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§ 想望
一
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潮の香りがする湿り気のある空気、毎日飽くことなく眺める大きな海と空。仕事や人はもちろんとして、それこそ飲み水一杯の味に至るまで、亜弥を取り巻く環境は大きく変化し、またそれは、生活の質を著しく向上させた。
なかでも特別の特別、敢えて一番にあげたい『変化』があるとすればそれは『食』だと、甘酸っぱいみかんの房を次々口に放り込みながら、亜弥は思う。
朝昼晩三食、野菜と魚中心の健全な賄いご飯はおいしすぎてつい食べ過ぎてしまう。仕事中も同様、無意識にでも手を伸ばしたその先には、おやつが潜んでいる。
さらには季節のフルーツも。
誰かしら持ち込むし宿でも購入するため、事務所外の廊下に積まれたみかんの段ボール箱が常に存在しているこの季節は、みかんが食べ放題だ。
「亜弥ちゃん、みかんはあとにして、こっちを食べてごらんよ。これはお茶に合うんだよ、知ってるかい?」
従業員の中で一番若い亜弥は、先輩たちにすっかりかわいがられ、餌付けもされていた。
「梅干し……大粒できれい」
目にしただけで口内が酸っぱくなるのを感じながら、亜弥は半分食べ残したみかんを皮で包んで脇に避け、小皿へ取り分けられたそれをまずは観察する。
襲い来るであろう酸味と塩味に警戒しつつ大きな粒の端を囓ってみれば、意外なことにまろやかな梅の酸味と蜜の甘みが口いっぱいに広がった。
「なにこれ? 甘い! おいしい!」
「だろ? 実家が梅やっててさ、季節になると山ほど送ってくるんだよ。毎年漬けてるんだけどなにしろ大量だからねぇ、漬けた梅干しも年々増えるばかりだから、古くなる前にハチミツに漬けたり色々工夫して消費するのさ」
「あたしん家じゃ毎朝旦那が梅干しに砂糖まぶして二粒は食べるよ」
「へぇ……?」
梅干しに砂糖は、初耳だ。
大粒梅干しを一口で頬張った亜弥が、酸っぱさに顔を顰めた。
「ほらほら、そんなに急いで食べなくても梅干しは逃げやしないよ」
あはは。皆が亜弥を笑う。
「逃げるで思い出したわ、あんた桃ちゃん駅まで迎えに行くんじゃなかったのかい?」
おいしいって幸せだ。でも。
「あ、食べるのに夢中で忘れてた」
なんだかかんだと一日中食べているような気がしないでもない。
駅までの道程は、徒歩十分弱と近い。途中には土産物屋が軒を連ね、海水浴の季節ともなれば、多くの観光客で賑わう。移住して日の浅い亜弥にとってもそれらは物珍しく、散歩の序でに気が向けば、ウインドウショッピングを楽しんでいた。
「改札に着いたよ? 何処にいる?」
「こっちだってば!」
てっきり改札付近で待っていると思っていたのに、桃子はロータリーの先端から道路へと身を乗り出し、手を振っている。
「なんだつまんない……てっきり車出してくれると思ってたのに」
「そんなわけないでしょ? 宿のお客様じゃないんだから。ほら、行くよ。荷物貸して」
トローリーケースの取っ手に手をかけた亜弥の顔を、桃子は何故かしげしげと覗き込んでいる。
「なによ? どうしたの?」
「ん。なんだろう? 亜弥、ちょっと雰囲気変わった?」
「そう?」
久しぶりと言うほど長く顔を合わせていないわけでもないのに、変なことを言う桃子は相変わらずだ。桃子がひとりいるだけで、途端に空気が賑やかになる。
「まあいいや。早く行こっ! お腹空いたし、久々の温泉だし!」
亜弥が不思議に思う間も無く、桃子は亜弥の先を歩く。
やれ伊勢エビだ鮑だと夕飯の希望を口ずさみながら歩く桃子の背を見ながら、亜弥は笑みを浮かべた。
なかでも特別の特別、敢えて一番にあげたい『変化』があるとすればそれは『食』だと、甘酸っぱいみかんの房を次々口に放り込みながら、亜弥は思う。
朝昼晩三食、野菜と魚中心の健全な賄いご飯はおいしすぎてつい食べ過ぎてしまう。仕事中も同様、無意識にでも手を伸ばしたその先には、おやつが潜んでいる。
さらには季節のフルーツも。
誰かしら持ち込むし宿でも購入するため、事務所外の廊下に積まれたみかんの段ボール箱が常に存在しているこの季節は、みかんが食べ放題だ。
「亜弥ちゃん、みかんはあとにして、こっちを食べてごらんよ。これはお茶に合うんだよ、知ってるかい?」
従業員の中で一番若い亜弥は、先輩たちにすっかりかわいがられ、餌付けもされていた。
「梅干し……大粒できれい」
目にしただけで口内が酸っぱくなるのを感じながら、亜弥は半分食べ残したみかんを皮で包んで脇に避け、小皿へ取り分けられたそれをまずは観察する。
襲い来るであろう酸味と塩味に警戒しつつ大きな粒の端を囓ってみれば、意外なことにまろやかな梅の酸味と蜜の甘みが口いっぱいに広がった。
「なにこれ? 甘い! おいしい!」
「だろ? 実家が梅やっててさ、季節になると山ほど送ってくるんだよ。毎年漬けてるんだけどなにしろ大量だからねぇ、漬けた梅干しも年々増えるばかりだから、古くなる前にハチミツに漬けたり色々工夫して消費するのさ」
「あたしん家じゃ毎朝旦那が梅干しに砂糖まぶして二粒は食べるよ」
「へぇ……?」
梅干しに砂糖は、初耳だ。
大粒梅干しを一口で頬張った亜弥が、酸っぱさに顔を顰めた。
「ほらほら、そんなに急いで食べなくても梅干しは逃げやしないよ」
あはは。皆が亜弥を笑う。
「逃げるで思い出したわ、あんた桃ちゃん駅まで迎えに行くんじゃなかったのかい?」
おいしいって幸せだ。でも。
「あ、食べるのに夢中で忘れてた」
なんだかかんだと一日中食べているような気がしないでもない。
駅までの道程は、徒歩十分弱と近い。途中には土産物屋が軒を連ね、海水浴の季節ともなれば、多くの観光客で賑わう。移住して日の浅い亜弥にとってもそれらは物珍しく、散歩の序でに気が向けば、ウインドウショッピングを楽しんでいた。
「改札に着いたよ? 何処にいる?」
「こっちだってば!」
てっきり改札付近で待っていると思っていたのに、桃子はロータリーの先端から道路へと身を乗り出し、手を振っている。
「なんだつまんない……てっきり車出してくれると思ってたのに」
「そんなわけないでしょ? 宿のお客様じゃないんだから。ほら、行くよ。荷物貸して」
トローリーケースの取っ手に手をかけた亜弥の顔を、桃子は何故かしげしげと覗き込んでいる。
「なによ? どうしたの?」
「ん。なんだろう? 亜弥、ちょっと雰囲気変わった?」
「そう?」
久しぶりと言うほど長く顔を合わせていないわけでもないのに、変なことを言う桃子は相変わらずだ。桃子がひとりいるだけで、途端に空気が賑やかになる。
「まあいいや。早く行こっ! お腹空いたし、久々の温泉だし!」
亜弥が不思議に思う間も無く、桃子は亜弥の先を歩く。
やれ伊勢エビだ鮑だと夕飯の希望を口ずさみながら歩く桃子の背を見ながら、亜弥は笑みを浮かべた。
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