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§ 邂逅
三
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敦史の兄だと紹介された人物は、紛れもなく拾年前に亜弥が恋をした『森克己』その人だった。
あの頃の克巳の髪は、短く刈り上げられていて、あんな風に柔らかく波打つ前髪なんてなかった。
体つきも顔つきも違う。
細身で筋肉質だった上体は一回り大きくなり、痩けていた頬もふっくらとして。面立ちの精悍な美しさは以前と変わりないが、年齢を重ねたためか、以前より幾分穏やかそうに見える。
時折見せる雄豹の如き鋭い瞳が、拾年前を彷彿とさせた。
克巳くん——。
どれほど彼に会えたらと願ったかわからない。
幸せだった日々を夢に見ては、目を覚まして泣いた。
長く辛い治療と療養の生活からようやく解放され、単独での外出を許可されたのは、退院してから半年が過ぎた後。
亜弥が真っ先に訪れたのは、克巳の部屋で。直接訊ねること、それは、あの頃の亜弥に唯一残された、克巳との連絡方法だったのだが。
最後に訪れたあの夜とは違い、心寂しさが漂う木造アパートに、何故か亜弥の胸が騒いだ。
克巳の部屋のドアベルは、壊れたまま修理された形跡もなく、試しに押してみても、果たしてベルは鳴らない。
ドアをノックしても返事はなく、外から様子を窺ってみても、窓はカーテンで閉ざされたまま。室内には人の気配も感じられなかった。
亜弥は不在を承知で、克巳の部屋のドアを背にして冷たい床へと座り込み、会いたいその一心で、冬の冷たい西日が沈み辺りが宵闇に包まれるまで、寒さに震えながら彼の帰りを待った。
あれは、曜日を変え、時間を変えて訪れた何度目かの週末。はじめて出会したアパートの住人から、克巳の転居を知らされた。
それでも、その日亜弥は、夜遅くまで克巳の部屋だったドアを背に座り込み、帰るはずのない克巳を茫然と待ち続けた。
克巳が、大好きだった。
自分の心がどれほど克巳で占められていたのかを、失ってはじめて、思い知った。
心に穴が開いたように空しく過ぎる毎日。少しずつ、少しずつ、亀の歩みのように彼のいない日常に慣れて、忘れようと努力して。それでも忘れられなくて。
「亜弥ちゃん?」
「あ……」
「大丈夫?」
「すみません。なんか……ぼーっとしちゃって」
克巳の部屋を辞して後、敦史と亜弥は行きつけの居酒屋で夕食を取った。話題の中心はもちろん、敦史の兄で。
敦史はよほど兄が好きなのだろう。お酒も入り、何時になく饒舌に克巳の優秀さを我がことのように語る。
「そんなに緊張して……明日から、大丈夫?」
「明日からなにか?」
「なんだよ、聞いてなかったの?」
苦笑する敦史から、営業部とマーケティング部合同ではじまる経営企画室主催の新規プロジェクトのアシスタントとして抜擢されたと聞かされた亜弥は、目を丸くした。
「どうしてわたしなんですか? 他に適任の方がいらっしゃると思うんですが」
「他? そうだねぇ……他、って言われても、他のメンバーは顧客と商品特化しているし、考慮しなきゃいけない問題もまあいろいろあるしねぇ。部の枠を超えて円滑に連携する必要があるから、ここはやはり亜弥ちゃんが適任でしょう?」
じつのところ、敦史が紹介する以前に、亜弥を合同チームへ加えるのは、決定事項だったようで。仕事に入る前に、亜弥を個人として兄へ紹介したかったのだ、と、いまさら聞かされても——。
いつものように自宅へ送り届けられた亜弥は、帰宅後に行う就寝前の身支度を機械的に熟し、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して一口含むと、畳へ腰を下ろしパイプベッドに背を預けた。
仕事上とはいえ、克巳との接点ができてしまった。
最悪……。
なんとはなしに見上げれば、天井板のところどころに化け物の顔のような形の染みが浮かび、亜弥を見下ろしている。
いったいどんな顔をして、総轄責任者である克巳の下で仕事をすればいいのだろう。
亜弥の心の中がどうであろうと、終わった恋。克巳の心にはもう、未練なんてあるわけがないし、亜弥を好きだと言ったのも忘れているかも知れない。
せいぜいいまもあるとしたら、唐突に消えた亜弥への怨みか憎しみくらいか。
歓迎されていないのは確かだ。亜弥は克巳の冷たい視線を思い出し、身震いする。
自分の我が侭で両親を亡くし、結果的に最愛の人をも捨てた。
疵だらけの死に損ないに、恋愛をする資格なんてあるはずがないのに、いい気になって新しい恋をしようだなんて。
「罰が当たったのね……」
身の丈に合わない甘い夢を見た自分が招いたのだ。そう考えれば合点がいくし、先の道筋も立つのだけれど。
「でも……」
なにも知らない敦史は、いつまでなにも知らないでいられるのだろうか。
弟と昔の恋人との交際を、克巳はこのまま黙って見ているつもりなのだろうか。
「ずっと……は、ないよね」
大好きだった克巳から向けられる、冷たい視線。そのたびに抉られるのは、疾うに諦め蓋をした、名残の疵痕。
いまでさえ悲鳴を上げている心は、あとほんの少しの刺激があれば、耐えきれずに壊れてしまいそうだ。
「……あははは」
