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§ 邂逅
四
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眉間に深い皺を寄せて書類をパラパラとめくるチームリーダーの前で姿勢を正し、お言葉を待つ。
修正すること三回。これでOKがでなければ、次はなにを盛り込めばいいのか、すでに万策尽きた感がある。
「あとは……うーん、そうだな、まあ、いまのところできるのはこんなものか。あ、でも、この見込みのところ、もう一度集計データ精査し直した方がいいかな。ミーティングは午後一だから、間に合うでしょ? とりあえずそれだけ、やってみてよ」
「わかりました」
「そうそう、依頼していたサンプルはどうなったの?」
「手配済みです。明日の午前中には準備できるかと」
「了解。じゃ、そっちの処理も任せるから、よろしく」
修正箇所を書き留めたメモを小脇に挟み、ダメ出しをいただいた書類を受け取る。自分の席に戻れば力が抜けて、どっと疲れが押し寄せた。
午前十時二十分。修正してプリントに掛かる時間を考慮にいれても、まだ大丈夫、十分に間に合う。もっとも、これ以上仕事が割り込んでこなければの話だけれど。
亜弥は手元の資料とパソコン画面を見比べ「よしっ集中!」と、気合いを入れ直し、キーボードを叩き始めた。
「宮藤さん、悪いんだけどこれ、いますぐ室長に届けてくれるかな?」
亜弥の都合なんぞお構いなしに、向かい合った席から分厚いファイルが突き出され。
これを受け取ったら昼食抜きになるのだけれど。
お願い、と、拝まれてしまったら、どうしようもない。心の中でため息をつき、亜弥はファイルに手を伸ばした。
敦史の意図がどうであれ、他人の目のない個人的な空間で、克巳を紹介されたのは、よかったと亜弥は思う。
万が一、職場でいきなりの再会であったならどれほどの醜態を晒したことか。想像するだけで冷や汗ものだ。
佐々木室長宛と付箋紙の張られたそれを胸に抱え、室長室へと向かう亜弥の足取りは重い。
「失礼します」
入室の許可を得てドアを開けば、会議テーブル一杯に広げられた書類の束と、喧喧囂囂、議論を戦わせる白熱した面々が、亜弥の視界に飛び込んできた。
「なんの用だ?」
克巳の詞を合図に室内が静まりかえり、その場にいる全員の視線が、亜弥へと注がれる。亜弥は身を固くした。
「あ、あの……桂木リーダーからこの書類を届けるよう、申し付かりました」
目だけで『そこへ』と指示しただけで、ふたたび書類に没頭する克巳は、亜弥を見向きもしない。
ここでいいのよね、と、半信半疑ながらも、窓辺に近い克巳のデスクへ書類を置いた亜弥は、邪魔をしないよう気配を消して退出する。
職務上の関わりはあっても、言葉を交わすのは最低限。克巳の亜弥に対する態度に、個人的な感情はいっさい見えない。
ほんとうのところ亜弥の存在すら認識していないのではないか。少なくとも亜弥の目にはそう映った。
なまじ認識されるよりは、いまのほうがいい。
仕事にプライベートを持ち込むべきではないと、亜弥も理解しているつもりだが、それにしても彼の態度が自然すぎて腑に落ちない。
首を傾げる亜弥の中で、時間の経過とともに、ひとつの疑問が形作られていった。
もしかしたら、克巳は亜弥を憶えていないのではないだろうか。
十年もの時間があれば、恋愛のひとつやふたつ——三つや四つやそれ以上かも知れないが——経験していて当たり前。
ましてやいまの克巳は、貧乏学生ではなく、高学歴、高給取りの御曹司。その上、あの精悍な美貌ときたら、最低でも引く手数多。条件のいい女性を選り取り見取り、選び放題だ。
当時の亜弥はありきたりな女子高生。亜弥の強引な押し駆けによる正味ひと月にも満たない恋人ごっこ。たった一度、身体を重ねた。それだけ。
そんな相手の顔すら覚えていなくてもおかしくないし、交際した事実すら忘れていても、まったく不思議ではない。
そう考えれば、克巳の目に亜弥が映らないのも、時折気づかされる赤の他人を嘲笑するような不躾な視線にも、合点がいくというものだ。
ばかばかしい。
自分ばかりが動揺しているなんて、間抜けもいいところじゃないか。
第一、いま一番に考えなければいけないのは、敦史との関係だ。過去に振り回されている場合ではない。
忘れていようがいまいが、克巳は敦史の兄。この事実は揺るがない。この先ずっと、いまの関わりを続けるなんて、できるわけがないのだ。
どうすればいいのだろう。逃げ出せるものなら、とっくの昔に逃げ出しているのだけれどそれはできない相談で。
「堂々巡りか……」
それでもいずれは、答を出さなければならない。いまはため息しかでてこないけれど。
「困ったときの桃子さん、かな」
今日はノー残業デー。おまけに敦史は出張中ときた。暇を持て余している桃子のことだ。仕事が終われば真っ先に亜弥を誘いに来るだろう。
たまにはアルコール付きで愚痴でもこぼせば、迷いも少しは晴れるだろうし、桃子からいいアドバイスをもらえるかも知れない。
気晴らしを計画すれば、キーを打つ指の運びも少しは早くなる。あとはメールを送信するだけ、との段になったところで、消音モードの携帯電話が震えた。
「ほら来た」
ぽちっとメールを送信し、今日の仕事を打ち止めた。
今宵は何処でなにを食べよう。桃子の希望はイタリアンか、はたまたアジアンか。目ぼしい店を思い浮かべながら、亜弥はウキウキとショートメールのアプリを開いた。
「……え?」
携帯電話の番号は、緊急時の連絡用に部署内で公開されている。業務上関わりのある相手から連絡が入るのは、特段珍しいことではないけれど。
『折り入って話がある。仕事が終わり次第、地下の駐車場A3で待て』
仕事の話であるならば、呼びつけるなりなんなり社内で話せばいいだけなのに、駐車場で待てという。つまり、外へ連れ出す気なわけで。
そこまで手間暇かけるほどの『折り入った話』なんて、ろくなものではないはず。
行きたくない。
断りたいけれど、断る隙のない一方的なメッセージに、亜弥は不安を覚えた。
修正すること三回。これでOKがでなければ、次はなにを盛り込めばいいのか、すでに万策尽きた感がある。
「あとは……うーん、そうだな、まあ、いまのところできるのはこんなものか。あ、でも、この見込みのところ、もう一度集計データ精査し直した方がいいかな。ミーティングは午後一だから、間に合うでしょ? とりあえずそれだけ、やってみてよ」
「わかりました」
「そうそう、依頼していたサンプルはどうなったの?」
「手配済みです。明日の午前中には準備できるかと」
「了解。じゃ、そっちの処理も任せるから、よろしく」
修正箇所を書き留めたメモを小脇に挟み、ダメ出しをいただいた書類を受け取る。自分の席に戻れば力が抜けて、どっと疲れが押し寄せた。
午前十時二十分。修正してプリントに掛かる時間を考慮にいれても、まだ大丈夫、十分に間に合う。もっとも、これ以上仕事が割り込んでこなければの話だけれど。
亜弥は手元の資料とパソコン画面を見比べ「よしっ集中!」と、気合いを入れ直し、キーボードを叩き始めた。
「宮藤さん、悪いんだけどこれ、いますぐ室長に届けてくれるかな?」
亜弥の都合なんぞお構いなしに、向かい合った席から分厚いファイルが突き出され。
これを受け取ったら昼食抜きになるのだけれど。
お願い、と、拝まれてしまったら、どうしようもない。心の中でため息をつき、亜弥はファイルに手を伸ばした。
敦史の意図がどうであれ、他人の目のない個人的な空間で、克巳を紹介されたのは、よかったと亜弥は思う。
万が一、職場でいきなりの再会であったならどれほどの醜態を晒したことか。想像するだけで冷や汗ものだ。
佐々木室長宛と付箋紙の張られたそれを胸に抱え、室長室へと向かう亜弥の足取りは重い。
「失礼します」
入室の許可を得てドアを開けば、会議テーブル一杯に広げられた書類の束と、喧喧囂囂、議論を戦わせる白熱した面々が、亜弥の視界に飛び込んできた。
「なんの用だ?」
克巳の詞を合図に室内が静まりかえり、その場にいる全員の視線が、亜弥へと注がれる。亜弥は身を固くした。
「あ、あの……桂木リーダーからこの書類を届けるよう、申し付かりました」
目だけで『そこへ』と指示しただけで、ふたたび書類に没頭する克巳は、亜弥を見向きもしない。
ここでいいのよね、と、半信半疑ながらも、窓辺に近い克巳のデスクへ書類を置いた亜弥は、邪魔をしないよう気配を消して退出する。
職務上の関わりはあっても、言葉を交わすのは最低限。克巳の亜弥に対する態度に、個人的な感情はいっさい見えない。
ほんとうのところ亜弥の存在すら認識していないのではないか。少なくとも亜弥の目にはそう映った。
なまじ認識されるよりは、いまのほうがいい。
仕事にプライベートを持ち込むべきではないと、亜弥も理解しているつもりだが、それにしても彼の態度が自然すぎて腑に落ちない。
首を傾げる亜弥の中で、時間の経過とともに、ひとつの疑問が形作られていった。
もしかしたら、克巳は亜弥を憶えていないのではないだろうか。
十年もの時間があれば、恋愛のひとつやふたつ——三つや四つやそれ以上かも知れないが——経験していて当たり前。
ましてやいまの克巳は、貧乏学生ではなく、高学歴、高給取りの御曹司。その上、あの精悍な美貌ときたら、最低でも引く手数多。条件のいい女性を選り取り見取り、選び放題だ。
当時の亜弥はありきたりな女子高生。亜弥の強引な押し駆けによる正味ひと月にも満たない恋人ごっこ。たった一度、身体を重ねた。それだけ。
そんな相手の顔すら覚えていなくてもおかしくないし、交際した事実すら忘れていても、まったく不思議ではない。
そう考えれば、克巳の目に亜弥が映らないのも、時折気づかされる赤の他人を嘲笑するような不躾な視線にも、合点がいくというものだ。
ばかばかしい。
自分ばかりが動揺しているなんて、間抜けもいいところじゃないか。
第一、いま一番に考えなければいけないのは、敦史との関係だ。過去に振り回されている場合ではない。
忘れていようがいまいが、克巳は敦史の兄。この事実は揺るがない。この先ずっと、いまの関わりを続けるなんて、できるわけがないのだ。
どうすればいいのだろう。逃げ出せるものなら、とっくの昔に逃げ出しているのだけれどそれはできない相談で。
「堂々巡りか……」
それでもいずれは、答を出さなければならない。いまはため息しかでてこないけれど。
「困ったときの桃子さん、かな」
今日はノー残業デー。おまけに敦史は出張中ときた。暇を持て余している桃子のことだ。仕事が終われば真っ先に亜弥を誘いに来るだろう。
たまにはアルコール付きで愚痴でもこぼせば、迷いも少しは晴れるだろうし、桃子からいいアドバイスをもらえるかも知れない。
気晴らしを計画すれば、キーを打つ指の運びも少しは早くなる。あとはメールを送信するだけ、との段になったところで、消音モードの携帯電話が震えた。
「ほら来た」
ぽちっとメールを送信し、今日の仕事を打ち止めた。
今宵は何処でなにを食べよう。桃子の希望はイタリアンか、はたまたアジアンか。目ぼしい店を思い浮かべながら、亜弥はウキウキとショートメールのアプリを開いた。
「……え?」
携帯電話の番号は、緊急時の連絡用に部署内で公開されている。業務上関わりのある相手から連絡が入るのは、特段珍しいことではないけれど。
『折り入って話がある。仕事が終わり次第、地下の駐車場A3で待て』
仕事の話であるならば、呼びつけるなりなんなり社内で話せばいいだけなのに、駐車場で待てという。つまり、外へ連れ出す気なわけで。
そこまで手間暇かけるほどの『折り入った話』なんて、ろくなものではないはず。
行きたくない。
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