弟の恋人〜はじめての恋は最後の恋〜

樹沙都

文字の大きさ
上 下
19 / 47
§ 邂逅

しおりを挟む
 眉間に深い皺を寄せて書類をパラパラとめくるチームリーダーの前で姿勢を正し、お言葉を待つ。

 修正すること三回。これでOKがでなければ、次はなにを盛り込めばいいのか、すでに万策尽きた感がある。

「あとは……うーん、そうだな、まあ、いまのところできるのはこんなものか。あ、でも、この見込みのところ、もう一度集計データ精査し直した方がいいかな。ミーティングは午後一だから、間に合うでしょ? とりあえずそれだけ、やってみてよ」

「わかりました」

「そうそう、依頼していたサンプルはどうなったの?」

「手配済みです。明日の午前中には準備できるかと」

「了解。じゃ、そっちの処理も任せるから、よろしく」

 修正箇所を書き留めたメモを小脇に挟み、ダメ出しをいただいた書類を受け取る。自分の席に戻れば力が抜けて、どっと疲れが押し寄せた。

 午前十時二十分。修正してプリントに掛かる時間を考慮にいれても、まだ大丈夫、十分に間に合う。もっとも、これ以上仕事が割り込んでこなければの話だけれど。

 亜弥は手元の資料とパソコン画面を見比べ「よしっ集中!」と、気合いを入れ直し、キーボードを叩き始めた。

「宮藤さん、悪いんだけどこれ、いますぐ室長に届けてくれるかな?」

 亜弥の都合なんぞお構いなしに、向かい合った席から分厚いファイルが突き出され。

 これを受け取ったら昼食抜きになるのだけれど。

 お願い、と、拝まれてしまったら、どうしようもない。心の中でため息をつき、亜弥はファイルに手を伸ばした。

 敦史の意図がどうであれ、他人の目のない個人的な空間で、克巳を紹介されたのは、よかったと亜弥は思う。

 万が一、職場でいきなりの再会であったならどれほどの醜態を晒したことか。想像するだけで冷や汗ものだ。

 佐々木室長宛と付箋紙の張られたそれを胸に抱え、室長室へと向かう亜弥の足取りは重い。

「失礼します」

 入室の許可を得てドアを開けば、会議テーブル一杯に広げられた書類の束と、喧喧囂囂、議論を戦わせる白熱した面々が、亜弥の視界に飛び込んできた。

「なんの用だ?」

 克巳の詞を合図に室内が静まりかえり、その場にいる全員の視線が、亜弥へと注がれる。亜弥は身を固くした。

「あ、あの……桂木リーダーからこの書類を届けるよう、申し付かりました」

 目だけで『そこへ』と指示しただけで、ふたたび書類に没頭する克巳は、亜弥を見向きもしない。

 ここでいいのよね、と、半信半疑ながらも、窓辺に近い克巳のデスクへ書類を置いた亜弥は、邪魔をしないよう気配を消して退出する。

 職務上の関わりはあっても、言葉を交わすのは最低限。克巳の亜弥に対する態度に、個人的な感情はいっさい見えない。

 ほんとうのところ亜弥の存在すら認識していないのではないか。少なくとも亜弥の目にはそう映った。

 なまじ認識されるよりは、いまのほうがいい。

 仕事にプライベートを持ち込むべきではないと、亜弥も理解しているつもりだが、それにしても彼の態度が自然すぎて腑に落ちない。

 首を傾げる亜弥の中で、時間の経過とともに、ひとつの疑問が形作られていった。

 もしかしたら、克巳は亜弥を憶えていないのではないだろうか。

 十年もの時間があれば、恋愛のひとつやふたつ——三つや四つやそれ以上かも知れないが——経験していて当たり前。

 ましてやいまの克巳は、貧乏学生ではなく、高学歴、高給取りの御曹司。その上、あの精悍な美貌ときたら、最低でも引く手数多。条件のいい女性を選り取り見取り、選び放題だ。

 当時の亜弥はありきたりな女子高生。亜弥の強引な押し駆けによる正味ひと月にも満たない恋人ごっこ。たった一度、身体を重ねた。それだけ。

 そんな相手の顔すら覚えていなくてもおかしくないし、交際した事実すら忘れていても、まったく不思議ではない。

 そう考えれば、克巳の目に亜弥が映らないのも、時折気づかされる赤の他人を嘲笑するような不躾な視線にも、合点がいくというものだ。

 ばかばかしい。

 自分ばかりが動揺しているなんて、間抜けもいいところじゃないか。

 第一、いま一番に考えなければいけないのは、敦史との関係だ。過去に振り回されている場合ではない。

 忘れていようがいまいが、克巳は敦史の兄。この事実は揺るがない。この先ずっと、いまの関わりを続けるなんて、できるわけがないのだ。

 どうすればいいのだろう。逃げ出せるものなら、とっくの昔に逃げ出しているのだけれどそれはできない相談で。

「堂々巡りか……」

 それでもいずれは、答を出さなければならない。いまはため息しかでてこないけれど。

「困ったときの桃子さん、かな」

 今日はノー残業デー。おまけに敦史は出張中ときた。暇を持て余している桃子のことだ。仕事が終われば真っ先に亜弥を誘いに来るだろう。

 たまにはアルコール付きで愚痴でもこぼせば、迷いも少しは晴れるだろうし、桃子からいいアドバイスをもらえるかも知れない。

 気晴らしを計画すれば、キーを打つ指の運びも少しは早くなる。あとはメールを送信するだけ、との段になったところで、消音モードの携帯電話が震えた。

「ほら来た」

 ぽちっとメールを送信し、今日の仕事を打ち止めた。
 今宵は何処でなにを食べよう。桃子の希望はイタリアンか、はたまたアジアンか。目ぼしい店を思い浮かべながら、亜弥はウキウキとショートメールのアプリを開いた。

「……え?」

 携帯電話の番号は、緊急時の連絡用に部署内で公開されている。業務上関わりのある相手から連絡が入るのは、特段珍しいことではないけれど。

『折り入って話がある。仕事が終わり次第、地下の駐車場A3で待て』

 仕事の話であるならば、呼びつけるなりなんなり社内で話せばいいだけなのに、駐車場で待てという。つまり、外へ連れ出す気なわけで。

 そこまで手間暇かけるほどの『折り入っ話』なんて、ろくなものではないはず。

 行きたくない。

 断りたいけれど、断る隙のない一方的なメッセージに、亜弥は不安を覚えた。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

モース10

藤谷 郁
恋愛
慧一はモテるが、特定の女と長く続かない。 ある日、同じ会社に勤める地味な事務員三原峰子が、彼をネタに同人誌を作る『腐女子』だと知る。 慧一は興味津々で接近するが…… ※表紙画像/【イラストAC】NORIMA様 ※他サイトに投稿済み

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜

雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。 【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】 ☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆ ※ベリーズカフェでも掲載中 ※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

赤貧令嬢の借金返済契約

夏菜しの
恋愛
 大病を患った父の治療費がかさみ膨れ上がる借金。  いよいよ返す見込みが無くなった頃。父より爵位と領地を返還すれば借金は国が肩代わりしてくれると聞かされる。  クリスタは病床の父に代わり爵位を返還する為に一人で王都へ向かった。  王宮の中で会ったのは見た目は良いけど傍若無人な大貴族シリル。  彼は令嬢の過激なアプローチに困っていると言い、クリスタに婚約者のフリをしてくれるように依頼してきた。  それを条件に父の医療費に加えて、借金を肩代わりしてくれると言われてクリスタはその契約を承諾する。  赤貧令嬢クリスタと大貴族シリルのお話です。

処理中です...