涙を流せなくなったのは、いつからだったか。胸の痛みを呑み込んで、空涙を乾いた笑いで覆う。
まんじりともせずに迎えた夜明けの空には、厚い雲が垂れ込めていた。
あの頃の克巳の髪は、短く刈り上げられていて、あんな風に柔らかく波打つ前髪なんてなかった。
体つきも顔つきも違う。
細身で筋肉質だった上体は一回り大きくなり、痩けていた頬もふっくらとして。面立ちの精悍な美しさは以前と変わりないが、年齢を重ねたためか、以前より幾分穏やかそうに見える。
時折見せる雄豹の如き鋭い瞳が、拾年前を彷彿とさせた。
克巳くん——。
どれほど彼に会えたらと願ったかわからない。
幸せだった日々を夢に見ては、目を覚まして泣いた。
長く辛い治療と療養の生活からようやく解放され、単独での外出を許可されたのは、退院してから半年が過ぎた後。
亜弥が真っ先に訪れたのは、克巳の部屋で。直接訊ねること、それは、あの頃の亜弥に唯一残された、克巳との連絡方法だったのだが。
最後に訪れたあの夜とは違い、心寂しさが漂う木造アパートに、何故か亜弥の胸が騒いだ。
克巳の部屋のドアベルは、壊れたまま修理された形跡もなく、試しに押してみても、果たしてベルは鳴らない。
ドアをノックしても返事はなく、外から様子を窺ってみても、窓はカーテンで閉ざされたまま。室内には人の気配も感じられなかった。
亜弥は不在を承知で、克巳の部屋のドアを背にして冷たい床へと座り込み、会いたいその一心で、冬の冷たい西日が沈み辺りが宵闇に包まれるまで、寒さに震えながら彼の帰りを待った。
あれは、曜日を変え、時間を変えて訪れた何度目かの週末。はじめて出会したアパートの住人から、克巳の転居を知らされた。
それでも、その日亜弥は、夜遅くまで克巳の部屋だったドアを背に座り込み、帰るはずのない克巳を茫然と待ち続けた。
克巳が、大好きだった。
自分の心がどれほど克巳で占められていたのかを、失ってはじめて、思い知った。
心に穴が開いたように空しく過ぎる毎日。少しずつ、少しずつ、亀の歩みのように彼のいない日常に慣れて、忘れようと努力して。それでも忘れられなくて。
「亜弥ちゃん?」
「あ……」
「大丈夫?」
「すみません。なんか……ぼーっとしちゃって」
克巳の部屋を辞して後、敦史と亜弥は行きつけの居酒屋で夕食を取った。話題の中心はもちろん、敦史の兄で。
敦史はよほど兄が好きなのだろう。お酒も入り、何時になく饒舌に克巳の優秀さを我がことのように語る。
「そんなに緊張して……明日から、大丈夫?」
「明日からなにか?」
「なんだよ、聞いてなかったの?」
苦笑する敦史から、営業部とマーケティング部合同ではじまる経営企画室主催の新規プロジェクトのアシスタントとして抜擢されたと聞かされた亜弥は、目を丸くした。
「どうしてわたしなんですか? 他に適任の方がいらっしゃると思うんですが」
「他? そうだねぇ……他、って言われても、他のメンバーは顧客と商品特化しているし、考慮しなきゃいけない問題もまあいろいろあるしねぇ。部の枠を超えて円滑に連携する必要があるから、ここはやはり亜弥ちゃんが適任でしょう?」
じつのところ、敦史が紹介する以前に、亜弥を合同チームへ加えるのは、決定事項だったようで。仕事に入る前に、亜弥を個人として兄へ紹介したかったのだ、と、いまさら聞かされても——。
いつものように自宅へ送り届けられた亜弥は、帰宅後に行う就寝前の身支度を機械的に熟し、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して一口含むと、畳へ腰を下ろしパイプベッドに背を預けた。
仕事上とはいえ、克巳との接点ができてしまった。
最悪……。
なんとはなしに見上げれば、天井板のところどころに化け物の顔のような形の染みが浮かび、亜弥を見下ろしている。
いったいどんな顔をして、総轄責任者である克巳の下で仕事をすればいいのだろう。
亜弥の心の中がどうであろうと、終わった恋。克巳の心にはもう、未練なんてあるわけがないし、亜弥を好きだと言ったのも忘れているかも知れない。
せいぜいいまもあるとしたら、唐突に消えた亜弥への怨みか憎しみくらいか。
歓迎されていないのは確かだ。亜弥は克巳の冷たい視線を思い出し、身震いする。
自分の我が侭で両親を亡くし、結果的に最愛の人をも捨てた。
疵だらけの死に損ないに、恋愛をする資格なんてあるはずがないのに、いい気になって新しい恋をしようだなんて。
「罰が当たったのね……」
身の丈に合わない甘い夢を見た自分が招いたのだ。そう考えれば合点がいくし、先の道筋も立つのだけれど。
「でも……」
なにも知らない敦史は、いつまでなにも知らないでいられるのだろうか。
弟と昔の恋人との交際を、克巳はこのまま黙って見ているつもりなのだろうか。
「ずっと……は、ないよね」
大好きだった克巳から向けられる、冷たい視線。そのたびに抉られるのは、疾うに諦め蓋をした、名残の疵痕。
いまでさえ悲鳴を上げている心は、あとほんの少しの刺激があれば、耐えきれずに壊れてしまいそうだ。
「……あははは」
涙を流せなくなったのは、いつからだったか。胸の痛みを呑み込んで、空涙を乾いた笑いで覆う。
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