特定の女と長く続かない。
ある日、同じ会社に勤める地味な事務員三原峰子が、彼をネタに同人誌を作る『腐女子』だと知る。
慧一は興味津々で接近するが……
※表紙画像/【イラストAC】NORIMA様
※他サイトに投稿済み
幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜
葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在
一緒にいるのに 言えない言葉
すれ違い、通り過ぎる二人の想いは
いつか重なるのだろうか…
心に秘めた想いを
いつか伝えてもいいのだろうか…
遠回りする幼馴染二人の恋の行方は?
幼い頃からいつも一緒にいた
幼馴染の朱里と瑛。
瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、
朱里を遠ざけようとする。
そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて…
・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・
栗田 朱里(21歳)… 大学生
桐生 瑛(21歳)… 大学生
桐生ホールディングス 御曹司
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

赤貧令嬢の借金返済契約
夏菜しの
恋愛
大病を患った父の治療費がかさみ膨れ上がる借金。
いよいよ返す見込みが無くなった頃。父より爵位と領地を返還すれば借金は国が肩代わりしてくれると聞かされる。
クリスタは病床の父に代わり爵位を返還する為に一人で王都へ向かった。
王宮の中で会ったのは見た目は良いけど傍若無人な大貴族シリル。
彼は令嬢の過激なアプローチに困っていると言い、クリスタに婚約者のフリをしてくれるように依頼してきた。
それを条件に父の医療費に加えて、借金を肩代わりしてくれると言われてクリスタはその契約を承諾する。
赤貧令嬢クリスタと大貴族シリルのお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる