弟の恋人〜はじめての恋は最後の恋〜

樹沙都

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§ 苟且

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 なるようにしてなっただけ。

 はじめからわかっていたことじゃないの。

 社長が立ち去ったあと亜弥は、ただひとり茫然とその場に座っていた。繰り返し聞こえる幻聴が、亜弥の心を抉り続ける。どれくらいの時間そうしていたのかすらも、定かではなかった。

 それからのことは、よく覚えていない。ひとりきりの空間へ真っ直ぐに帰りたくなかったのだろう。ふらふらと、人通りの多い繁華街を歩き回り、いつの間にやら辿り着いたその場所は、桃子の兄の店の入り口で。

『あれ? 亜弥ちゃん? こんな時間にどうしたの?』

 亜弥が正気を取り戻したのは、店じまいを終えた桃子の兄に声をかけられたからだ。

 尋常ではない亜弥の様子に驚く桃子に、顔面蒼白で表情もなくいまにも死にそうな顔をしていたから連れてきた、と、彼が言えば——。

『しっかりして! なにがあったのか私にちゃんと説明しなさいっ!』

 鬼のような形相の桃子に、亜弥は叱りつけられた。

 要領を得ない亜弥の話に怒ったり泣いたり。自分のこと以上に感情を揺るがせる桃子の気持ちが、嬉しい。

 あの事故の後、せめて桃子と連絡が付けば、きっと未来は違ったのだろうに。

 温もりと同時に浮かぶ、いまさらな思いに、内心で自嘲した。



 でも。

 桃子とお兄さんのおかげで、いま亜弥は、平穏な時間を得られたのだ。

「思い出は思い出のままにしておくのが、結局一番なのよ」

 さて、仕事だ。

 波の音を背に、亜弥は階段を上る。

 浜から続く川岸の遊歩道を十分ほど行った川縁に、桃子の叔母夫婦が営む温泉旅館はある。

 時代の変化はある意味残酷なもので、純和風のレトロな小規模旅館であるこの『泉屋旅館』も例外ではなく、IT化の洗礼を受けていた。

 気がつけば幾つも契約しているインターネット予約システムのお守りに、SNSでの情報発信はいまや必須。

 電話での問い合わせは電子メールへと置き換わり、おまけに何処から情報が拡散されたのか、海外からの問い合わせや来訪客まで増えて、慣れない対応に追われていた。

 女将共々事務方従業員総出で対応に当たっていたが終には悲鳴を上げ、助っ人として白羽の矢を立てられたのが、姪である桃子だ。

 両親まで巻き込んだ誘いを受けている真っ最中の桃子にとって、追い詰められ飛び込んできた亜弥はまさに好都合の夏の虫。

 桃子兄弟の手を借りた亜弥は、あれよあれよという間に転職と転居を果たしたのだった。

「すごい数……週明けだものね」

 PCを起動しメールをチェックしていく亜弥は、午前中のうちに終われるかしら、と、思わず独り言を漏らしつつ、端から処理をはじめていく。


 こちらへ移り、そろそろ一ヶ月。はじめのうちは右往左往するばかりで大変だったけれど、仕事にも生活にも大凡慣れてきた。

 住まいは社員寮。少々手狭ではあるが、不自由はない。早起きをして朝食前に浜辺を散歩し、仕事に就く。食堂で仕事の手が空いた順に賄いを食べ、残業もほぼ無く、温泉は入り放題。夜更かしもしないいまの生活は、以前とは比較にならないほどに健康的だ。

 桃子からある程度の事情を聞いている女将さんは、なにくれとなく目をかけてくれる。話は長いけれど。

 職場の先輩たちは明るく、プライベートな突っ込みが激しすぎてたじたじになることもあるけれど、基本的には大らかで、毎日笑いが絶えない。

 以前の生活って、なんだったのだろう。ほんのひと月ほど前までの暮らしが、亜弥には遠い過去のように思えてしまう。

 こちらへ来てからだって、亜弥が克巳を想わない日は一日とない。それは、いままでと同じ。けれども。

 別れを決めたのはわたし。

 克巳と亜弥の人生は所詮、すれ違いの縁。克巳には克巳の人生がある。亜弥は彼の邪魔だけはしたくなかった。


 キーボードを叩く手を止めて、先輩社員が淹れてくれたお茶をすすりほうっと息を吐く。傍らには小さな飴がふたつ。包みを開いて口に入れれば甘く、ブドウの味がした。

 おいしい。

 壁掛け時計にチラリと目をやった亜弥は、再びキーボードを叩きはじめた。





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